赤と金
目の前に立つ人物のアバの色は、水色だった。長さは、と視線を落として彼のアバの裾を確認すると、短いようだった。
再び本に目を戻す。
信じ難い事に、この本によれば彼の神官位は従四位だった。つまり、本神殿のトップができる立場にある神官だという事だ。
降って湧いた高位の神官を前にたじろいでいると、彼は私が抱える本を一瞥してから感心したように言った。
「勉強熱心なんですね。」
何だか教師に褒められた学生みたいな恥かしい気分になり、何と答えるべきか思いつかず、中途半端な照れ笑いを浮かべてしまった。十代の女の子がやれば可愛いが、私がやってもニタニタしているだけにしかきっと見えていない。
「失礼しました。もしやハイラスレシア語がまだ?」
「いえ、話せます。あの、すみません、そのアバの色を見て驚いてしまって。」
彼は私の平たい顔をひたと見た後で、少し首を傾げた。
「ご出身は東部地域ですか?発音がとても綺麗ですね。」
「はい。あっちです。」
あっちってどこだよ。
帝国の東にある、大陸東端は東部地域と言われ、独自の宗教を持ち、部族単位で暮らす民族がいるらしいのだが、まだ全土が帝国の支配下にあるわけではなく、帝都には東部地域から来た正民もいれば、貧しい為に出稼ぎ目的で来ている隷民もいるらしかった。
ハイラスレシア帝国には言語が異なる民族がたくさんいて、東部の民もその一つなのだ。
多分、東部地域の人々は地球で言う東洋系の顔立ちをしている民族なのだろう。
神官は私の、あっちです、という返事に満足したのか、軽く会釈をすると足音一つ立てずに私の前から去って行った。
窓の外を確認すると、夕方になっていた。
「しまった! 帰らなきゃ……。」
慌てて本をガタガタと本棚の中に戻すと、帰路についた。
水色の華奢な小瓶を開けると、瑞々しい柑橘系の香りがふわりと舞った。
食事を平らげたレイヤルクがいつものように三階へ行った今、私は居間のソファにゴロンと横になり、勝手に寛いでいた。
華奢な小瓶を飾る模様細工に指を滑らせながら、私が正民になるべきだと力説するタアナの真剣な眼差しを思い出す。
異世界に迷い込むという、こんな理不尽な境遇に陥っても、差し当たって私はどうにか生き延びている。レイヤルクは私に厳しくない上に裕福だし、隷民にしては良い待遇を享受していると思う。
だが、この先を考えるととてつもなく不安だ。私が忽然と姿を消して、家族や周りの人々はどうしているのだろう。私は散々仕事の悩みを打ち明けていたから、みずから失踪したと思われていたら、と思うとたまらない。そんな親不孝者ではない、と両親にしって貰いたい。だがそんな術はない。
静かな夜は、考えてもどうしようもない様々な事が頭の中をよぎってしまう。
どう足掻こうが、私が生まれて以来、築き上げた人生は台無しとなり、最早取り戻せないのだ。
けれどこれからの私はどうなってしまうのだろう。
そのうち、私に飽きたレイヤルクに転売されるのも怖いが、貯蓄がないのに年をとって働けなくなったらどう暮らして行けばよいのだろう。あてに出来る年金など、勿論ない。
私のシルバーライフはどうなるのだ。
ああ、老後が不安だ。
ーーーー給料が欲しい。
「なんだい、良い香りがするね。」
ぼんやり考え事をしていると、レイヤルクが水差しを片手に上階からおりて来ていた。彼の視線は私の手の中の小瓶に向けられていた。
「市場で買ったんです。足の疲れを取る香油らしいです。……タアナに強烈に勧められて。」
レイヤルクのお金を無駄遣いした事実を、やんわりとタアナに責任転嫁しておく。
レイヤルクは台所に水差しをおくと、ふうん、と呟きながら私の隣に座った。レイヤルクの体温が寝間着の布地越しに、私の膝に伝わる。彼が夜にこんなに私の近くへ来る事は今まで無かったので、急に緊張をしてしまう。
私は例え異世界人だろうと、腐っても女だし。
レイヤルクは無言で小瓶を私の手から取り上げると、前触れもなくソファから滑るように床に膝をつき、私の右足を取った。
「れ、レイヤルクさんっ!?」
そのまま私の靴を脱がせ、自分の膝の上に私の足を乗せる主に、困惑の余り半ば恐怖を覚える。
(何、これ何のプレイ!?)
足首を掬い上げられ、くすぐったさと慣れない感覚に、レイヤルクを蹴飛ばして逃げたい衝動に駆られるが、怒らせたくないので欲求をどうにか堪える。
レイヤルクは小瓶を傾け、数滴を私の足の甲に垂らすと、会って以来絶えずはめていた肘まである白い手袋を外し、その露わになった白い左手で、私の足の甲の香油を塗り広げていった。
暖かな手が、香油で絡みつく様に私の足を滑っていく。罪悪感すら呼び起こすその感覚がふくらはぎに達し、思わず息が詰まる。
レイヤルクは黙って私のふくらはぎを左手で揉み始めた。その余りに優しい手付きに、更に動揺させられる。
ああ、気持ちいい………じゃない、違うでしょ。マッサージして貰う為に買ったんじゃないのだ。
私は根気を総動員させて、口を開いた。
「レイヤルクさん、自分でできますから!そんな…」
「そんなにも私は君を疲れさせていたかい。すまないね。」
いや、確かに疲れてましたけど。だけど、隷民の足を揉む主がいるんだろうか?
