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黄金の中庭  作者: 岡達 英茉
第三章 後宮
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皇帝と中庭②

 後宮の女性が眠りについた時刻を狙い、その日も私は大浴場での一人風呂に勤しんだ。これも思えば贅沢な話だ。

 鑑賞専用スポットだという件の中庭を大回りし、廊下を進んでいると、前方から数人の人影が歩いて来た。

 お互いの距離が縮まり、それか皇帝だと気付き、私は歩みを止めてその場で片膝をついた。ーーー三人の妃のうちの誰かの所に行っていたのだろうか。

 そのまま皇帝が私の横を通り、過ぎて行くのを待つ。

 だが予想に反し、皇帝は過ぎるどころか、私の前で立ち止まり、声をかけてきた。


「確かサヤと言ったか。ルディガーに余計な事を吹き込んだのはお前だな。」

「は、はい?」

「ルディガーに言われたぞ。巫女姫は皇祖祭の後に直ぐにかえしてもらうだとか、異世界の女性は男性に慣れていないから、適度に距離を保て、などと。」


 神官長はどうやら本当に皇帝に釘を刺してくれたらしい。サイトウさんが男性に慣れていない、とはもしや、彼女がずっと女子校に通っていて男子の友達が全然いなかった、と以前話していたのを神官長は覚えていたのだろうか。感心していると、皇帝が更に数歩歩みを進め、私の目の前で腕を組んだ。柔らかな布を腰周りで留めている帯に付いた宝飾品が、カチャリと涼しい音を立てた。


「お前は巫女姫と同じ世界からきたらしいな。」


 皇帝はニヤリと笑った。

 黒い目が、ランプの明かりを反射して光っている。皇帝は私にピタリと視線を当てたまま、私の周りをゆっくりと歩いた。


「お前たちのいた世界とこことは、かなり異なるらしいな。この国はお前の目にはどう映る?」


 随分大雑把な質問なので、返答に困った。

 地球とこの世界の一番の違いと言えば、神技だと思った。それに私の印象としては、ハイラスレシアは昔習った世界史の一時代を覗いている気分になる世界だ。だが、それはハイラスレシアがあちらの世界より遅れている、と言うのも同じだ。皇帝は気分を害するだろう。

 少し迷った後で、ハイラスレシアの人々の信心深さや、美しい建築物について当たり障りなく話した。

 多少褒めたつもりであったが、皇帝は妙にしらけた調子で答えた。


「お前も褒めそやすのだな。所詮ここにいる他の女たちと変わらぬ。耳ざわりの良い事ばかり並べるのだ。つまらぬ。」


 勝手に落胆されてしまった。

 そもそもここにいる女性たちは皆、後宮という場所で皇帝の機嫌を損ねるなどという、危険を犯したくないだけだろう。

 私は早急にこの地の権力者が私の目の前から立ち去ってくれる事を願ったが、なかなかどうして、彼は居座った。

 皇帝は先ほどとは反対周りで私の周囲を歩き出した。

 床についている膝が痛くなり、バレない程度にズラす。


「それにしてもお前はこんな夜更けに何をしていたのだ?巫女姫の寝所からは遠いではないか。」

「浴場に行っておりました。この時間が一番空くんです。」

「また随分な回り道ではないか。」

「はあ。この中庭は通ってはならない決まりがあると小耳に挟みまして。」


 すると皇帝は豪快に笑った。低く張りのある声が廊下に響く。


「女は訳のわからん決まりに縛られたがる。」


 そう言うやいなや、皇帝は中庭に繋がる階段を下り始めた。下まで降りきると振り返って私を見た。


「余ならば通り道として堂々と使うぞ。鵜呑みにせず己で決めたらどうだ?」


 結構です、と慌てて返事をしてみたが、私の言う事など皇帝は聞いていなかった。芝を踏むサラサラとした足音をさせてどんどん中庭に入っていってしまう。ついて行きたくはないが、これを見過ごす訳にも行かない。挙句に、ほら早く来てみろ、と声が掛けられた。

