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妻は不要とされた~壊れた夫の瞳に映るのは~  作者: ゆめ@マンドラゴラ


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1/4

帰還

 旦那様が戦場から帰還された。


 その知らせに、屋敷中が慌ただしく動き始める。

 およそ一年ぶりの帰宅だった。


「奥様、お迎えの準備を」

「ええ」


 鏡に映る自分の顔を見つめる。

 一年前とそんなに変わっていないはずだ。

 大丈夫、いつも通り。


 旦那様……。

 無事でよかった。

 本当に。


 この一年間、旦那様の無事を願わない日はなかった。


 だから――


 門前に止まった馬車から見知らぬ女性が降りてきた時、私は一瞬言葉を失った。


 腹部が大きい。

 誰の目にも明らかな妊婦だった。


 ざわりと周囲の空気が揺れる。

 その隣に立つ旦那様は、こちらへ視線を向けようともしない。


「……旦那様」


 家令が呼びかけても反応しない。

 まるで聞こえていないかのようだった。


「そちらの女性は……?」

「……エレナ」


 旦那様の口から出てきたのは、私の名前だった。

 けれど、旦那様が見ているのは私ではない。


 その女性は誰。

 どんな関係なのですか。

 なぜ連れてきたの。


 聞きたいことはたくさんあった。

 けれど、それらを全て飲み込む。


「お疲れでしょう。まずは中へ」


 声が震えなかったことにほっとする。

 今はただ、旦那様のご生還を喜ばなくては。


「部屋を」


 小さな、掠れた声だった。

 私の知っている温かな声ではなかった。


「暖かい部屋を用意してくれ」


 ちらりと家令が私を見る。

 私は小さく頷いた。


「かしこまりました」


 家令が頭を下げる。

 使用人たちが戸惑いながら動き始めた。


 旦那様は使用人に案内され、浴室へ向かった。


 妊婦の女性には、我が家に忠誠の厚い侍女長を付けた。

 何も分からない以上、信頼できる者に任せる必要があったから。


 次は……

 次は、どうしたらいいのだろう。


 本来であれば、旦那様の無事の帰還を祝う席を設ける予定だった。

 旦那様のお好きな料理を並べて、一年ぶりの再会を喜んで……そんな温かな未来を思い描いていた。


 きっと今は無理だろう。

 料理長に予定変更を伝えて、それから――


 ふっと息を吐いて背筋を伸ばす。

 弱音を吐いている場合ではない。

 私は貴族、家を守らねば。


 ある程度の采配を終え、旦那様の元へと向かう。


「旦那様」


 部屋の扉をノックすると、家令が扉を開いてくれた。

 その表情はどこか戸惑っていた。


 部屋に入ると、旦那様は窓際の椅子に座って外を睨んでいた。


「旦那様、お休みにならないのですか」

「……まだだ」

「まだ?」

「交代が来ていない」

「……っ」


 ひゅっと喉が鳴る。

 上げそうになった悲鳴を辛うじて飲み込み、一度ぎゅっと目を閉じた。


 大丈夫、大丈夫。

 私は静かに家令へ視線を向ける。


「旦那様」


 長年この家を支えてくれた老人は、すぐに意図を理解して一歩前に出た。


「見張りでございましたら、私どもにお任せください」

「……」

「今夜くらいは、主人の代わりを務めさせていただきたく」


 深く礼をする家令に、フッと旦那様の気配が和らいだ気がした。


「そうか」

「はい」

「異常があれば起こせ」


 旦那様は立ち上がりながら言った。


「かしこまりました」


 家令が恭しく頭を下げる。

 その返答に満足したのか、旦那様はゆっくりとベッドへ向かおうとして、私の前で足を止めた。


「エレナ」

「はい」

「部屋は暖かかったか?」

「……はい」


 喉の奥が詰まりそうになるのを堪え、自然に見えるように頷いた。


「そうか」


 それだけ言って、ようやくベッドへ腰を下ろしてくれた。


 胸の奥が少しだけ痛んだ。

 けれど今はその痛みを奥へとしまい込む。


 私は……同じ部屋で休んで大丈夫だろうか。

 別室を用意した方が良いのではないだろうか。


「旦那様」

「なんだ」

「私は別室で休んだ方が――」


 言い終わる前に旦那様が顔を上げる。

 どこか虚ろだった瞳が、ほんの少しだけ険しくなった。


「なぜだ」

「え?」

「危ないだろう」


 何が、と問う前に言葉が続けられた。


「お前は俺が守る」


 その言葉は昔から何度も聞いてきたものだった。


 婚姻の日も。

 遠征へ向かう朝も。

 いつだって旦那様はそう言った。


 けれど今の旦那様は、私を見ているようで見ていない。


 それでも。

 その言葉だけは変わらなかった。


「分かりました。では少しだけ離れますね」

「なぜだ」

「着替えが済んでいません。今の服では休めません」


 さすがにここで着替えるのは無理だ。


「だめだ。離れるな」

「お話し中失礼いたします。では旦那様、奥様にはあちらで着替えていただくのはどうでしょう」


 家令が示したのは浴室だった。


「あちらならば、先ほどまで旦那様が使っていましたので、誰もいない事は確認ずみです」

「……ああ」


 旦那様は浴室へ視線を向け、一瞬考え込んだ。


「すぐ戻れ」

「はい」


 ようやく許可が下りて浴室へ向かう。

 扉の前では見慣れた侍女が待っていた。


「奥様、お着替えを」

「ええ」


 腕にはすでに寝間着が抱えられていた。

 声を掛ける前に準備してくれていたようだ。


「ありがとう」

「いえ」


 手早く着替え、一足先に浴室から出る。

 少し慌ただしかったが仕方ない。


「お待たせしました」

「危ない事はなかったか」

「ええ、大丈夫ですわ」


 旦那様は小さく頷く。

 それでようやく納得したらしい。


 今の旦那様には浴室までの数歩ですら、危険な場所へ向かったように見えているのだろうか。

 ならば私のやるべき事は――この家が旦那様にとって安全だと分かっていただく事だ。


 ようやくベッドに横になる。

 私をずっと視線で追っているのが分かっているが、あえて気付かない振りをしていつも通りを演じる。


「おやすみなさいませ」

「火は絶やすな」

「承知いたしました」


 部屋の明かりが落とされる。

 けれど、月明りと少し残された灯りでお互いの顔が見えた。


「そこにいるな?」

「はい、いますよ」

「エレナ」

「はい」

「怖くはないか、寒くないか?」


 ああ、この人は……。

 涙がにじみかけたのをぐっとこらえる。


「少しだけ、おそばに寄っても?」

「ああ」


 ベッドの上をゆっくりと移動して、旦那様の横にぴたりと体を寄せる。

 旦那様は何も言わなかった。


「こうして旦那様がいてくださるから、何も怖くないですよ」

「……そうか」


 大きな手が私の肩に触れる。

 壊れものに触れるみたいに、そっと。


「おやすみなさい、旦那様」


 目を閉じる。

 眠れるかは分からない。

 でも私がいつまでも目を開けていたら、きっと旦那様は眠れない。


 だから今夜は何も考えないことにした。


 あの女性のことも。

 旦那様のことも。

 明日からどうするのかも。


 全部。

 明日考えよう。


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