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黄金の中庭  作者: 岡達 英茉
第四章 ハイラスレシアの片隅で
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わかれ

 神官長は扉を開け、私を家の中に入れてくれた。

 そのまま廊下を奥へと進みながら、私に言った。あの後、没収されていた動産や不動産についての処置について話し合う為、神官長が再度レイヤルクのもとを訪ねると、彼はまた倒れたのだと。流石にレイヤルクを放置して帰る事は、神官長にも出来なかった。


「ノルトメアは寒いし、寂し過ぎる。だが一方で彼自身も私も、サヤには最期の姿を絶対に見せたくなかった。」


 最期の姿……。レイヤルクの力はもうそんなにも限界に近づいてしまったのだろうか。はやる気持ちを抑えながら、神官長の後を追った。神官長は奥にある客間の前に辿り着くと、扉を数回ノックした後で開けた。まず一番に視界には部屋の奥にある大きな窓が飛び込んできた。白いレースのカーテンを透かして差し込む陽の光が部屋中に満ちており、それが逆光となって、窓の下にある寝台に横たわる人物の顔が見えなかった。


「サヤ………」


 驚きに掠れた声は、レイヤルクのものだった。彼は寝台に横たわり、こちらを見つめていた。

 私は彼のもとに早足になって駆けつけた。

 レイヤルクの顔は頬が削げ、一層痩せた様だった。私たちは暫し言葉も無く見つめ合っていた。


「ここに来てはいけないよ。」

「………私のせいで、ごめんなさい。」

「何を言うんだい。君のせいではないよ。詫びなければならないのは、私の方だからね。術屋に戻れなくてすまないね。」


 布団の中から彼の右腕がゆっくりと出てきて、私の手に触れた。彼はもう手袋をしていなかった。私は首に掛けていた先代の巫女姫の黄金のネックレスを外して、ネックレスごと両手で彼の右手を包み込む様に握った。


「サヤ。幸せになっておくれ。」


 私は首を左右に振った。まるでレイヤルクのこの一言が、私に対して永遠のお別れを告げているみたいで、受け入れたくなかった。

 だがレイヤルクは安らかな笑みを浮かべると、神官長の方に視線を移した。


「神官長。サヤを必ず幸せにしてあげておくれ。」

「頼まれずともそのつもりだ。」

「彼女こそ正統な巫女姫だ。もし不幸にしたら、太陽神のお怒りに触れるぞ。」


 レイヤルクはそんな軽い脅しをごく真面目な顔付きで言った。ただし、最後に軽い調子で付け加えた。私や、当時の皇帝が良い例だ、と。

 神官長は部屋の端から椅子を引っ張ってきて、私に掛けるよう言ってくれた。白いその椅子は、四本の脚が蔦のような優美な曲線を描いており、レイヤルクの家へと上がる階段を連想させた。

 私はタアナの近況や、術屋の常連たちがレイヤルクをどんなに恋しがっているかを長々と話して聞かせた。その間中、当の本人は優しく微笑んで私を見ていた。


「サヤ、あの家は君にあげるよ。近所の住人は皆良い人ばかりだ。大事にしておくれ。」


 違う………。そんな事を言わせたかったのではない。少しでも元気を出して、まだ私も生きたい、術屋に戻りたい、と思って欲しかったのだ。

 私の動揺とは対照的に、レイヤルクはなぜかとても満足そうな顔をしていた。どうしてこんなにも彼は落ち着き払っているのだろう。ーーー既にとうの昔に覚悟が十分出来ているのだろうか。

 レイヤルクは淡々とした調子で続けた。


「愚かな老人の血迷い事だと思って聞いてくれるかい?神官長が君の召喚に失敗して、君を狭間の世界に落としてしまった時、それでも私は君を直ぐに探すことが出来た。」


 狭間の世界に落とされた時。あの時、私は酔っ払っていてあまり良くは覚えていないけれど、闇の裂け目に白い光を見たのだ。そして、私はその光目指して進んだ。


「君が、私を探してくれたのだと、今は思う。禁術に手を出した愚かなこの私を、永劫の時間という檻から救い出す為に。」

「レイヤルクさん………。」


 かつてガレル元神官長は、その檻に自ら望んで入った筈だったのにーーー彼はもう、逝きたいのだろうか?

