初めての報告日
数日振りの外の空気は、実に清々しかった。思わず口からドラマで見たような台詞が溢れた。
「シャバの空気はうまいなぁ。」
例えたった1日でも、サイトウさんや護女官長たちを後宮に残して、自分だけで自由の身になるのは少し気が引けた。
これも仕事だ、と自分に言い聞かせる。後宮に着いてからの巫女姫のスケジュールを毎日、緻密に書き連ねた報告書も、昨夜ほぼ徹夜で作ったのだ。レイヤルクの術のせいで風呂も深夜にしか入れないし、なかなかハードな毎日を私も過ごしていた。
忙しいーーーけれど、とても充実していた。だから毎日、適度なやり切った感というか、爽快感があった。それにこう毎日忙しいと、余計な事を考えなくて済む。よし、と小さな声を出して気合いを入れると、一路神殿庁へ向かった。
神殿庁に着くと、離れてたった数日ではあるが、不思議と懐かしいと感じた。巨大な建物の壁一面に千の目の様にびっしりと揃った窓を、初めて見た時は威圧感で怖いと感じたけれど、今や見慣れた景色となっている。
神殿庁は週末を休日としているので、建物の中に入ってもいつもはたくさんいる神官や事務員とも全くすれ違わず、広い空間に私の足音がやたら響いていた。サイトウさんと一緒にいると、休日だろうが何だろうが、常に周りに人が大勢いるので、何だかとてもこの静寂が新鮮だった。神官長の執務室へ向かっていると、途中で後ろから呼び止められた。
振り返るとそこにはクラウスがいた。
「今日は報告日だったな。」
そのままスタスタとこちらへ来て、辺りを簡単にうかがってから彼は言った。
「ヒナ様は、どんなご様子だ?」
聖騎士の制服を着てはいたが、もしや私を待っていたのだろうか?
私はふと、この必死な様子のクラウスに意地悪をしてみたくなった。あれだけ私に失礼な態度を取っておいて、ちょっと都合が良すぎやしないか、と不満を覚えたのだ。私は、そうですねぇ、と思わせぶりな前置きをした。
「上官である神官長に報告する前に、クラウスさんにお話する事は出来ません。」
「サヤ…!俺は…」
「でもヒナ様からお手紙は預かっています。」
私がさっと白い封筒を掲げて見せると、クラウスは嬉しい様な、困った様な複雑な顔をした。
「読みたいですか?」
「当たり前だ。………渡してくれ。」
「あれっ?クラウスさん、良く聞こえません。まさか名門貴族のクラウスさんが、隷民出身の私に、お願いですか!?」
すると今度こそクラウスは項垂れた。
「すまなかった。あの時は悪い事をした。」
この辺で彼を許してあげる気になった私は、静かにその封筒を手渡した。クラウスは俊敏な動作でそれを受け取り、1分でも速く読みたかったのか、受け取るや否や開封して読み始めた。
ヒナ様…と囁きながら、クラウスの鋭かった目つきが優しくなり、次第に口元に笑みが広がっていく。だが、再びその表情が硬くなり、やや眉根に皺を寄せて顔を上げた。
「皇帝陛下はヒナ様に頻繁にお会いに?」
「そうなんですよ。……なんかもう、すっかりまるっととってもぞっこんなご様子で。」
これは嫌味ではなく事実だった。クラウスは心配そうな目で後宮の方角を見据えた。手に持つ封筒を、大事そうに胸に当てながら。
なんだかその様子が、妙に可愛らしかった。相手がクラウスであれ、こんなに力一杯愛されているサイトウさんは幸せだと思う。
「でもそれについては大丈夫ですよ。私がとことん皇帝とヒナ様の仲を邪魔しますから。」
「それは頼もしいな…」
そう呟くクラウスの口ぶりは、まるで力が込められていなかった。
神官長の執務室のドアをノックすると、中からエバレッタが出てきた。
今日は神官にとっては仕事がお休みの日で、必然的に特席も休みの筈だったので、彼女がいる事に驚いた。執務室に入ると神官長はいつもの神官服を身に着けていたが、休日だからか官位を示す真紅のショールは掛けていなかった。
神官長は私を目に留めると、エバレッタに言った。
「エバ。今日はこの辺で終わりにしよう。休みなのに出て来て貰ってすまなかった。」
「いいえ。お役に立てましたならそれ以上の事はありません。」
