休暇
その寝台で目が覚めた時、私は一瞬自分が何処にいるのか分からなかった。
白い壁が視界に入り、少し硬いマットレスを背中には感じた。
カーテンの隙間から溢れる陽の光を見つめ、徐々に思い出した。
ここは、都のレイヤルクの家だ。
のろのろと寝台から下りると、広い家の中のカーテンを開けて回る。
昨夜、神官長はノルトメアから戻ると、私を自分の家に泊めてくれようとしたが、私はそれを遠慮した。休暇はまだ長いのに、神官長の自宅に寝泊まりする事に引け目を感じた。何より私はレイヤルクと家の管理を約束したのだ。そもそもこの世界で私には家という物がない。休暇を与えられて神殿庁を一歩出れば、一応一番慣れた場所はレイヤルクの家なのだった。
私は家の外に出て、道端に立つと、何気なく神殿庁の方角を見た。神殿庁の建物自体はここからは見えないが、サイトウさんや神官長たちの事を考えた。
「サヤ!?」
ぼんやりしていた私は、隣から上がった黄色い声に驚いた。振り向くと、白いエプロンをしたタアナが、まるで幽霊でも見る様な、信じられない、と言った見開かれた目で私を見ていた。
笑顔で私が朝の挨拶をすると、彼女は私の両手を取った。
「帰ってきたの?ご、護女官は?く、クビになったの………!?」
何処をどう話そう、と苦笑しながら私は肯定した。
そしてレイヤルクさんがもうすぐ別の街から帰ってくるから、その準備をしているのだ、と教えた。
「そうなの。おかえり、サヤ。」
あまり多くは尋ねず、タアナは明るい笑顔でそう言ってくれた。おかえり、と誰かに言って貰えるのが、これ程嬉しかった事はないかもしれない。
私も微笑しながら、ただいま、と返した。
私たちはお喋りをしながら、店の前を掃除した。
タアナはレイヤルクのお得意さんがいかに術屋の再開を熱望していたかを、力説してくれた。私はこの話を一言一句漏らさず、レイヤルク本人に伝えたくて堪らなくなった。
みんな、レイヤルクの帰りを待っていてくれているのだ。
その日から私の休暇は急に穏やかで単調なものになった。
神殿庁や後宮での、一息つく間すらない程の忙しい毎日が、別世界での出来事にさえ感じた。
巫女姫が後宮から帰還したので、新たにまた仕事が忙しくなった神官長は、こちらには顔を出さなかった。タアナが言うには、巫女姫のいる神殿庁には毎日、信心深いハイラスレシアの人々がたくさん駆け付け、賑わっているらしかった。
私は毎日自分のペースで寝起きし、術屋と家の掃除をし、時折街中を久々に歩き回った。家の掃除だけでは時間を持て余してしまうので、色々と帝都で一人で外食を堪能したり。思えばこの世界へ来てから、そんな事をするのも初めてだった。レイヤルクからの音沙汰が無いのに待つだけというのは、日が経つにつれ、やきもきせざるを得なかった。
ーーーレイヤルクさん、私の休暇が終わっちゃう前に帰ってきてよ。
私から押しかけて、伝えたいことは伝えたのだ。決めるのは彼だし、今は待つしか無い。
レイヤルクの家から直ぐそばの、目抜通り沿いには幾つもの高級レストランが並んでいた。
その日私は、その一つのとあるレストランに行ってみた。
訪ねてみると、内装は外装に劣らず豪華で、メニューの値段設定も極めて高く、かなりの高級レストランだった。
私はやたら高いスープと肉料理のひと口ひと口を大事にしながら、味わった。
店を後にすると、外に出た時点で後ろから声をかけ掛けられた。
振り返ると、クラウスが立っていた。
私服を着ていたので、一瞬誰か分からなかった。だが纏う力強いオーラは変わらず誇り高い聖騎士のクラウスだった。なるほど今日は神殿庁の休日だ。流石名門貴族の家の人間なだけあって、クラウスは休日にこんなレストランに出入りをしているのか。
「サヤ。奇遇だな。こんな所にいたのか!」
彼は綺麗な女性を連れていた。その女性に先に帰る様、一言簡潔に伝えると、彼は私の腕を掴んだ。
「帝都にいたのか?てっきり遠くに出かけているのかと。ヒナ様がどれほどお前を心配しているか………!」
「クラウスさん、今の美人さんは彼女さんですか?」
