日の出
その日は神官長の家に泊めてもらった。
私は客間の飾り気の無い水色のベッドカバーを剥がすと、疲れた身体を横たえた。
身体は休息を必要としているはずなのに、眠気は一向に訪れてはくれなかった。冴えてしまった頭が次から次へと色々な考え事を始めてしまい、更に眠れなくなる悪循環に陥った。数え切れない回数の寝返りを打ち、そのうち廊下のほうからどこかの扉が閉まる様な、バタンという音がした。
微かな音だったが、気になって私は身体を起こして廊下の方向を見た。こんな時間に、誰だろう?ーーーいや、神官長はここに一人で暮らしている筈だから、彼以外にあり得ない。彼も眠れないのだろうか。
ふらりと寝台から降りると、私は部屋の外に出た。
広々とした廊下はしずまり返り、無人だった。間も無く日の出だからか、辺りは薄っすら明るく、全てが濃い青色の中にあり、ランプがなくても歩けた。廊下の端には上へと繋がる階段があり、見上げると上りきった先には両開きの大きな扉があり、扉からは少し明りが漏れていた。ランプのあかりといった様なものではなく、そのぼんやりとした明るさは恐らく外からのものだ。もう外の方が明るくなり始めている。階上はバルコニーがあるのだろう。
不思議に思って私は階段を上った。白い石の固い階段には、真ん中に階上から階下まで流れ落ちる様に絨毯が敷かれており、足音は全くしなかった。階上につくと、両開きになっている右肩の扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。予想通り、扉の向こうはバルコニーになっていて、広いバルコニーの一番奥には神官長が佇んでいた。
近寄るまでもなく、こちらに背を向けている神官長が何を眺めているのかが分かった。
日の出だ。
薄闇に包まれた空の色はゆっくりと、だが着々と色を変えていた。薄暗い紫色の空の下の方が徐々に橙色に染まり、分厚い雲の合間から姿をあらわした太陽の黄色い光が差し込む。一瞬放射線状に広がったその光はあっと言う間に空全体を明るくし、強烈な光で塗り潰す様に空の色を変えていく。静寂の中、その変化の中心にいる太陽は、まるで強靭な火の玉に見えた。その力強さは酷く印象的だった。気がつくと空はもう明るく、空ばかりでなくバルコニーもすっかり明るくなっていて、高層物のない街の景色をはっきりと見渡す事ができた。
朝だ。
私は今まで日の出をまともに見た事がなかったが、太陽を神と崇めるこの国の人々の気持ちが少しばかり理解できた気がした。これほど圧倒的な力を持つ光景が、毎日起きているのだ。
神官長は寝巻きではなく、神官服を纏っていた。神官長の位を表す赤い布を肩から斜めに掛けたその姿の前に、寝巻き姿で近寄るのはなんだか気が引けた。暫く黙って後ろに立っていると、神官長がこちらを振り返り、私に気づいたその目が驚いて見開かれる。
「いつからそこに?」
「今さっきです。眠れなくて……。でも、日の出って、綺麗ですね。」
「………もう直ぐ神殿庁に向かう。」
ーーーこんなに早くから?
驚いて神官長の顔を見つめると、彼は続けた。
「もうじきアーシードがこちらに来る。」
「ありがとうございます。ーーーあの、お気をつけて行かれて下さい。」
「それは私が言うべき事だな。ところで二人だけの時でも、私に敬語をやめる気はないのか?」
「なぜです。」
「私ともっと気楽に話して欲しい。貴方ともっと普通に話がしたい。」
「でも、神官長は神官長ですから。」
「そうか。では神官長として命じる。敬語をやめなさい。」
「休暇中ですので、ご命令はきけません。」
「なんと。打つ手なしではないか。」
そう言うと神官長は私と扉の間に立った。なんだか挑む様な目つきでこちら見ている。
少し悪戯っぽく彼は笑みを浮かべた。この美貌の神官長のこんな表情を見る事ができるのは、世界広しと言えども私くらいではないだろうか。
そう思うと、胸がくすぐられるみたいに嬉しくなる。
「では私も貴方を再びサヤ様とお呼びし、今後は礼を尽くしましょう。」
それだけは勘弁してくれ、と慌てて私が言うと神官長は流れる様な仕草でその場に跪いた。タイルの床に膝をつき、私の片手を取る。
思わず私は辺りを見渡してしまう。ここはバルコニーだ。外からは運が悪ければ視界に入ってしまう。だれかに見られてはいないかーーー。
「サヤ様。私の巫女姫様。道中御身をお護りする為に、ぜひ神官長である私の神技をお受け下さい。」
えっ、何?、と聞き返す余裕もなく、彼は立ち上がると私を引き寄せた。その右手が私の胸に当てがわれ、抵抗を防ぐ為に左腕が私の身体に回される。手が置かれた場所と、そこから与えられるピリピリとした痛みに、言われずとも何の神技か私にも分かった。
ーーーこ、これは!!
「や、やめ……っ」
直ぐに体を放されたが、勝ち誇った様な神官長の笑みは、神技の完了を意味していた。恐る恐る襟を広げて胸元を見ると、レイヤルクの薄い金色の線の隣に、平行する形で太い金色の線が刻まれていた。
「陽法論第五十巻、願いの剣にございます。」
「知ってます!!」
神官長は一層愉快そうに笑うと、私の両肩に手を掛けて引き寄せた。
「この神技は初めて使いましたが、存外簡単にできるものですね。背中にもお付け至しましょうか。」
化け物だ。
間違いなくこの人もやはり化け物だった。
やめて、やめてってば、もう十分です、と暴れて抵抗を見せるが、神官長は私の背中にその手を当てる。言葉ばかりは丁寧なそのなんとも強引な様子に、そして抱き締められる様な格好になっている自分の状況に、頭の芯がクラクラとした。
「分かりました!!分かったよ、敬語をやめるから!」
すると神官長は私の身体から手をはなした。
満足そうな表情を浮かべている。
「帰路も私の力を使えば良い。術光石を傍に置いて、都に帰る、と強く願えば事足りる。ーーー本当に、気を付けて。」
うん、ありがとう、と答えるのは口が歪みそうだった。