エバレッタは微笑みながら頭を軽く下げ、お先に失礼致します、と神官長に言って執務室を出て行った。神官長に向けられた目は尊敬の念が込められた暖かなものだったが、扉が閉まる瞬間に私に一瞬向けられたそれは、大層冷たかった。
私は彼女が退室して閉まった扉を暫く眺めていた。
休日出勤とはご苦労な事だーーーいや、あまり考えない様にしよう。
私は昨夜睡眠を削り作成した報告書を、神官長に手渡した。
書類を受け取った神官長は読み終えると、幾つか私に内容についての質問をしてきたので、それに対して補足説明をした。サイトウさんの様子については微に入り細に入り伝えた。最後に私は特に皇帝と巫女姫の距離の取り方が難しい、と悩みを打ち明けた。
「そうだな。陛下は非常に積極的な方らしいな。今一度陛下には釘を刺すとしよう。」
「巫女姫様の後宮ご滞在の最短記録を樹立したいと思います。」
やや強気な発言をすると、神官長は柔らかな笑みを見せてくれた。その秀麗さに思わず胸が高鳴ってしまう。神官長は報告書をデスクにしまうと、立ち上がりこちらへ歩いてきた。
「さて。丁度お昼時だ。………昼食は済ませたか?」
「いいえ、まだです。」
「では一緒にどうだ?」
そう言うや神官長はデスクに戻り、金属音を立てて引き出しの施錠を始めた。ーーーまさか神官長は私とお昼ご飯を食べるつもりだろうか?ーーー執務室を出て行く準備を素早くする神官長の姿を、困惑して目で追いかける。彼は執務室の扉を開けると私の背中を押した。
「さあ、行こう。」
神官長の指示通り神殿庁の正面入り口で待っていると、ガラガラと車輪の音を響かせて黒い馬車が止まった。中にいたのは神官長本人で、中から扉を開けると私に同乗するよう言った。
神官長はいつも馬車で神殿庁まで通勤している筈だったが、これがその自家用車なのだろう。
乗って良いのか逡巡しつつも、それ以外の選択肢などない気がして、身体は勝手に動き、気がつくと私は深緑色の座席に腰を落ち着けていた。
どこか行きつけのレストランにでも連れて行って貰えるのだろうか?
後宮やサイトウさんの話を取り留めもなくしているうちに、馬車はようやく止まった。窓の外を見ると、私たちは一軒の家の前に止まっていた。
正面には立派な円柱が並び、窓枠にも細かな彫刻が施された洒落た建物だったが、レストランには見えない。
ーーーー金持ち御用達の隠れ家レストランとかだろうか?
不思議に思って窓の外を見つめたまま黙っていると、反対側の扉から外に出た神官長が私も出るよう促した。
「私の家だ。遠慮なく入ってくれ。」
目玉が飛び出るほど驚いた。
まさか神官長の自宅にお呼ばれされるとは思っていなかった。いや、それより何より、何というか、想像よりこじんまりした家で驚いてしまった。天の権力の頂点に座している筈の神官長の自宅は、馬鹿でかい豪邸に違いない、と思っていた。例えばお城みたいな。
日本の平均的民家に比べれば遥かに大きい物件ではあるが、ハイラスレシアにはもっともっと立派な邸宅がたくさんあるではないか。なぜこの家なんだ。
私とレイヤルクが住んでいたのは高級住宅街だったので、それこそこれより豪華な家を彼方此方で見たものだ。
名門貴族の部下を日頃から顎で使う地位にいるはずの神官長の住まいとは、もっとゴージャスでセレブ感満載な物件のはずではないのか………。
神官長にくっついて家の中に入りながらも、不躾にもジロジロとご自宅を観察してしまう。
玄関からホールに入ると、応接室に案内された。
なんとか挙動不審にならない様に、革張りのソファーに座った。 さすがに座り心地は素晴らしかった。
「少し待っていてくれ。」
神官長が応接室からいなくなると、私はひたすら席の前にある、応接室の壁に掛けられた絵画を眺めた。私の正面にある豪奢な金縁の額に入った絵画は、橙色のひっくり返ったお椀の周りにグチャグチャと黄色や青色が塗りたくられた、摩訶不思議な絵だった。洗練され過ぎた芸術は時として素人には理解不能だ。
こんな落書きみたいな絵でも、庶民には仰天する程の値段がついていたに違いない。
感心して絵に見惚れていると、神官長が戻ってきた。
「その絵に興味が?」
「はい。これは、どういったテーマの絵なんでしょうか……?」
