突然のお迎え
翌朝、私は少し早めに起床した。いつまでも宿に宿泊するわけにはいかないので、まずは物件を探しに幾つかの不動産屋を巡った。
何軒目かの不動産屋を後にすると、後方から軽快な馬の蹄の音がした。何気なく振り返ると、そこには騎乗した大柄な男がいた。
黒い髪は波打ち、肩先で切り揃えられていた。同じく暗い色の瞳は、精悍で凛々しい。詰襟の濃い紫色をした上衣を銀色のベルトでしばり、下には同じく濃い紫色のズボンをはき、肩からは黒く長いマントが風にたなびいている。
感慨を込めて私は呼んだ。
「クラウスさん。」
「久しぶりだな。まあなんだ、言いたい事は山ほどあるが、兎に角今は馬車に乗ってくれ。」
クラウスの背後からは例の黒い馬車がついてきていた。神殿庁の公用車だ。窓から神官長の顔が見えたと思った瞬間、扉が開いた。今日は外套を着ておらず、白い神官服だった。肩周りに貴金属や貴石のついた豪奢な装飾をつけており、祭典の時に被る独特の長い帽子もかぶっていた。一年前に見たきりの、神官長の畏まった正装を前にして、過ぎた日々が酷く懐かしく感じた。
どうして二人がここにいるのだろう、と見上げていると、いつの間に馬を降りたのか、クラウスが私の真後ろに立っていた。何事かと言葉を発する間も無く、クラウスがいきなり屈むと私を抱き上げた。うわっ、と驚く私を無視して彼は私を馬車の車内に押し込み始めた。
「クラウス。」
諌める様な声音で神官長が声を掛けるが、彼は動じることなく私を馬車に乗せた。慌てて振り返り、クラウスを見下ろして私は問うた。
「クラウスさん、どうしたんです…?」
「話は後だ。出すぞ。」
私を華麗なまでに無視してクラウスは馬車の扉を閉めようとした。その寸前で神官長がやや苛立った口調で彼に命じた。
「待て。良いと言うまで馬車は出すな。」
神官長の指示が通ったのか、馬車は止まったままだった。神官長は視線をクラウスから私に戻すと、大層真面目な顔で言った。
「驚かないで聞いてくれ。実は、今ヒナ様が帝都劇場でサヤを待っている。」
私は言葉を失った。なんてこと。アーシードか神官長が彼女に話してしまったのだろうか。いやいや、多分エバレッタ経由だ。漠然とそんな気がした。
「サヤを連れてくるまで、劇場に籠もる、とヒナ様が主張していて、今護女官たちが神殿庁にお帰り頂くよう、ヒナ様を説得しているところだ。」
そんなことをするヒナ様は、想像がつかなかった。彼女はいつだって皆の期待にこたえようとしていたし、周りを意図的に困らせるような事はしなかった。
つまりクラウスと神官長は急遽私の意向を確認すべく、こうして駆けつけてきたのだろう。
確かに私も彼女に会いたい、それに会わなければとは思っていたが、こんな形で実現してしまうなんて思っていなかった。
困惑する私を見かねて、神官長は口を開いた。
「無理矢理連れて行くつもりはない。気乗りしないなら、また日を改めよう。」
だが窓の外に控える聖騎士のクラウスは、とてもそんな雰囲気ではなかった。彼は馬を左右にウロウロと動かし、一見して苛立っていた。
今日は神殿庁に行かないと、と思っていたけれど、こんな形になると正直困惑が大きい。だが一方で、これで今私が帝都劇場に行かなければ護女官や神官長が困るだろう、という事も心配だった。
「私ーーー、今から会って良いのかな。」
「サヤ。貴方は何一つ、ヒナ様に対して後ろめたい事などしていない。貴方がこの世界で負った苦労の殆どは、私の召喚神技の失敗のせいなのだから。」
私は手を上げて神官長の台詞を遮った。
「それを言わないで。私は自分が巫女姫であろうとなかろうと今の自分をちゃんと誇りに思っているから。」
きっぱりと言い切ったが、神官長は逆に不安そうな面持ちで私の両手を取った。そのぬくもりから、急にドキドキと胸が鳴る。
神官長は穏やかに言った。
「もっと私を頼ってくれ。私の目が届かない所で、自分だけの力でどうにかしなくても良いんだ。サヤはもっと人を頼って良いんだ。」
そうだ。私は確かに、人に頼りたくなかった。あの黄金の中庭を見たとき、私は背負っている物全部を下ろし、真っ白な人生をやり直したいと思ったのだ。
私は十分頑張ったと思うし、この世界での新たなサヤとしての生活を立て直せたと思う。精神的にも。
きっと私はもう今ならヒナ様と会えるし、ーーーヒナ様から逃げる事もないのだ。私は本物の巫女姫でも偽物でもない。サヤだ。
とはいえ、なかなか決断がつかない。
窓の外にいるクラウスの姿をちらりと見た。私が今から帝都劇場に行くと言えば、クラウスは大喜びだろう。なんとなく、強引なクラウスの思うツボになるのは釈然としない。
けれど私は一歩退くより、一歩進んで前を行く事にした。窓を開けるとクラウスに言った。
「帝都劇場まで出して。」
クラウスは即座に馬を繰り、御者に何事か命じると、馬車の横に控えた。ゆっくりと馬車が動き出す。
ここから帝都劇場はすぐ近くだ。間も無く着いてしまうだろう。神殿庁にいては私と会えないから、わざわざサイトウさんが出てきて待っていてくれているのだ。その姿を想像すると、私は異様に緊張しだした。馬車の窓の外の車窓と、中にいる神官長の間で視線を何度も往復させると、神官長は申し訳なさそうに言った。
「大丈夫か?どうしても無理なら、私からそう伝えよう。」
「大丈夫です。ただーーー一年ぶりなので、申し訳ないのと、あと本心では嬉しいだけです。きっと。」
神官長はじっと私の顔を見た後で、ぼそりと呟いた。
「私と再会したときよりも、嬉しいようだ。」
その愚痴を聞いて、思わず笑ってしまった。
釣られて神官長も一転して艶然と微笑んだ。
「ヒナ様はいつもサヤを待っていた。護女官としてではなく、友人として。」
友人ーーー。私は友人で良いのだろうか。
私を落ち着ける様に神官長が私の手を力強く握った。
神官長は指にたくさんの指輪をはめており、ゴツゴツと大ぶりのそれは、外気を反映してかとても冷たかった。そのヒヤリとした冷たさに、私は前に自分が護女官だった頃に、サイトウさんと馬車の中で話した事を思いだした。
「ルディガーは、ーーー雪が嫌いなの?」
「そうだな、好きではない。子供の頃、修行中に雪山で遭難しかけた事がある。それ以来どうにも。」
恐ろしい修行があるものだ。一体どんな修行だ。
驚いて目を白黒させていると、神官長は笑顔を浮かべた。
「たがそれも昨日で変わった。今や雪は私の中で幸せの象徴だ。」
「ルディガー………」
馬車の外をながめた。馬車はゆっくりと走っており、クラウスが並走していた。
ああ、もう直ぐヒナ様と会える。帝都劇場についたら、何て言おう?




