代償
私は看病に専念する羽目になった。
この状態の彼を一人にしたら、一体どうなってしまうのだろう。
レイヤルクは食欲がなかったので、私は食事がわりに絞った果汁を飲ませた。濡らした冷たい手拭いを額に当ててやると、彼はとても気持ち良さそうにしたので、頻繁に水をかえた。
一旦自分のお昼ご飯を食べに居間に行き、少し後にレイヤルクの寝室に行くと、彼は静かに横たわっていた。
心地よく寝ているのか、と安堵しながら静かに近寄り、けれどふと不安になった。
余りにも静かに寝ているのだ。
私はレイヤルクの様子をよく観察しよう、と目を見開いて寝台の脇に立った。
目は伏せられ、口は閉じているし、呼吸音も聞こえない。ーーー息、してるんだろうか!?
震える手でレイヤルクの胸もとから、上掛けを剝がす。
目をこらすと、ゆっくりとその胸は上下していた。
「良かった。」
思わず声が口から漏れた。
張り詰めていた気が一気にぬけて、その場に座り込んだ。そのまま寝台に寄りかかるようにして、私は目を閉じた。
夕方になってもレイヤルクは寝込んだままだった。軽く部屋の換気をしたり、使わせてもらった部屋の掃除をしたりして私は過ごした。このまま、彼は良くならないのではないか、という疑問すら時折脳裏を掠めた。私はもはや帰るタイミングを完全に失っていた。
夕食を食べられそうか尋ねに彼の部屋に再び行くと、レイヤルクは寝台の上で荒い息を立てて、枕に顔を半ば埋め、ほとんどうつ伏せになっていた。苦しいのだろうか、と焦りながら近づいて、彼が自分の右腕の肘辺りを左手で押さえているのが分かった。
不規則に発せられる呻き声。目を凝らせば、両肩が小刻みに震えている。ーーー腕が、痛むのだろうか?
レイヤルクは私が部屋に入って来たことにさえ気づいていない様だった。
流れ落ちる長い髪に隠れて顔は見えなかったが、苦悶の表情を浮かべているのだろうという事は、大の男が悶え身をよじらせるその姿から、容易に想像できた。
私が彼の隷民だったころ、彼は半日寝ていれば治る、と言っていた。実際にはもっと長く寝込んでいたけれど、夕食の時間にはすっかり良くなっていた。それなのに今回は、まだ快復の気配もない。
あまりに苦しそうなその様子に、居ても立っても居られず、何とかしてやりたいと思うものの、心ばかりが先立ち、私は寝台の横で無意味に右往左往するしかなかった。いや、私だけではない。この世の誰も、彼をどうにかしてやるすべを持たないのだ。
禁術からレイヤルクを救う方法など、存在しない。
やがてレイヤルクはのたうつ様にして、身体を反転させた。すっかり露わになったその右手は、相変わらず毒々しい程の濃い紫色をしていた。
それを白い左手の指が肌に食い込まんばかりに強く、押さえている。私はこんなにも苦しそうにする人を、今まで、見たことがなかった。
ーーー私の為に禁を犯し、私のせいでその代償を払う時期を早めたのかも知れない。
そう考えてしまうと、罪悪感で一杯になり、胸が押し潰されそうだった。
レイヤルクの目が薄っすらと開き、私を見とめた。灰色の瞳が微かに見開かれる。
私は意を決して彼の右手にふれ、懸命に摩った。それだけだけど、ほんの僅かでも痛みが和らぐのなら。効果があったのか、若しくはその気力がなかったのかは分からないが、彼は私を拒絶したりはしなかった。
誰か教えて欲しい。私はどうしたら良いのか。
ガレル神官長の罪は、彼が抱いた罪悪感は、こうまでして償わなければいけないほどのものだったのだろうか。
レイヤルクは痛みを抑える為と思しき神技を、息も絶え絶えに懸命に唱えていた。だが苦しげな呻き声は止むことなく、勢い良く寝返りを打った弾みで、掛け布団が床に落ちた。仰臥した姿勢で右手を宙に上げ、それを押さえる左手の指の爪は、痛みに堪えるように強く皮膚に食い込んでおり、ところどころから血が出ていた。顔を歪ませて変色した腕を上に上げるその様は、かつて神殿庁の資料室で見た、あの恐ろしい絵を連想させた。
私はレイヤルクの右手にしがみついた。
「許します!」
彼が腕を持ち上げるのを邪魔するかの様に、その紫色の腕を力づくで寝台の上に押し下げる。
「私は彼を許します!だから神様、助けてあげて下さい!」
それは最早悲鳴に近かった。レイヤルクの腕は、人の手とは思えないほどの熱を帯びていた。詠唱は断末魔の唸り声の中に消え、それに相対する様にレイヤルクの腕が震えていく。ーーーこのままでは、どうにかなってしまう。………死んでしまうかも知れない!!
