episode 1
私の旦那様、テオドール・セルヴァン侯爵には好きな人がいる。
もちろんそれは妻である私……ではなくて、この国の王太子妃であるマチルダ様だ。
「いつ見ても、本当にお似合いの二人……」
私の視線の先、このセルヴァン侯爵家の屋敷の庭園には、旦那様とマチルダ様がにこやかにお茶を楽しむ姿がある。
ここでは、よくある見慣れた光景の一つだ。
マチルダ様は、この国の四大公爵家の1つであるギャリエンヌ公爵家のお生まれで、お生まれになってすぐに王太子殿下の婚約者に決まったのだそう。
その王太子であるウィルフレッド・ラスペード殿下と旦那様は同い年で、未婚の時は社交界の人気を二分する存在だったそうだ。
そして、お二人より一つ年下のマチルダ様と幼馴染で、小さい頃から三人でよく遊んでいたらしいというのも社交界では有名な話だった。
「お二人はやっぱり、相思相愛、なのかな……」
お二人の姿を見る限り、その好意は旦那様からの一方通行には到底見えなかった。
この国の王族の婚姻には、とある決まりがある。
それは、王族の正妃となれるのは、王族、もしくは四大公爵家の人間のみ、というものだ。
そのため、四大公爵家の中で最も王太子殿下と年齢の近いマチルダ様が、早くから王太子殿下の婚約者に決まったのである。
つまり、この結婚はマチルダ様のご意思ではない、ということ。
余程のことがない限り、王家との婚約を覆すことは不可能だ。
だから、きっと、マチルダ様は旦那様をお慕いしたまま、王太子殿下と結婚するしかなかったのだろう、と私は思っている。
「かわいそうな、旦那様とマチルダ様」
私にできるのは、ただこうして遠くからお二人を見守ることだけである。
そんな私と旦那様の結婚が決まったのは、1年前、私が16歳の誕生日を迎えてすぐのことだった。
この国では男女ともに16歳から結婚ができる。
借金まみれで没落寸前だった子爵家の長女だった私は、資金援助をしてくれそうな家にすぐにでも嫁ぐのだと思っていた。
だが、そんな我が家に、四大公爵家に次ぐ高位貴族である旦那様が自ら求婚に訪れ、私も両親も非常に驚いたのだ。
『コゼット嬢との結婚をお許しいただきたい』
旦那様はただ、借金を肩代わりする代わりに都合よく扱える妻が欲しかっただけのはずだ。
それなのに、きちんと私の名前を呼び、両親に頭まで下げた旦那様の姿は、今も私の目にしっかりと焼き付いている。
そうしてすぐに私と結婚した旦那様は、そのまま実家の爵位をお継ぎになり侯爵となられた。
しかし、既婚者となった今も尚、社交界での旦那様の人気は健在である。
むしろ侯爵となられた分、その人気は増しているかもしれない。
妻となった人間が、没落寸前の子爵家の令嬢ともなれば、それも致し方ないだろう。
誰もが、それならば自分にもチャンスがある、と思っているに違いない。
この国は、決して離婚を禁じてはいないのだから。
「でも、実際は無理だよね。旦那様には、マチルダ様しか見えてないんだもの」
私が選ばれたのは、ただただ都合がよかったからにすぎないのだ。
多額の借金を肩代わりしてもらった上に、実家の立て直しまでしてもらった立場だ。
旦那様が何をしようとも、文句など言えるはずもない。
「旦那様は、ただ静かにそこに居るだけの、お飾りの妻をお望みなのよ」
そう、珍しい話でもない。
妻が居た方が、都合がいいことも多々あったりするものだから。
侯爵の妻だからといって、女主人の役割を求められることもない。
ただ、与えられた一際豪華な部屋で、毎日好きなことをして過ごすだけ。
考えようによっては、この上なく幸せだと言えなくもないだろう。
それに、私はただ、こうして旦那様の姿を眺められるだけで、十分幸せだった。
「支度はできたか?」
そう言って、エスコートのために手を差し出してくださる旦那様は、本当にいつも素敵だった。
このエスコートがいつも会場に着くまでだとわかっていても、私の胸はいつも高鳴った。
もちろん、今日も。
「はい。お待たせいたしました」
「かまわない。行こう」
いつもお待たせしてしまうけれど、怒られたことは一度もない。
こんな私にも、旦那様はいつも優しいのだ。
馬車に乗るまでも、馬車の中でも、馬車を降りて会場に向かうまでも。
旦那様はいつも、完璧にエスコートをしてくださる。
そう、会場で、マチルダ様の姿を見つけるまでは。
