ひとりじゃ、なかった。
時間を気にしつつも、私は静かな図書館の中を小走りになりながら、適当な本をさがした。
次は隷民の地位について書かれた本が読みたい。しかし何列目かの本棚に差し掛かると、そこは伝記コーナーになっていた。ーーー二代目巫女姫と呼ばれてーーー赤色の革製背表紙に書かれた銀色の字を目にし、私はあれっと叫びそうになった。巫女姫に二代目とはどういう事だ。
興奮で焦りながらも本を手に取り、ふと辺りを見渡すと窓の外は暗くなりかけていた。まずい。早く帰らなければならない。だが、この本だけは最後に目を通してしまいたい。焦って震える指でページをめくる。
その本は歴代最強の力を持つと言われた、千年以上前の神官長の紹介から始まっていた。ハイラスレシア帝国における宗教上の最高権力者である神官長は長年の研究の末に、太陽神しかなし得ないとされていた召喚神技ーーー異なる世界から人を呼ぶワザーーーを確立させたのだという。その神官長はハイラスレシア帝国の宗教の正当性を体現すべく、史上初めて神官として異次元にある世界からハイラスレシア帝国に女性を召喚した。そんな人が本当に実在したのかは私には分からないが、本の中には彼女の人生が詳しく書かれていた。
彼女は太陽神の巫女姫の後継者と呼ばれ、後に二代目の巫女姫とされた。この女性は、神官長の召喚神技によって現れ、民衆からの崇拝を一身に受け、修行を積んでハイラスレシア帝国の皇帝の後宮に入りーーーこの事自体は、多様な人種と民族を支配するハイラスレシア帝国の皇帝の権威を内外に誇示する為に行われているのだろうーーーやがて後宮を出た後は各地の神殿を訪問して太陽神の為に尽くし、人々の信仰を確かなものにしたのだという。
召喚神技は太陽神から一部の神官長のみに授けられた、稀有で神聖な能力であるらしい。
神官長による異世界からの召喚。ーーー私や他の隷民の身に起きた惨事とは随分似て非なるものだ。神官長にはこちらの世界へ人を呼んで来る方法が本当にあるのだろうか。
レイヤルクをはじめとして、この世界の人々の中には確かに不思議な力を持つ人がいるけれど、召喚なんて俄かには信じ難い。もっとも私のトリップ自体が同じくらい信じ難い様な出来事だけど………。それにしても、私みたいに迷い込んでこちらに来てしまった人々と、呼ばれて来た人の扱いの差が腹立たしい。あちらは国賓級の扱いでこちらはまるで密入国者扱いじゃないか。我ながら分かりやすい比喩だ。
現代の日本ならば、「召喚」や「神官」などといったキーワードをネットで検索して調べるのが手っ取り速いのだが、ここにはそんな物はない。仕方ない。家に帰ったら、遠回しにレイヤルクに聞いてみよう。彼も術者なんだから、そういう話には精通しているだろう。
図書館の外に出てから、私は猛ダッシュで家を目指した。
家までの道のりは目抜き通りで、夜でも家々の灯りが漏れて明るいには明るいが、それでも私がこの世界に来た日の事を思い出すと、のんびり歩くわけには行かなかった。
しかもしまった事に、夕食の下ごしらえをまだしていないのだ。
レイヤルクにクビにされたら困ってしまう。
家の建物が見えてくるとようやくホッとしたが、私は走る速度を落としはしなかった。そして二階へと繋がる入口に視線をズラすと、誰かがそこに立っているのが見えた。
レイヤルクだ。
彼は階段の前に仁王立ちになり、腕を組んで私を待っていた。
更に速度を上げて、猛ダッシュで慌ててレイヤルクの元に駆けつける。人生で一番速く走ったかもしれない。
暗くてしっかり見えないが、レイヤルクのその表情はどこか怒っている様に思えた。
「君は何を考えているんだ。」
「すみません。今すぐ食事の支度をしますね!」