「夕暮れの山を描いた絵だ。」
一瞬衝撃が走った。
という事は、お椀にしか見えないこの物体が、山なのだろう。こんな山があるか。
「自分で描いた物の中では、一番気に入っている。」
さらなる衝撃が走った。
なんと神官長の自作の絵だったらしい。
絵の才能が全く無いか、天才的な感性を持っているかのどちらかなのだろう。いずれにしても凡人には理解出来ない次元に達していた。
「絵は私の趣味の一つなのだ。こっちが姉妹作の『夜明けの山』だ。」
指差された方に顔を向けると、後方の壁にも一枚の絵画が掛けられていて、そこにもひっくり返ったお椀があった。
夕暮れと夜明けの違いが素人にはちょっと判別がつかない。
放心したように私が絵を眺めていると、神官長が言った。
「このどちらかを神殿庁の応接室にも飾らせようかと模索している。」
「それは、随分と思い切った事を…」
動揺のあまり失礼な発言をしそうになり、語尾を濁した。すると神官長は自嘲気味に笑ってから一言、簡潔に言った。
「冗談だ。」
自分が一瞬騙された事と、神官長の意外な冗談に驚いて、目を白黒させて隣に立つ彼を見上げてしまった。神官長は、存外爽やかな笑みを浮かべていたが、私の驚きを察してか、絵にくるりと背を向け、廊下に続く扉に向かっていった。
「何れにしても、絵の価値の半分は額縁の価格が決めるのだ。」
格言だ。
目の前にそびえる堂々たる絵画を改めて観察し、激しく納得した。
廊下の先にあるダイニングルームは、とても広かった。清潔感溢れるクリーム色のタイルばりの床に、赤を基調とした絨毯が敷かれていた。天井は吹き抜けになっており、開放的な上にとても明るくて気持ちが良い。
ダイニングルームの隣は中庭になっていて、大きなガラス窓の向こうには緑豊かな木々と、テーブルセットが見えた。あそこで読書でもしたら気持ちが良さそうだ。
広々としたダイニングルームの真ん中に置かれた白く重そうな長方形のテーブルには、緑と赤の刺繍がされたレースのテーブルランナーが掛けられ、その上には既に食事が並べられていた。
大皿に盛られているのは豆料理で、色とりどりの豆を使うこの国で非常にポピュラーな一品だ。同じくこの国では頻繁に見る、冷製のピーマンの挽肉詰めや、香辛料の色で赤黒くなっている野菜のスープもあった。
涼し気なガラスの器には、チーズやテリーヌに似た小さくてお洒落な前菜らしき品々が並べられていた。
とりわけ目を引いたのは、木の食器に盛られたパンで、大小様々な形と種類のそれは、焼き立てばりの堪らなく美味しそうな香ばしい香りを放っていた。
やはり流石は神官長だ。どうやら腕の良いコックを雇っているようだ。
神官長に促されて席につく。
この国には日本の様な、ひとに飲み物を注いであげるという慣習がないので、まずは自分で好きな飲み物を選んでグラスに注ぐ。
この緊張から少しでも自分を解放するために、敢えて赤い葡萄酒を選んだ。
じゃ、かんぱ〜い!と行きたいところだが、神官長は席に着くと両手を組み、太陽神に今日の糧への感謝の祈りを唱え始めた。私も同じく両手を組んで静かにそれを聞く。サイトウさんの毎日の食卓でも、食前の祈りは欠かさなかったが、自宅でもやるのだな、と軽い驚きを感じた。やはり目の前の人物は大豪邸に住んではいなくとも神官長であった。ーーー今振り返ると、レイヤルクは食前の祈りなんて一度もやっていなかった。
食事が始まると、まずはパンに手を出した。
サクサクと香ばしく、けれど中はふんわりとして小麦粉の香りが鼻腔に抜け、絶品だった。しかも一つ一つが小さいので、次々と色んな種類のパンを食べてみたくなる。
「このパン、凄く美味しいですね。近くで売っていたら買います。」
「それは良かった。パン作りは昔からの趣味なのだ。子供の頃は将来パン屋になりたいと思った事もある。」
仰天のあまり、手と口が止まった。
まさかこのパンは神官長お手製のパンなのだろうか。念の為確認してみると、神官長は至極当然の様に頷いた。
「勿論だ。他に誰も作ってくれる人などいない。私は一人暮らしなのだ。」
えっ、と思わず腰を浮かせて視線を巡らせた。まさかコックもいないのだろうか?