「違う!妹だ。………そんな事はどうでも良い。」
良くない。サイトウさんがいながら、他に彼女がいたら大問題だ。
クラウスは私の腕を離しそうにないし、食ってかかりそうな勢いで私を凝視しているので、私は休暇の間、元の主人の家の管理を臨時で今していると伝えた。するとクラウスは、あの術屋か、とあからさまに嫌な顔をした。
「レイヤルクさんは、今具合が悪いんです。それにもうじきお引越しされるので…」
「なんでそんなに元の主人に拘るんだ。だいたい、護女官になどそうそうなれるものではないんだぞ。」
そのままクラウスは私がレイヤルクを探しに行くとヒナ様に言った件が、どれほどヒナ様を驚かせ、傷つけたかを切々と訴えてきた。彼が言うにはヒナ様は私が休みに入った後、随分私の件で落ち込んでいるらしかった。私がレイヤルクとの間に悩みや心配事を抱えており、それに仕えているサイトウさんが気付くべきだったのに、そう出来なかったのは自分の落ち度だと。サイトウさんは私に支えてもらうばかりで、同じく本来心の拠り所が必要だった私の心を折ってしまったのではないか、などなど。
クラウスに対して私は勿論どれも否定したが、彼は納得しなかった。彼の怒れる瞳が雄弁に語っていたーーー俺はお前を心配しているのではない、お前の行為が巫女姫の心を痛めている事が、腹立たしいのだ、と。
「ヒナ様にとって、お前は最大の理解者だった。だがお前にとっては、そうではないのか?」
私は答えに詰まった。私の中では、どちらかを天秤にかけたつもりはない。だがレイヤルクに関しては、本人から直接聞いて確かめたい事がたくさんあったのだ。もしや二度と会えないかとも考えたのだ。今はその心配事はなくなったけれど、でもだからといって休暇を切り上げて神殿庁に戻る気にはならなかった。
「私にとっても、ヒナ様は妹みたいな存在ですよ。」
「だったら戻ったらそうお伝えしてくれ。お前はいないし、神官長も一昨日から珍しくお休みされているから、ヒナ様も色々動揺されている。」
分かりました、と言おうとして、固まった。
「神官長がお休みされてるんですか?」
「ああ。俺が知る限り初めての事だ。お風邪らしいが…」
クラウスはいまだ何事かを話し続けていたが、私は別の事を考え始め、彼の台詞は次第に頭の中に入ってこなくなった。神官長が最近出勤してないなんて、全然知らなかった。私がノルトメアで彼を呼び出した時は仕事中だったはずだ。あの後体調を崩したのだろうか。
ーーー果たして、あの夜私が井戸で願いの剣を抜く時に心配していた事は、解決したのだろうか?
レイヤルクは本当にまだ力が残っているのだろうか。
私は都合よく騙されたのかもしれない。現実を見るのが怖くて、敢えて見ようとしなかったのかもしれない。
事実、胸の願いの剣はまだ薄く残されていた。どんどん薄く細くはなっているが、時限式だったのだとすれば、逆に説明がつかない。なぜなら、ジュリアの水晶に刻まれた願いの剣も、同じく消えそうになりつつあるからだ。
それに、あれ程レイヤルクを敵視した神官長が、なぜ彼の帰都を許したのだろう。私を散々心配して、私がレイヤルクの家に住む事をなかなか認めてくれなかった神官長が、なぜ今私にちっとも会いに来ないのか。
ーーー私は呑気に術屋の掃除などをしている場合ではないのかもしれない。待っていたら、取り返しがつかなくなるかも知れない。
「クラウスさんは、ヒナ様を幸せにしてあげて下さいね。」
「?あ、ああ。な、なんだ突然。………一生かけて守り抜くつもりだ。」
私はそれを聞いて、安堵した。
「おい、どこに行く!」
急に踵を返した私を、クラウスが止めた。
「神官長のご自宅です。」
クラウスは瞬間、目を見開いて驚いた様子だったが、私はそんな彼をおいて脇目も振らず、神官長の家を目指した。
家を訪ねると神官長は玄関先で応対してくれた。
神官長は私の唐突な訪問に若干の驚きを表したが、私は構わず言った。
「体調は大丈夫?休んでいると聞いたの。」
「ああーーーそれでわざわざ来てくれたのか。もう、殆ど治りかけているから、明日には出勤するつもりだ。」
