第五話 あなたと共に生きます
そして、アリアがヴァルテへ来て一年が経った春。
レイナルド本人が、ヴァルテ王城を訪れた。
謁見の間に通された彼は、旅塵を帯びた外套のまま立っていた。
かつての華やかさは薄れている。
頬はこけ、目の下には疲労の影があった。
それでも彼は、アリアを見るなり、当然のように口を開いた。
「アリア。戻れ」
一年ぶりに聞いた声は、驚くほど変わっていなかった。
王座の横に立ち、静かに彼を見つめた。
隣にはエリクがいる。
けれど彼は、何も言わない。
これはアリアが終わらせるべきことだと、分かってくれているのだ。
「ヴァルシアは今、未曾有の国難にある。疫病、凶作、水源の汚染。すべてお前が国を離れたせいだ」
「私が離れたせい、ですか」
「そうだ。だから戻れ。お前の罪は、私が取りなしてやる」
罪。
その言葉を胸の中で転がす。
不思議なほど、怒りは湧かなかった。
目の前にいる男は、何も変わっていない。
ただ、道具箱の中にあるはずの道具が見つからず、癇癪を起こしているだけ。
「殿下。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「私はヴァルシアに戻った後、何として扱われるのでしょう」
レイナルドは眉をひそめた。
「何を言っている。聖女に決まっているだろう」
「以前、殿下はおっしゃいました。私は世界を救うための便利な道具だと」
「それは……言葉の綾だ」
「任務が終われば不要になる、とも」
「状況が変わったのだ」
「ええ。変わりました。私はもう、誰かに不要と言われて傷つく場所には戻りません」
謁見の間に、沈黙が落ちた。
「アリア!」
レイナルドが一歩踏み出した瞬間、エリクが前に出ようとした。
だが、そっと手で制す。
守られるためではない。
自分の言葉で、終わらせるために。
「私はヴァルシア王家の所有物ではありません」
「お前はヴァルシアに生まれた女だろう!」
「はい。けれど、神の加護は王冠に宿るものではありません」
蒼い瞳に、白金の光が宿る。
それは戦場で魔王を祓った時と同じ光だった。
けれど今、その光は誰かを滅ぼすためではなく、アリア自身の尊厳を照らすためにあった。
「神の加護は、人の祈りに応えるものです。あなた方は私を捨てたのではありません」
一歩、前へ出た。
「自ら、神の加護を手放したのです」
レイナルドの顔から血の気が引いた。
「……では、我が国はどうなる」
「ヴァルシアのことは、ヴァルシアの方々でお考えください」
「民を見捨てるのか」
「民を見捨てたのは、民を守っていたものを道具と呼んだ王家です」
その言葉に、彼は息を詰まらせた。
声を荒らげず、責め立てもせず、ただ事実だけを告げる。
「私は今、ヴァルテ王国の民と共に生きています。ここで祈り、ここで働き、ここで必要とされ、大切にされています」
「アリア……」
「殿下。私はもう、戻りません」
その瞬間、謁見の間の窓から、柔らかな光が差し込んだ。
庭のリンゴの木が、白い花を揺らしている。
「地獄に堕ちろとまで言われたのです」
レイナルドは何かを言おうとしたけれど、言葉は出なかった。
彼が最後に見た彼女は、捨てられた女ではなかった。
救いを乞われても揺らがない、ひとりの聖女。
「ならば、どうかご覧ください。私が去った場所と、私が選んだ場所。どちらが地獄になったのかを」
何を反論するでもなく、レイナルドはその日のうちにヴァルテを去った。
その後、ヴァルシア王国では王太子の婚約が白紙となった。
カミラ・フォン・ロゼンベルクは侯爵家へ戻され、神殿長は虚偽の教義を広めた責任を問われた。
王家は各地の被害に追われ、長い時間をかけて、聖女に頼らない国の立て直しを迫られることになった。
それを遠い国の報せとして聞いた。
胸がまったく痛まないわけではなかったけれど、戻りたいとは思わなかった。
ヴァルテへ来て一年が経った春の終わり。
庭のリンゴの木の下で、エリクがアリアに言った。
「アリア。私と婚約してほしい」
白い花びらが、風に揺れていた。
アリアが見つめる視線の先に、エリクは真っ直ぐに立つ。
その瞳に、迷いはない。
命令するような強さも、所有するような熱もなく、ただ、誠実な願いだけがあった。
「聖女としてではなく、貴女個人に頼んでいます。この一年で、私はアリアという人を知りました。誰よりも強く、誰よりも優しく、誰よりも孤独だった人を」
「……私は、国を救うための力を持っています」
「知っています」
「これからも、きっと多くの人が私に祈りを求めます」
「それも知っています」
「私は、ただ穏やかに守られるだけの妃にはなれないかもしれません」
「貴女を閉じ込めたいわけではありません」
エリクはゆっくりと一歩近づく。
「貴女が国を救うのは、貴女が望むからです。私が命じるからではない。私が婚約してほしいのは、貴女と共に生きたいからです。それだけです」
胸の奥が、静かに震えた。
かつて、王太子妃になる未来を当然のように受け入れていた。
それは聖女の役目の先に置かれた、もう一つの役割。
けれど今、目の前にあるのは役割ではなく、選択だった。
「ただし、条件が一つあります」
「何でも聞きます」
「私がまた無理をしそうになったら、止めてください」
「もちろん」
「私も、あなたが一人で抱え込もうとしたら止めます」
「それは少し困るな」
「困ってください」
彼は一瞬きょとんとし、それから不器用に笑った。
その笑顔を見て、つられるように笑ってしまう。
白い花びらが、二人の間をゆっくりと舞い落ちる。
かつてアリアは、自分を物語の中に転生した聖女なのだと思っていた。
聖女は現れ、魔王を討ち、世界を救う。
その役目を終えれば、幸せな結末が与えられるのだと、どこかで信じていた。
けれど、違った。
幸せは、役目の報酬として与えられるものではない。
誰かに認められたから手に入るものでもない。
自分で選び、自分の足で歩いた先にあるものだ。
躊躇いながらも、彼の手を取った。
「はい。あなたと共に生きます」
エリクの手が、そっとアリアの指を包む。
その手は、彼女を縛るものではなかった。
道具として握るものでもなかった。
共に歩くための手。
遠く、鐘の音が鳴る。
ヴァルテの空は青く澄み、北部から運ばれてきたリンゴの若木には、今年初めての小さな実がついていた。
その光景を見つめながら、静かに思いを馳せる。
この国でなら、私は聖女でありながら、人として生きていける。
そして白金の光は、祝福のように、二人の足元に淡く広がっていった。
最後までお付き合いありがとうございました。
「地獄に堕ちろ」はなかなか強いワードですよね。
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