目の前の料理をもう一度見つめる。
「あの、このお料理は全部、神官長がお作りに?」
「勿論だ。」
何が勿論なんだ。意外すぎて食事が喉を通らない。全部神官長が作ったのかと思うと、畏まりすぎてどんなリアクションでたべれば良いのか分からなくなるではないか。
「全部、は言い過ぎだな。チーズは買った物だ。」
勿論だ。神官長が大鍋でグルグル牛乳を掻き回しているところなど、誰も想像していない。ということは、テリーヌはお手製らしい。テリーヌなんて、作ったこともない。つくり方を知らない。材料すら分からない。
「自分でも絵の才能が無いのは自覚している。だが料理に関しては、これでも多少は定評があるんだ。」
肯定しても否定しても失礼そうなので、私は答えなかった。料理を前に感心していると、神官長は少し申し訳なさそうに言った。
「本当は店を予約したかったのだが、生憎個室が空いていなくてね。」
「と、とんでもないです。店より美味しいです!このパン、タアナに食べさせたいくらいです…」
「タアナ………隣にあったパン屋の売り子か?」
隷民、と言わず売り子と言ってくれたところが嬉しかった。
私は偉大なテリーヌに手を伸ばしながら、タアナの話をした。あの子は、思い出すだけでパワーが湧いてくる活気に溢れた子だ。
話しながら、私はこれでもかとパンを平らげた。兎に角絶品なので、全種類を制覇したくて仕方がない。この国ではあまり見かけないデニッシュに近い物もあり、手が止まらない。タアナにも食べさせてみたい………。
パンに手を出す度に、神官長が嬉しそうに小さく笑みを浮かべるのがまた、溜まらない。
お腹いっぱいに食べ終わると、私は素朴な疑問を神官長にぶつけた。
「神官長はなぜご自宅に誰も雇ってらっしゃらないんですか?」
色々批評してしまったが、日本で言えば、十分豪邸と言って良い広さがある。忙しい神官長なら掃除をするだけで一苦労だろう。住み込みのメイドさんがいてもおかしくない。
「私の実家は決して裕福な家庭ではなかったのだ。父は商家で働いていた。」
それは驚きだった。アーシードやクラウスを始め、神官長の周りにいる人たちはたいてい貴族階級出身たったし、高位の神官たちは何人も隷民を雇っているらしかった。
「代々雇う様な執事もいない。そもそも家の中に毎日他人がいる状況にどうも慣れそうな気がしないのだ。」
それには激しく同意した。
第一、やろうと思えば掃除なんて神技で一発で済むのかもしれない。自分で管理しているからこそ、敢えて馬鹿でかい邸宅には住みたくないのだろう。
食べ終わると、私は皿を洗うと主張したが、神官長は頑なにそれを固辞した。
「日頃の労をねぎらいたかっただけなのだ。却って申し訳ない。」
「そんな、少しくらいお手伝いさせて下さい。こちらこそ申し訳ないです。」
だが神官長は、皿を運ぼうとする私の手をそっと押さえた。
「巫女姫様に皿洗いなどをして頂くわけには参りません。」
その静かな声音と、久しぶりの敬語に思わず動きを止めた。
伏せられた青い双眸の奥に、罪悪感を読み取れた気がしたのだ。それは私を巫女姫として扱えなかった事に対するものだと解釈していたけれど、ふと今思ったーーー神官長は私が今ハイラスレシアにいること自体に、きっと罪悪感を抱いている。
「神官長。」
「本当は私には、貴方に何かをしてもらう資格もない。」
胸が締め付けられた。彼に心が動かされたからだろうか。いや、違う。これは彼に対して表すことが出来なかった私の複雑な思いだろうか。例えば驚き。そして怒り。その後に続いた恐怖。興味。それから、多分執着。
「私はサヤにあの男よりも信頼して欲しかったのだ。だが、サヤがヒナ様の御為に懸命になればなるほど、そして私の優秀な部下であればあるほど、逆に不安になる。」