 二百五十年の人生は、私には想像もつかない程長い。不老不死の身を手に入れようとした彼だったけれど、本当に永遠に生きたいと思う人はいないのではないだろうか。


「あの時、市場で売られる君を探しだせた安堵と喜びは、二百年を超える歳月の中で、最上のものだったよ。」

「………私を見つけてくれてありがとう。」

「君の召喚をやめさせなければと私はずっと思っていたよ。」

「レイヤルクさん…」

「けれど初代の君は戻って来ると約束をしている。」

「そうらしいですね。伝説によれば。」

「私は間違っていたのかな。けれど、もし今聖なる杯を壊す能力があったとしても、私にはそれができやしないだろう。今も、昔も。」



 噛みしめるように語る彼の言葉を、私は黙って聞いていた。語り終えると、レイヤルクは私の手を強く握った。そうして、目を軽く閉じた。


「太陽神の巫女姫様に、私の生と死を捧げられる。神官位の頂点を極めた者として、身に余る光栄だ。」

「レイヤルクさん………。だけど、生きるって約束してくれたじゃないですか。」

「ごめんよ。でもその時が来てしまったようだ。今度は、抗えそうにない。」


 ああ、だめだよ、と私は心の中で悲鳴を上げた。レイヤルク自身が気力を失ってしまったら、もうきっと禁術の代償に飲まれてしまう。

 再びレイヤルクの灰色の双眸が開かれると、私を見た。


「呼んでおくれーーーわたしの名を。」


 レイヤルク………と言おうとして、やめた。彼が今望んでいるのはその名ではないと分かったのだ。

 ジャン。

 ジェラルド。

 そしてレイヤルク。

 私が知るだけで彼は幾つかの名を渡り歩いた。けれど、彼はただ一度の人生を歩んでいる、ただ一人の人間だ。


「ジョシュア。」


 万感の思いを込めてそう呼び掛けると、レイヤルクはひたと私を見つめた。そして時間をかけて柔らかな表情を作ると、囁く様に言った。


「君を、愛していた。」


 私は不意の告白にやや動転したが、殆ど同時に神官長が後ろから私の両肩にそっと手を掛けたーーーーと次の瞬間、やにわに私は身体を反転させられ、椅子から殆ど落ち掛けながら、神官長の腕の中にきつく抱きしめられた。

 何事か、と問う事もできなかった。発した筈の声は私自身の耳に届かず、神官長の胸に強く顔を押し当てられていて、目が見えない。まるで何かに耳をピッタリと塞がれた様に、一切の音が聞こえなくなった。

 状況が理解出来ず、神官長の腕の中からどうにか出ようと暴れた私であったが、神官長の腕が震えている事に気付き、更に彼が何としても私がレイヤルクの方に首を向けるのを防ごうとしている事が分かった時、ようやく私は事態を察した。

 レイヤルクの身に何かが起きているのだ。そう気付くと、私は硬直して動けなかった。ーーー神官長は何か、私には決して見せたくないものを、今見ているのだ。私にも神官長にも、止める術がない、それを。

 心が震えた。こんなに急にその時が来てしまうなんて。嘘だと、私の勘違いだと思いたかったが、神官長は私の身体が押し潰されそうになるほどに、渾身の力で私を押さえ込んでおり、その必死さが全てを物語っていた。

 神官長は咄嗟に神技で私の聴力を奪っていた。禁術による代償に、今しもガレル元神官長が襲われているのだろうと分かっても、聞くに堪えない絶叫をしているのかもしれないとしても、こうして顔を背けて過ぎゆくのを待つ他ないのが、とても辛かった。だが一方で、これが本人の希望なのだと己をなんとか納得させた。きっと彼は苦しむ自分を見られたくはないだろう、と。

 私が微動だにしなくなっても、神官長の腕の筋肉は固く張り詰めたままで、彼が今直視しているであろう一人の男の死に様が、いかに残酷な物であるのかが窺い知れた。

 時間にして五分ほどだったと思うが、私にはとてつもなく長く感じた。音も光も遮断されたまま、神官長の温もりだけが確かだった。

 神官長の腕の力が弱まり、目に見えない耳栓でも取れたかの様に、耳が急に音を拾い出した。

 ゆっくりと目を開け、神官長を見上げる。

 彼は目があうと、私を解放した。汗が額を濡らし、頰周りに金の柔らかな髪が張り付いていた。その顔はいつも以上に白く見えた。

 慎重に寝台を振り返ると、そこには固く目を閉じたレイヤルクが横たわっていた。

 驚愕のあまり声が出ない。

 静かに仰臥するレイヤルクの顔に向かって震える手を伸ばし、そっと頰に触れた。顔全体は汗か涙か、最早判別がつかないがしっとりと湿っていた。安らかな死とは程遠かったに違いない。シーツや上掛けは局地的な嵐が過ぎたかのように盛大に乱れていた。切なさが込み上げた。どうしてあげることも出来なかった。

 手は左右に投げ出されていた。シーツの上に落ちる彼の右手をとると、様々な感情が一度に胸に込み上げた。その手には、私が投げ出したネックレスが握り締められていた。そしてその右手はーーー白かったのだ。

 左右で異様なコントラストを放っていた右手の濃い紫色の肌が、嘘のように元に戻っていた。

 撫でる様に触れてみると、柔らかく、まだ暖かかった。確かめざるを得ず、指先をレイヤルクの鼻先にかざすが、やはり呼気は全く感じなかった。

 逝ってしまったのだ。

 やがて掠れた声で、けれど私を安心させる様にゆっくりとした調子で神官長が言った。


「彼の魂は今、神に召された。彼は肉体的には苦しんで亡くなったかもしれないが、その心は安らかだっただろう。」

「肌の色が、元に戻ったの?」

「代償は命をもって負ったのだ。残された肉体にも、去った魂にも今は何の罪も咎もない。」


 私が今日来なければ、レイヤルクは今日死なずにすんだだろうか?きっとそうだ。彼は私にーーー先代の巫女姫であったジュリアに愛を告げられた事で、この世に対する未練を完全に失った。彼はジュリアの最後の手紙に答えたのだ。

 けれど私は今日ここを訪ねた事を後悔はしなかった。

 早晩レイヤルクは禁術の代償に屈していただろう。私たちはさいごに出会えて、きっと良かったのだ。彼の右手に握り締められたネックレスを見ながら、私はそう自分に言い聞かせた。




 

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