隷民思考に浸かるつもりはないけど、これは異常事態だ。
レイヤルクの指が私の足の指の間に差し込まれ、解す様に動く。
うわー、気持ち良くて堪らない!
だけどだけど、やりすぎだから!
これはもう、平常心が保てない。
混乱して頭が真っ白になっている私とは対照的に、レイヤルクは私の足に灰色の瞳をじっと落としたまま静かな口調で言った。
「私は隷民の扱いに不慣れだからね。君はハイラスレシアの生活に馴染むだけで大変なのだろうし。至らない所があれば抱えず言っておくれ。術屋の手伝いも家事も、適当にやってくれれば良いんだよ。」
私はふと我に返った。それならば、今聞いてみても良いだろうか。
「あの。じゃ、教えて下さい。貯蓄もない隷民って働けなくなったらどうなるんでしょう……?」
レイヤルクは私のふくらはぎに滑らせていた手を止め、顔を上げた。純粋な驚きが浮かんだ灰色と目が合う。
「………ああ、たいていは毎年新年に主から貰える寄銭ーーー手当を貯めて、備えているんじゃないかな。」
寄銭?
ボーナスみたいなものだろうか。なんと完全な無給ではなかったのか。
俄かに私は術屋のバイトにヤル気を感じた。
「隷民向けの養老院もあるし。まあ、あまり良い評判は聞かないけれどね。」
レイヤルクはマッサージが終わった私の足に靴を履かせると、立ち上がって腕を組んだ。
「君はそんな心配をする必要は無いよ。」
多額の寄銭を毎年くれる予定があるのだろうか。
それは心強い。
将来への不安が幾らか和らぎ、ホッとした気分で私は小瓶の蓋を閉めた。硝子が擦れる涼しい音がした。
又水差しを取りに行くのか、台所へと戻り掛けるレイヤルクの後ろ姿を視界の端に捉えながら私は何の気なしに言った。
「サイトウさんは今頃何をしているんでしょうねぇ。」
レイヤルクは台所から声を張り上げて答えた。巫女姫なのだから神殿庁で数多のハイラスレシア人に手厚く保護されているだろうね、と。彼女は私とは違って働いたりはせず、神官達が付ききりでこの世界の太陽神について勉強させられているのだろうか。私は首を傾げながらレイヤルクにそう聞いた。
「どうかね。巫女姫は今ハイラスレシア語を習得するだけで精一杯だと思うよ。」
ハイラスレシア語を覚える必要なんてないではないか。
だってそんなのは私がこの家に来た時は一瞬で済んだのだから。
私は台所の方に向かって首を伸ばして言った。
「私が飲んだみたいな便利なクスリを巫女姫は使わないんですか?」
「異なる言語回路を頭脳内に刻むといった類の術や術品は、巷じゃ手に入らないよ。」
「えっ……。それじゃあ私が飲まされ…飲んだあのグロい…じゃない、変わった色の飲み物は、なんだったんですか?」
レイヤルクは水で満たされたガラスの水差しを片手に、台所から出てきた。
「あれは私の実験作だよ。私の画期的な発明品さ。画期的過ぎて世には出せないくらいにね。」
我知らず口元を押さえた。
食品として存在してはならない気がするほどに毒々しいあの色と、液体の方から動いて私の口の中に入り込んで行ったような、自然の摂理を無視したあのクスリを思い出す。
得体のしれ無い液体を飲んでしまった事を今更ながら少し後悔する。
大丈夫なんだろうか。変な後遺症とか表れたりしないだろうか。そりゃあ、あの時言葉が分からなかったらもっとパニックになっていただろうけど……。
私は聞くべきか躊躇した後、思い切って口を開いた。
「あのクスリ、何で出来ていたんですか?」
「聞かない方が良いんじゃないかな。」
極さらりとそう答えると、レイヤルクは軽やかに笑った。まるでちょっと気の利いた冗談でも言ったみたいに。
レイヤルクは水差しを直接唇に当て、傾けて飲み始めた。相変わらずの行儀の悪さだ。綺麗な顔をしていても、日頃の行儀の悪さで完全にマイナスになっている。
彼は薄い唇についた水滴をはめたままの右手の手袋で拭った。――彼は朝から晩まで肘まである手袋をはめていた。
不意に挑戦的な感情を瞳に乗せて、レイヤルクは言った。
「………君は、何で出来ていたと思う?」
「ーーー血と、金粉とか……。」
レイヤルクはさも楽しそうに高らかに笑った。
こちらは全然楽しくない。