 仕方なく階段を二段飛ばしで降り、中庭の小道を歩き出している皇帝の数歩後ろまで追いかけた。

 木々の茂りが廊下の灯りを遮り、歩くにつれて辺りは暗さが増していったが、夜空に煌々と輝く黄金の月のおかげで、足元まで何とか視界に捉える事ができた。


「どうだ?通ると何か不都合があるか?」


 自信有り気に皇帝が肩を竦めて私を見た。

 その中庭には成る程、華やかな花壇も優美な噴水もなかった。数ある中庭からここを敢えて選んで中を歩きたがる女性はいないのかもしれない。

 キョロキョロと辺りを確かめると、近くの低木の陰に隠れて、白っぽい円形をした石作りの台があった。形状からして井戸だろうか。周りに背丈程の三本の鉄製の棒がたち、それぞれが上で繋がり、真ん中に水汲みの為の桶が下げられていた。直径一メートルほどだろうか。近寄ってみると、円形の台は大きな桶の様に中が空洞になっていた。その半分ほどに、木の板が打ち付けられていて、蓋になっていた。


「井戸があるとは知りませんでした。」

「外観を損ねない程度に幾つかあるぞ。後宮の中庭の水やりには欠かせぬからな。」


 中を覗こうとして、腰ほどの高さがある白い石の縁に手を掛けた。中には、深く下へと続く、暗い闇にも似た穴が見えたーーーーー穴ーーー、深い、暗い穴が。

 その瞬間、私の足元から電流にも似た震えが走った。まるで目の前にある井戸の穴に、強く吸い込まれそうな引力を感じる。縁に両手を突っ張る様に掛けながら、全身が悲鳴を上げた。

 これは、あの穴だ!!

 なぜ、あの穴がここに!?

 私はいつもの悪夢に見るあの穴を、今見下ろしていた。

 視界の端に、自分の頬から流れ落ちる長い金色の髪を見た。先ほどまであった筈の、白い台の表面に打ち付けられた、井戸を塞ぐ為の木蓋が消え失せて、眼下の揺らめく暗い水面から、湿ったにおいがのぼる。

 台に掛けた手から力が抜けていき、足にも感覚がない。私の身体が、精神が、魂が目の前の深い穴に吸い込まれていく様だった。一切を吸い込むブラックホールの様に、それは強烈な力で私を呼んでいた。

 足先から痺れが駆け上がり、腹部に刺しこむ峻烈な痛みと同時に、抗い難い吐き気がせり上がる。ーーーだめだ、こんな所で吐いてたまるか!


「おい、大丈夫か?」


 耳元で皇帝の声がするが、近くにいるはずなのに、その声がとても遠く感じる。

 井戸の水面から、目を離す事ができない。あの水面に浮かぶ金色のネックレスを、私は渇望しているのだ。今日こそ、あれを取れるかも知れないのだ。


「サヤ !どうしたのだ!?」


 もう一度皇帝の煩い声が鼓膜を揺さぶる。

 すると唐突に目の前に木の蓋が出現し、水面に見えた金色の光が、朧げに水面に映る夜空の丸い月に変わる。

 皇帝が私の腕を掴み、揺すっていた。

 私は井戸の半分ほどを覆う木製の蓋に顔面を押し付け、もたれていた。そんな私を皇帝が引き離す様にして立たせようとしーーーだが私の足にはまるで力が入らず、その場に倒れこんだ。全身が震えていた。

 私は震えをおさえようと、自分の身体を抱く様にして手を腕に回した。震えているのに、私は物凄い量の汗をかいていた。こちらを怪訝な顔で覗き込んでいる皇帝は私に尋ねてきた。


「貧血でも起こしたのか?井戸に落ちるかと思ったぞ。」

「すみません。急にふらっとして………。」

 

 私は皇帝の質問に曖昧に答えた。頭の中は混乱でそれどころではなかったのだ。物心つかない、子供の頃から悩まされて来た悪夢が、ずっと自分でもなんだか分からなかった。あの夢の穴が井戸だなんて思った事はなかった。日本でも幾つか井戸を見たけれど、こんな風になったのは初めてだ。