寝台に上半身で乗り上げ、暴れるレイヤルクの右手を両手で胸元にかき抱き、我知らず口走った。
「助けて!!誰かっ!」
その時だった。
ドサリ、と何か重たい物が床に落ちる音がして、ぎょっとして振り返ると人がいた。正確にいえば、誰かが床に転がっていた。幾重にも重ねられた白い装束は見慣れたものであり、神官服だと瞬時に分かった。床に倒れていたその人物は身体を起こして顔を上げーーー私たちは互いに、これ以上はないと言うほど目を見開き、見つめ合っていた。
「神官長ーーーどうやってここに。な、なぜ。」
突如現れた神官長の姿に困惑しながらも、気づいた。
願いの剣だ。私は今、神官長が施した願いの剣を抜いてしまったのだ。
神官長は床に膝をついたまま、立ち上がらなかった。正確に言えば、立てない様だった。
彼はこめかみの辺りを押さえて、激しく瞬きをしていた。ややあって、彼は信じられない、といった声色で言った。
「ここは、ノルトメアか?」
「そ、そうです。」
いまだ床に座り込んだ状態の神官長は、視線だけを動かしてレイヤルクを見た。レイヤルクは荒い息をしながら、神官長を見つめ返していた。
突然自分の意思とは無関係に力を使われるという事が、どれほどの衝撃を肉体的・精神的にも与えるのか、私は分かっていなかった。神官長は立とうとはしていたが、頭を押さえたまま未だ立てなかった。転移の神義を自分で行うよりも遥かに大きな力を要したに違いない。私がレイヤルクの力を借りて、井戸から拾い物をした時も、レイヤルクに同じくらいのダメージを与えたのかと思うと、ゾッとした。
神官長はようやく立ち上がると、レイヤルクを見つめて黙り込んでいた。その綺麗な瞳が、ゆっくりと険しくなっていく。
助けを求めて神官長を見上げる私の方を振り向くと、彼は聞こえるか聞こえないかの小さな溜息を吐いた。その後でレイヤルクに向けて右手をかざし、何事か短く詠唱をした。
神官長が右手をかざして数秒も経たない内に、呻いていたレイヤルクが唐突に脱力し、沈黙した。目は閉じられ、手はダラリと寝台の上に落ちた。
「レイヤルクさん…?」
変貌ぶりにまさか死んだのだろうか、と身体を揺するが、何の反応も無い。
「昏倒させた。」
それしか方法が無かったのだろう、と思うとやるせ無かった。私は神官長に礼を言うのも忘れて、静かに横たわる彼の右腕を取り、その袖を捲り上げた。肘まで捲り、その変色が上腕に達しているのを目に留め、激しいショックを受けた。
嘘、嘘、と動揺のあまりに泣き出しそうな情けない声を発しながら、袖を更に上に捲り、変色がどこまで進んでしまったのかを確認する。
それは肩まで達していた。袖を放して今度は襟を掴み、そっと広げる。肩甲骨の手前まで濃い紫色は広がっていた。
ーーー私のせいだ。
身体の中心がギュッと絞られた様な痛みを感じた。二百年もの間、肘までの範囲でおさまっていたのに、私がレイヤルクの前に登場してから、変色が一気に進んだのだ。もしこれが首まで、いや、顔まで達したら果たしてどうなる?
「何があったんだ。話してくれ。」
困惑する私とは対照的に、至極冷静な声で神官長が私の肩にそっと手を掛けた。
彼は私の肩を両側から支えて私を立たせ、レイヤルクの身体から離した。
「見ていても仕方が無い。落ち着いて話してくれ。」
神官長の誘導で部屋から出て、居間へ行くと私は徐々に頭が冷えてきた。そして、居間の真ん中で私をじっと見つめて立っている神官長の方を、改めて向いた。彼は真紅のアバを掛けたままだ。まだ夕食前のこの時間だ。当然、神殿庁で執務中だったはずだ。ましてやまだ巫女姫が後宮から帰還したばかりだ。忙しく何かをしていた真っ最中に私が呼び出したに違いない。
「いきなりお力を拝借してしまって、申し訳ありません。レイヤルクさんが、」
言っている途中で神官長は私の唇に人差し指を当てた。
「何も詫びることは無い。敬語ももう不要だと言ったはずだ。」
そうして神官長は私を気の毒そうに見つめ、少しの沈黙の後、口を開いた。
「サヤ。この世の誰も、あの男が禁術で死に行くのを止める事は出来ない。その時期を延ばすことも。」
とても誠意のこもった口調だった。だが、だからこそ胸にグサリとささった。
「時期を縮めることは可能なんですね。私が、その時期を縮めてしまった………。結果的にレイヤルクさんの命を縮めた…」
「サヤ。あの男は、本来ならとうに死んでいたはずの人間だ。」
神官長は淡々とした声で続けた。
「それに私の巫女姫召喚を妨害し、サヤを召喚した事の方が余程力を使ったはずだ。それを言うなら私が彼の寿命を縮めている。」
「でも…」
「これはそんな単純なものではない。」
神官長は私をソファに座らせ、落ち着かせた。膝が付くほど近くに座ると、私の手を握った。
「あの男はーーーレイヤルクは何を話した?」
私はノルトメアに来てから、彼が私に打ち明けた全てを神官長に伝えた。