息を切らしながら階段を上がろうとすると、彼が私の名を呼んだ。振り返るとレイヤルクはまだ腕を組んで、私を下からジッと見ていた。
「そんな事を言っているんじゃないよ。日が落ちたら、女性が独り歩きなどするものじゃない。帝都は物だけでなく、危険な輩も集まる場所だからね。」
もう一度詫びながら、私が頭を下げるとレイヤルクは階段を上り、私のいる位置から一段下で止まった。その近さに更に上へ上ろうかと迷ったが、彼は私がそうする前に腕を掴んできた。
私を見る目はいつもの柔らかなものではなく、何かを読み取ろうとする、鋭い灰色だった。
「こんなに遅くなるまでどこに行っていたんだい?」
「図書館で……色々勉強していました。」
家の中に入ると超特急で料理を開始した。
物凄い勢いで野菜を切り、野菜スープを作り、正体不明な肉を焼く。グルメな主だったら殺される事間違いなしだ。
食事の間中、レイヤルクはどこか不機嫌そうにしていた。
とてもだけど召喚神技って知っていますか?なんて気軽に聞ける雰囲気じゃない。作ったご飯がマズ過ぎたかと心配にもなったが、彼は鍋に残っていたスープをおかわりしていたから、密かに胸を撫で下ろした。
究極の味音痴なのだろう。
食後にお茶を入れると、レイヤルクは食卓から居間に移り、ソファにどかりと腰を下ろした。長い髪がソファに滝の様に広がる。
彼はお茶には手を付けず、暫しただそのカップに描かれた赤い花を眺めていた。いつもは食後はさっさと三階にある倉庫に行き、古びた書物を読みながら術の研究とやらをするのに、今晩は居間に居座っている。少々手持ち無沙汰で、どうして良いか分からない。
フルーツでもあればデザートとして出せたが、生憎今朝食べ切ってしまった。
レイヤルクはソファの肘掛けに上半身の体重を預けながら、つい、と私に視線を寄越した。いつもの胡散臭いまでの爽やかなスマイルはその片鱗も見えない。術屋の常連さんに見せてやりたい。
「質問がたくさんあるんじゃないのかい?図書館で何を調べてきた?」
どきんと胸が鳴り、私はもじもじしながら、別に、と答えにならない答えをした。
「君はあまりに何も尋ねて来ないから、時々本当は異界から来たのではなくて、大陸東部地域からの出稼ぎ不法移民なんじゃないかと思ってしまいそうだよ。」
心臓がどくどくと鳴る。
レイヤルクは音も無くソファから立ち上がり、立ち尽くす私の正面まで来て、見下ろした。
私を見つめるその灰色の目は、感情が一切込められておらず、何を考えているのかさっぱり読み取れない。私は思い切って口を開いた。
「あのう、異世界からの太陽神の巫女姫のお話って、作り話でしょうか?」
舌が緊張で引きつりそうになる。
レイヤルクは驚いて一瞬見開いた目を私に向けてから、淡々と答えた。巫女姫召喚はハイラスレシア帝国の一大行事であり、作り話などではない、と。そこで私が、召喚はしょっちゅう行われるのか、誰でもやろうと思えばできるのか、と尋ねると彼は投げやりな笑みを見せながら言った。
「まさか。召喚神技を使える神官長は百年に一度現れるか否か、と言われているのだよ。その上神官長の召喚神技は常に敵対国や異端者からの妨害に晒されるし、いつも異界に巫女姫が見つかるとは限らないからなかなか成功しないんだ。前回巫女姫の召喚が成功したのは、二百五十年前だね。」
召喚は大層難しいらしい。視線を上げると灰色の瞳とぶつかった。それはふい、と逸らされ宙へ流された。
「その、例えば召喚神技ができる様な強い神官長なら、もしかしたら私を元居た場所に戻せますか?」
「神官長の召喚神技は巫女姫を呼ぶ為に研究されたものなんだよ。巫女姫は信仰の対象だからね、以前も言ったけれど戻す必要も無けれは術も無いんだ。」