 まるで、あの夢の穴がハイラスレシアの後宮のこの井戸だったかの様な衝撃を受けた。どうしてーーーなぜ、そんなことが起こり得るのだろう。

 私がいつまでも震えて座り込んでいるので、皇帝はやや呆れた調子で言った。


「井戸が怖いのか?子供の頃に井戸にでもハマった経験があったか?」


 私はまだ混乱のあまり声が出せず、けれどどうにか立とうとした。


「立てぬのか?誰か人を呼ぼう。」

「結構です。だ、大丈夫ですから。」


 こんなみっともない姿を他の人に見られたくはない。私は井戸の中を見ない様に気を付けながら、ふらふらと立ち上がった。

 皇帝はそんな私を苦笑しながら見て、こちらに右手を差し出すとやや乱暴に私の片腕を掴み、支える様にしてくれた。元来た道を戻りながら、皇帝は囁いた。


「通ってはいけない中庭、か。………かつての出来事が歪んで口伝されたのだろうな。」


 私が驚いて顔を上げると、彼はふと歩みを止めた。支えて貰っているので自然と私も立ち止まる。どういう事ですか、と簡潔に尋ねる。


「昔、皇帝の寵愛を受けていた一人の女性が、この中庭で亡くなったのだ。当時は箝口令が徹底的に敷かれたそうだから、皆知らないのだろう。だが余は知っている。」


 そう告げたまま、皇帝は黙ってしまった。それ以上を教えてくれる気はないのだろうか。

 続きを待って私は皇帝の顔を見ていた。彼はただ前方の草むらに視線を投げていた。その黒い大きな瞳からは、どんな表情も窺えない。私たちはお互いそのままで暗い中庭に立っていた。風一つ吹かず、木々の葉の音すらしなかった。

 完全な静寂だけがそこにはあった。

 皇帝は長い時間をかけて私に顔を向け、私たちの黒い瞳が合った。フワリと甘い香水の香りがした。女性用の香水らしきその香りは、皇帝への移り香だろう。さっきまで一緒にいた、妃の誰かのーーー。私のそんな邪推をよそに、皇帝は唐突に口を開いた。


「この中庭で亡くなったのは、先代の巫女姫だ。二百五十年前、まさにあの井戸の横で息を引き取った。」


 私は言葉を失った。

 病気で亡くなったという前の巫女姫は、こんな所で………?ザワザワと足元から寒気が上る。

 ーーーまさか、私が見ていたあの夢は、かつての巫女姫の記憶の欠片だったりするのだろうか。

 まさか。

 私はこの世界の記憶なんて持っていない。でももしあれが、死に直面した巫女姫の最期の記憶だったとしたら?

 認めたくないが、私は本当にレイヤルクや神官長が主張する通り、巫女姫の生まれ変わりなのだろうか。いや、まさか。


「どうした?真っ青だぞ。」


 皇帝に声をかけられ、我に返った。

 生まれ変わりだから何なのだ。私は私だ。今はサイトウさんの護女官だ。今やるべき事をするのだ。私はどうにか落ち着こうとした。

 ーーーでも、まさかそんなことって。


「何故それを私に?」


 当時箝口令が敷かれたというし、後宮の住人は誰もこの中庭の秘密など知らないのなら、わざわざそれを明かした理由がしりたい。 皇帝は溜め息を吐きながら薄く笑った。


「お前に礼を言わねばならんな。巫女姫は実に魅力的であった。白状すれば、余も少しばかり理性を失いそうになった。ーーーお前は余が巫女姫を襲うとでも懸念しているのだろう?」

「そ、そんな事は…」


 そうだ、とは口が裂けても言えない。


「だがお前のお陰で冷静さを取り戻した。かつての皇帝と同じ轍は踏まぬ。巫女姫を不幸にして太陽神の御不興を買いたくはない。巫女姫を早くになくした当時の皇帝は、二十人もの御子がいながら、皆皇女だったのだから。」


 そうだったのか。わざわざそんな話を私にするということは、余程神官長が皇帝にサイトウさんに悪さをするなと強く言ったのだろう。

 皇帝は確信に満ちた表情で力強く断言した。


「巫女姫の幸せが、この国を豊かにするのだ。後宮に長くいらしてはそれは望めぬ。」

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