今日は、旦那様が懇意にされている伯爵様主催のパーティーの日だ。
だが、主催者である伯爵様を見つける前に、旦那様の視界にはっきりとマチルダ様の姿が映ったようだ。
旦那様の手はあっという間に離れ、その足は真っ直ぐとマチルダ様の方へと向かった。
きっと、お二人はこの後、いつものようにバルコニーにでも出られて談笑なさることだろう。
「まぁ、セルヴァン侯爵夫人は今日もお一人ですのね」
「あら本当、侯爵様は今日も夫人をエスコートされたくないのね」
こんな嘲笑があちこちから聞こえてくるのも、いつものことだ。
でも、私はそんなの全く気にならない。
だって、ついさっきまでは、旦那様の完璧すぎるほどのエスコートをしっかりと受けていたのだから。
それから、この方たちがどれほど私を嘲笑しようとも、旦那様の心がマチルダ様にある限り、旦那様は私と離婚してこの方たちの手を取ることはないのだから。
あとは、いつものように会場の隅でおいしい食事でもいただこう、そうして私も歩き出そうとした時だった。
「やぁ、侯爵夫人、久しぶりだね」
そんなお声が後ろからかかって、どきりした。
振り返らなくても、そのお声と周囲の反応から、誰なのかはすぐにわかった。
だからこそ、まずい、と焦ってしまう。
だって、今私の真後ろにいるのは、普段は忙しいと夜会やパーティーになんてほとんど顔を見せない王太子殿下なのだ。
いつもは夜会には王太子妃であるマチルダ様が、お一人で参加している。
だからこそ、旦那様がマチルダ様をエスコートしていても、誰一人おかしいとは思わないのだ。
美しい幼馴染が、エスコート役もおらず一人で参加しているのだ。
旦那様だって、地味な妻よりも美しい妃殿下のエスコートを選ぶだろう。
きっと旦那様は、忙しい王太子殿下の代わりに妃殿下をエスコートするため、わざわざこうして参加しているのだ。
会場でお二人が一緒にいる姿を見た人たちは、皆一様にそう思っているだろうから。
しかしながら、そこにマチルダ様の夫である王太子殿下がいらっしゃれば、話は変わってしまうだろう。
王太子殿下がいらっしゃるのに、放置していらっしゃる妃殿下と、お二人の間に割り込んでまでエスコートしている侯爵様。
周囲からそんな風に見えてしまっていたらどうしよう、と私はぞっとした。
「夫人?侯爵夫人?」
再度、後ろから声がかかって、私はまたどきっとした。
このままでは、私は王太子殿下を無視し続ける侯爵夫人になってしまう、と慌てて振り返りお辞儀をする。
「お、お久しぶりです、殿下」
震える声で、そう挨拶するのが、この時の私の精一杯だった。
「あっちはあっちで、なかなか楽しそうだね」
そう言った殿下の視線の先は、旦那様とマチルダ様がいるだろうバルコニーがある。
私は冷や汗が止まらない。
「あのっ」
「だから、こっちはこっちで、楽しくやろうか?」
「はい?」
目の前の王太子殿下に、不機嫌な様子はない。
上手く隠しているだけかもしれないけれど、少なくとも今は私の目の前ですごくいい笑顔を浮かべて私に手を差し出している。
この手を取って、私が王太子殿下のエスコートを受ければ、旦那様とマチルダ様がともにいても、おかしくはなくなるのだろうか。
頭の中に浮かんだその疑問に、答えてくれる人は残念ながらどこにもいない。
わかっているのはただ一つ、王太子殿下からのお誘いを私ごときが断れるはずがないということだけだ。
「あ、ちょうどダンスの時間みたいだね」
震える手を、必死に動かして殿下の手に重ねたかと思うと、今度はそんな言葉が聞こえてくる。
私に断る資格なんてあるはずもない、わかっている、わかっているけれども。
「殿下、恐れながら、私、その、ダンスはあまり……」
お断りするのは、非常に失礼かもしれない。
それでも、足を踏みまくって怪我させるよりはずっといいはずだ。
私はそう信じて、やんわりとお断りしようとした。
しかしながら、決して崩れることのないいい笑顔が、それを許してはくれなかった。
「大丈夫だよ」
そう言われても、私は何一つ大丈夫な気はしなかったけれど。
「俺、結構リード上手いから」
そりゃあ、王太子殿下ともなれば、しっかりと身につけていらっしゃることだろう。
なんて考えているうちに、私はあれよあれよとフロアの中央に連れていかれてしまっていた。