確かに、声も掠れたり、鼻声になっていたりはしない様だ。酷い風邪ではなさそうなので、ひとまず胸をなでおろした。
でも、だとすると………。
「よかった………あの、レイヤルクさんがいつノルトメアから戻るのか聞いてない?」
「それは私にも分からない。」
そう言われるだろうとは予想していた。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
それでは何をしに来たのか分からない。
「家の権利って、まだレイヤルクさんに移ってないよね?」
「それは………」
神官長はそれ以上を言おうとはしなかった。ただ、彼が何かを隠しているのを、私は敏感に感じ取った。
「レイヤルクさんには、本当にまだ力が残されているの?。」
「なぜサヤは私がそれを知ると思う?」
「力の事は私にはさっぱり分からないから。お願い、知っている事を教えて。隠し事をしないで。」
神官長は少しの間、どうすべきかをまよっている様子だった。身体の前で腕を組み、ややあってから口を開いた。
「神官の力の持久力は、精神面に依存する。要は、彼がこの先も尚、永遠に生きたいと思っているかが肝要なんだ。」
だけど、彼は私が生きているうちは死なないと約束してくれたはずだ。だから…。
「サヤ。以前も言ったが………ガレル神官長は、先代の巫女姫を愛していたのだろう。彼が愚かだったのは、二世紀以上もの間、己の気持ちに気付かなかった事だ。いや、気付きたくなかったのかもしれない。」
そうなのだろうか。レイヤルク自身はそれを否定していたけれど。それに例えガレル神官長がジュリアを愛していたとしても、その気持ちがジュリアに伝わることはなかった。
伝わっていれば、もしかしたらジュリアはあのネックレスを後生大事に抱えていたかも知れない。
そうだ。あれを、手放さなければ………?私は沸き起こった疑問を自分の中では処理し切れず、話の流れに無関係だと気付きつつも、神官長に聞いてみた。
「神官長。もしーーーもし、願いの剣が手元にあれば、先代の巫女姫は死なずに済んでいたと思う?」
私は息を詰めて神官長の答えを待った。神官長は直ぐには答えず、少しの間私を真っ直ぐに見つめていた。その沈黙の間、私の心臓は早鐘を打っていた。ーーー私は恐らくもう長い事、この疑問に対する答えを知りたくて仕方がなかったのだ。
私は願いの剣を手放さなければ良かったのか。
「ジュリア様は、どうあっても亡くなる運命だった。」
神官長はいつもの低音が響く声で、はっきりと、残酷なまでに淡々と語った。
「身体中に回った正体不明の毒を、瞬時に抜く事は例えガレル神官長であったとしても、不可能だっただろう。ーーージュリア様は、願いの剣を捨てたせいで亡くなったのではない。無論、その御子も。」
私の中にその回答はストンと落ちてきた。まるでどうしても見つからなかったパズルの最後の1ピースが、あるべき所に収まったような感覚だった。
私の心の奥底で、悔い続けていた先代の巫女姫の暗い心情の欠片が、この瞬間に消えて亡くなった様な気がした。
果たして二百五十年前、レイヤルクに何が出来たのかは私には分からない。けれど神官長のこの一言で、ジュリアの心は救われたのだ。
私は呼吸を落ち着けると、再び尋ねた。
「神官長、レイヤルクさんの力は、いま………?」
「ガレル神官長の禁術の力の源は、ジュリア様への愛だ。彼女の生まれ変わりと再び出会えた事で、その目的は達成された。結果、生への執着が薄れ、力を急激に失ったのだ。」
私は目を見開いて、ただ聞き入った。
逆であって欲しかった。レイヤルクの無限に思えた力に、この世界へ再び現れた私が、最早後戻り出来ないさいごの一撃を浴びせたのだろうか。
黄金のネックレスは私がジュリアである事の、無二の証拠となった。衰えかけていた彼の力に、それを支えた精神力に、私はトドメをさしたのかも知れない。
「あのネックレスのせいで…」
「気にやむ必要はない。長過ぎた生だ。実のところ恐らく彼自身がその日を一番待っていた。」
「レイヤルクさんは、いまどこに?」
「彼はここにいる。」