ああ、そんなにもすっぱりと私の最後の望みを絶たないで欲しい。召喚の話を知って、もしかして帰る方法があるかも知れない、と勝手に期待してしまったのだ。
立ち眩みすら起こしそうな厳しいお知らせの前に、頭を抱えた。次いで掛けられた声は以外にも優しいものだった。
「この状況が納得出来ないのは分かるよ。けれどね、最も不運なのは裂け目から世界と世界の狭間の空間に落ちて永劫の時を彷徨うケースなんだよ。」
狭間の空間ーーーあの一瞬彷徨った漆黒の空間を思い出し、血の気が引いた。あそこから出られなくなる人もいるのだろうか。なんて事………。
「ちなみに五年前に即位した今の神官長は、異例の若さながら呆れるほど神技に長けていてね。巫女姫の召喚にごく最近成功したんだよ。」
私は言われた内容が直ぐには飲み込めず、えっ、と間抜けな声を出した。
レイヤルクは居間を横切り、本棚の横の収納を開けた。その中から細かな印字のされた紙の束を取り出すと、ソファの前のテーブルに広げた。
ハイラスレシアの新聞だよ、と呟きながら彼は肘まである白い手袋をはめた指先で、紙面を飾る一際大きな字を指した。
第八代巫女姫ヒナ・サイトウ様現るーーー私は汗で湿りだす手で記事を掴んだ。
日本の新聞と違って写真等はなく、文字だけだったが、十分過ぎる程のインパクトが私にはあった。
召喚なんてものが本当にあるなんてーーー!それに、ヒナ・サイトウ。これは日本人の名前ではないか。しかも滅茶苦茶今風な名前だし。
「先週、当代になってから初めての召喚神技が行われたんだよ。召喚に二百五十年振りに成功し、神殿庁に異界からの娘が下りた。黒髪黒目の可憐な美少女らしいね。あの日は召喚の成功に帝国中が沸き、お祭り騒ぎになっていたよ。丁度君がうちに来た日さ。」
私がこの家の中から初めて見たハイラスレシア帝国の夜。確かに外はお祭りで盛り上がっていた。あの日私と同じく、別の世界からもう一人、こちらの世界に来ていたなんて。
これは偶然だろうか?
レイヤルクは私から顔を逸らし、暗い窓の外を見ていた。
「レイヤルクさん……。私とサイトウさんは同じ国から来ているかもしれません。神殿庁に行けばサイトウさんに会えますか?」
「例え出身地が同じでも、隷民と巫女姫では立場が天と地程も違うんだよ。だいたい巫女姫が一般人と会う事なんてない。」
付け加える様にレイヤルクは言った。会ってどうするんだい、と。
どうするーーー?
ただ、私と同じ日本人の女の子がこんな訳のわからない宗教儀式に巻き込まれていると思うと、会って助け合いたいと思うだけだ。それに純粋に郷愁も感じた。
レイヤルクは私に向き直り、覗きこむ様にして私の視線をとらえた。
「それに巫女姫は単なる人間ではないよ。神官長が召喚神技で呼び寄せる事ができるのは、古に太陽神が召喚した巫女姫の魂を持つ、若く美しい女性だけだと言われている。巫女姫は常に先代の生まれ変わりなのさ。」
「生まれ変わり?」
レイヤルクはふっ、と柔らかい笑みを見せた。
「信じ無いかい?君の世界にはそういう概念は無いかい?」
輪廻転生という考え自体は色んな国にある。勿論無い国もあるだろう。私は個人的には生まれ変わりという考え方には否定的だった。生物なんて所詮身体が死ねばそれで終わりだ。魂なんてものは、人間の大脳新皮質が創り出す幻みたいなものじゃないか。
「レイヤルクさんは信じているんですか?」
彼はどこか脱力した様に笑い、視線を宙にやった。その後彼は自分の手を見つめながら呟いた。
「痛い所を突くね。私はとっくの昔に信仰心を捨てた男だからね。正直、分からない。」




