帰還
旦那様が戦場から帰還された。
その知らせに、屋敷中が慌ただしく動き始める。
およそ一年ぶりの帰宅だった。
「奥様、お迎えの準備を」
「ええ」
鏡に映る自分の顔を見つめる。
一年前とそんなに変わっていないはずだ。
大丈夫、いつも通り。
旦那様……。
無事でよかった。
本当に。
この一年間、旦那様の無事を願わない日はなかった。
だから――
門前に止まった馬車から見知らぬ女性が降りてきた時、私は一瞬言葉を失った。
腹部が大きい。
誰の目にも明らかな妊婦だった。
ざわりと周囲の空気が揺れる。
その隣に立つ旦那様は、こちらへ視線を向けようともしない。
「……旦那様」
家令が呼びかけても反応しない。
まるで聞こえていないかのようだった。
「そちらの女性は……?」
「……エレナ」
旦那様の口から出てきたのは、私の名前だった。
けれど、旦那様が見ているのは私ではない。
その女性は誰。
どんな関係なのですか。
なぜ連れてきたの。
聞きたいことはたくさんあった。
けれど、それらを全て飲み込む。
「お疲れでしょう。まずは中へ」
声が震えなかったことにほっとする。
今はただ、旦那様のご生還を喜ばなくては。
「部屋を」
小さな、掠れた声だった。
私の知っている温かな声ではなかった。
「暖かい部屋を用意してくれ」
ちらりと家令が私を見る。
私は小さく頷いた。
「かしこまりました」
家令が頭を下げる。
使用人たちが戸惑いながら動き始めた。
旦那様は使用人に案内され、浴室へ向かった。
妊婦の女性には、我が家に忠誠の厚い侍女長を付けた。
何も分からない以上、信頼できる者に任せる必要があったから。
次は……
次は、どうしたらいいのだろう。
本来であれば、旦那様の無事の帰還を祝う席を設ける予定だった。
旦那様のお好きな料理を並べて、一年ぶりの再会を喜んで……そんな温かな未来を思い描いていた。
きっと今は無理だろう。
料理長に予定変更を伝えて、それから――
ふっと息を吐いて背筋を伸ばす。
弱音を吐いている場合ではない。
私は貴族、家を守らねば。
ある程度の采配を終え、旦那様の元へと向かう。
「旦那様」
部屋の扉をノックすると、家令が扉を開いてくれた。
その表情はどこか戸惑っていた。
部屋に入ると、旦那様は窓際の椅子に座って外を睨んでいた。
「旦那様、お休みにならないのですか」
「……まだだ」
「まだ?」
「交代が来ていない」
「……っ」
ひゅっと喉が鳴る。
上げそうになった悲鳴を辛うじて飲み込み、一度ぎゅっと目を閉じた。
大丈夫、大丈夫。
私は静かに家令へ視線を向ける。
「旦那様」
長年この家を支えてくれた老人は、すぐに意図を理解して一歩前に出た。
「見張りでございましたら、私どもにお任せください」
「……」
「今夜くらいは、主人の代わりを務めさせていただきたく」
深く礼をする家令に、フッと旦那様の気配が和らいだ気がした。
「そうか」
「はい」
「異常があれば起こせ」
旦那様は立ち上がりながら言った。
「かしこまりました」
家令が恭しく頭を下げる。
その返答に満足したのか、旦那様はゆっくりとベッドへ向かおうとして、私の前で足を止めた。
「エレナ」
「はい」
「部屋は暖かかったか?」
「……はい」
喉の奥が詰まりそうになるのを堪え、自然に見えるように頷いた。
「そうか」
それだけ言って、ようやくベッドへ腰を下ろしてくれた。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど今はその痛みを奥へとしまい込む。
私は……同じ部屋で休んで大丈夫だろうか。
別室を用意した方が良いのではないだろうか。
「旦那様」
「なんだ」
「私は別室で休んだ方が――」
言い終わる前に旦那様が顔を上げる。
どこか虚ろだった瞳が、ほんの少しだけ険しくなった。
「なぜだ」
「え?」
「危ないだろう」
何が、と問う前に言葉が続けられた。
「お前は俺が守る」
その言葉は昔から何度も聞いてきたものだった。
婚姻の日も。
遠征へ向かう朝も。
いつだって旦那様はそう言った。
けれど今の旦那様は、私を見ているようで見ていない。
それでも。
その言葉だけは変わらなかった。
「分かりました。では少しだけ離れますね」
「なぜだ」
「着替えが済んでいません。今の服では休めません」
さすがにここで着替えるのは無理だ。
「だめだ。離れるな」
「お話し中失礼いたします。では旦那様、奥様にはあちらで着替えていただくのはどうでしょう」
家令が示したのは浴室だった。
「あちらならば、先ほどまで旦那様が使っていましたので、誰もいない事は確認ずみです」
「……ああ」
旦那様は浴室へ視線を向け、一瞬考え込んだ。
「すぐ戻れ」
「はい」
ようやく許可が下りて浴室へ向かう。
扉の前では見慣れた侍女が待っていた。
「奥様、お着替えを」
「ええ」
腕にはすでに寝間着が抱えられていた。
声を掛ける前に準備してくれていたようだ。
「ありがとう」
「いえ」
手早く着替え、一足先に浴室から出る。
少し慌ただしかったが仕方ない。
「お待たせしました」
「危ない事はなかったか」
「ええ、大丈夫ですわ」
旦那様は小さく頷く。
それでようやく納得したらしい。
今の旦那様には浴室までの数歩ですら、危険な場所へ向かったように見えているのだろうか。
ならば私のやるべき事は――この家が旦那様にとって安全だと分かっていただく事だ。
ようやくベッドに横になる。
私をずっと視線で追っているのが分かっているが、あえて気付かない振りをしていつも通りを演じる。
「おやすみなさいませ」
「火は絶やすな」
「承知いたしました」
部屋の明かりが落とされる。
けれど、月明りと少し残された灯りでお互いの顔が見えた。
「そこにいるな?」
「はい、いますよ」
「エレナ」
「はい」
「怖くはないか、寒くないか?」
ああ、この人は……。
涙がにじみかけたのをぐっとこらえる。
「少しだけ、おそばに寄っても?」
「ああ」
ベッドの上をゆっくりと移動して、旦那様の横にぴたりと体を寄せる。
旦那様は何も言わなかった。
「こうして旦那様がいてくださるから、何も怖くないですよ」
「……そうか」
大きな手が私の肩に触れる。
壊れものに触れるみたいに、そっと。
「おやすみなさい、旦那様」
目を閉じる。
眠れるかは分からない。
でも私がいつまでも目を開けていたら、きっと旦那様は眠れない。
だから今夜は何も考えないことにした。
あの女性のことも。
旦那様のことも。
明日からどうするのかも。
全部。
明日考えよう。