苦しげに息を吐いてから、神官長は続けた。ーーーもし、神官長の召喚神技がレイヤルクの妨害に負けなければ、照準を誤る事なく私だけを召喚していれば、今巫女扱いを受けていたのはサイトウさんではなく私だったのだと。私がそれを望んだかは別として。
「それを考えない日はない。この事態を招いた神官長である私に、なぜ貴女はそんなに…」
「私、卑怯なんですよ。」
私は神官長の言葉を遮って口を開いた。神官長はやや眉根を寄せて、私を見た。
「神官長に対する色んな気持ちに蓋をしたんです。言うなれば、誰が私をこの世界で庇護してくれそうか、小狡く見極めたかったんです。」
こんな告白は絶対したくなかった。けれどしないとやり切れなくなった。
ああ、そうだ。私は多分、イヤな女だ。
振り返れば打算でここまできた事を、否定できない。決して打算だけじゃない。でも。
だってそうしなければ、………。
「そうしないと、私はこの世界で生きていけないから。とことん神官長とレイヤルクさんを、利用したんです。怒らせないように。見捨てられないように。」
こんな事を言うのは、とても惨めだった。悲しいのか、むなしいのか分からなかったが、目に涙が滲むのを抑えられなかった。
「サヤ。貴女は何も狡くなどない。それに罵倒されようが、殴られようが、私は貴女を守るし、支える。」
私は涙を振り払うように首を左右に振った。そうして彼に向かい合う様に立った。
もう一つ、きちんと言わないといけない気がした。
「わたし……、私、元いた世界では仕事や人生に煮詰まっていたんです。」
家族や友人は恋しい。初めはこの状況を恨んだ。でも。それだけではない。
「私の魂はもしかしたら、全部投げ出して、別のところへ行ってしまいたい、と心の中で応えたのかもしれません。」
「サヤ…」
「あの時、神官長が召喚神技を行った時、確かに私は強く思ったんです。この世界から、消えてしまいたい、って。」
なんとなくそれを伝えなければフェアじゃない気がした。責任を全部神官長に背負わせるのは。ーーー明日の朝、会社が無くなってしまっていたら良い。そんな事になれば本当に困るのは私自身なのに、本気で毎日そう考えていたのも、事実なのだから。
「そんな事を仰らないで下さい。…………貴女の手を、取りたくなってしまう。」
「取って下さい。」
私たちは互いに自分たちが言った言葉に軽い衝撃を覚え、見つめ合ったまま立ち尽くしていた。美しい瞳に正面から見つめられるのに恥ずかしくなって、私は顔を逸らした。
「すみません、変な事言っちゃって…」
神官長の手が私の手首を掴み、私が離れようとするのを制止した。
「私、自分の気持ちなのにどうしようもないんです。神官長の存在が大き過ぎて、急過ぎて。あっと言う間に………。」
これ以上自分の気持ちをはっきり言えなくて、私は語尾を濁した。
神官長は私の手を握り締めたまま、言った。
「私は、いま卑怯にも………貴女を巫女姫として迎えられなかった事に心の中で喜びを感じている。」
動揺して見上げると、熱を帯びた青い瞳から目を離せなくなった。
「でなければ貴女と二人きりになる事も出来なかったし、………私はきっと貴女を巫女姫として後宮に行かせる事など、考えたくもなかっただろう。」
「神官長…」
熱心に私を見つめていた瞳が、一瞬急に見開かれた。急に神官長の目が生気を失い、顔色が白さを増した。私の手首を握る手が力をなくした様にはなされた。
「そうか。あの男、見覚えがあると思った。………いや、まさか。」
様子がおかしいのでどうしたのか、と尋ねても神官長はただ首を横に振るだけだった。その割には、私を確認する様になんども見つめては、いやまさか、などと呟いて頭を左右に振る。
やがて大きな溜息をつくと、落ち着いた声で彼は言った。
「兎に角、貴方は何も気にやむ必要はない。ーーー片付けは私がやる。後宮まで馬車で送ろう。応接室で待っていてくれ。」
神官長の表情はひどく生気を失っていた。




