皇帝のお誘い
翌日私たちは祈りの間で静かに帝国の繁栄や、民の平穏な暮らしをお祈りしたり、他の女性たちと交流をしたりして過ごした。
特にサイトウさんの美しい歌声はこの後宮の住人たちにも大人気で、普段は祈りの間に滅多に来ない女性たちまでそのお祈りを聴きに集まって来たらしい。
この日々が当分続くのか、と思いを馳せながら夜を迎えた。
サイトウさんが寝室に行ってしまい、さあ私たちも寝よう、と護女官長と居間の後片付けをしていた時だった。
廊下に繋がる扉が外から叩かれ、ウィルマの声がした。
「皇帝陛下がお越しです。」
私たちは互いに眼を見開いて目を合わせた。
僅かな躊躇の後に護女官長が扉を開けた。
そこには白くゆったりとした軽装を纏った皇帝がいた。
護女官長が巫女姫様は既にお休みになられた、との旨を皇帝に伝えると、彼は至極残念そうな顔をした。
「庭園をご案内しようと思ったのだ。」
夜に庭園?思わず昨夜の事を思い出した。
「夜にしか咲かぬ夢待草の花が今見頃の庭園があるのだ。ハイラスレシアでは後宮にしかない、珍しい花だ。」
私と護女官長は膝をついたまま、ひたすら皇帝が退室してくれる事を祈った。サイトウさんは寝てしまったのだから、さっさと諦めて引き上げてくれれば良いのに。
太陽神への祈りが通じたのか、皇帝は溜め息をつくと私たちに背を向けた。
「では折を見てまた来るとしよう。」
扉が閉まると護女官長はがっくりと両手を床についた。
「困ったわね。例え外でも、夜に陛下と二人にさせるのは巫女姫様にとって良くありませんね。」
「明日は今日より早く寝てしまいましょう。」
翌日の夜、果たして皇帝は再びサイトウさんを散歩に誘いにやってきた。その日も既に就寝している旨を伝えると、皇帝は肩を竦めて諦めてくれた。
だか、その次の日はサイトウさんが夕食を食べ終えた直後にやってきた。
当然私たちは皆起きて居間に勢ぞろいしていた。私はサイトウさんを寝室に隠そうかと提案したが、護女官長は首を横に振った。
まだ夕方と言える時間だから、二人に庭園を散策してもらい、皇帝にとりあえず満足して貰おう、と護女官長は私たちに言った。
サラとタラは慌ててサイトウさんの化粧を直そうとしたが、私はそれを止めた。
これ以上綺麗なサイトウさんを見て、皇帝の気を引いてしまっては困るからだ。失礼がない様、サイトウさんの服をきちんと整えると、私たちは皇帝を迎えた。
「まだ夢待草が満開になるには早いのだが、余の巫女姫はなかなか会ってくれぬので、来てしまった。」
そう言いながら皇帝は満面の笑顔でサイトウさんに手を差し出した。サイトウさんが不安そうに私を振り返る。ーーーこれを黙って見送るわけにはいかない。
「陛下。巫女姫様はまだこちらの言葉が少しご不自由です。失礼があってはいけませんので、私も通訳として同行致します。」
皇帝は不意打ちにあった様にその黒く大きい目をやや見開いた。だが彼が何か言うより先にサイトウさんが口を開いた。
「ありがとう、サヤ。助かるわ。」
肩をすくめて心外そうな視線を私に投げつつも、皇帝はそれ以上は何も言わず、サイトウさんの手を引いて歩き出した。その少し後を、お邪魔虫の様に私がつけて行く。
皇帝はサイトウさんの手をずっと放さず、終始彼女を見つめていた。後宮にいる他の妃たちを見慣れている皇帝にとっては、サイトウさんの清楚な美しさと、時折覗かせる可愛らしさは、とても魅力的に映るに違いない。それに加えて彼女は綺麗な声をしていた。日が暮れかけた赤い空の下に通るサイトウさんの澄んだ声は、聞いていて大層心地よかった。
お目当の中庭はかなり遠い所にあるらしく、廊下を歩く間皇帝はサイトウさんにこちらの生活や、はたまた異世界についての話などを聞いてきた。私はサイトウさんが本来、通訳を必要としないだろう会話ですらいちいち後ろから、文字通り首を突っ込んで訳して歩いた。しかもムードをぶち壊す程のスーパー営業スマイルで。
皇帝はそんな私には一瞥もくれなかったが、腹の中ではムッとしていたに違いない。
幾つ目かの庭園を横切っていた時、サイトウさんの髪の毛に羽虫が止まった。横にいた皇帝がそれに気付き、彼女と繋いでいない方の手を持ち上げ、その手がサイトウさんの顔に近づいたーーー虫を追い払う気だーーー瞬間的に私はそれを察知し、大仰に声を出した。
「ヒナ様!髪に虫がぁぁっ!!」
皇帝の手がサイトウさんに届くより速く、サイトウさんの髪に手を伸ばし、虫を払い除けた。
皇帝は今度ははっきりと私を睨み、それでも何事も無かったかの様にサイトウさんと歩き出した。彼は寧ろ虫より私を払い除けたかったに違いない。
夢待草の花は皇帝の予言通り、まだ半開きだった。夜に来れば、きっと見応えあるのだろう。
それでも夕闇のなかで、薄水色の沢山の花々がぼんやりと花開いているのは、幻想的で美しかった。
サイトウさんは花々の間で顔を輝かせ、皇帝に夢待草の花まで案内してくれた礼を言った。そんなサイトウさんを、うっとりと見つめながら皇帝は言った。
「巫女姫。そなたは花よりも美しい。」
「巫女姫、そなたは花よりも美しい!と仰っています!」
逐一訳すと、皇帝は呆れた顔で私を振り返った。
「いちいち余さず訳さずとも良い。」
そんなことは百も承知であったが、私はまるで自分の失態に今気づいた、と慌てたフリをして頭を下げ詫びた。
「サヤ、本当についてきてくれて助かったよ!」
「あの皇帝、トンデモないエロジジィですね。」
部屋に戻った私たちは、安堵のあまりソファに座りこんて愚痴を捲し立てた。勿論私には護女官長から、口を慎みなさい!との主旨のお小言が飛んできた。
サラとタラ以外の神官たちがサイトウさんの入浴準備の為にその場を外すと、サイトウさんは声を落として私に言った。
「サヤ。明日は神殿庁に行く日よね?」
私は週末ごとに神殿庁に報告に行く事になっており、明日はその日だった。私が頷く前にサイトウさんは何やら白い封筒を差し出してきた。
上目遣いで私を見ながら、彼に渡して欲しいの、と囁く。
彼とは誰のことか、なんて質問は止めておいた。クラウスに決まっている。
あの感じの悪い騎士も、さっきの押せ押せでお色気全開な皇帝と比較してしまうと、その一途振りを多少は評価して良いのではないかと考え直してしまいそうになる。
「たった数日だけど、離れているのが辛くてたまらないわ。」
サイトウさんは少し恥ずかしそうに、そう呟いた。きっとそんな内容の文章がこの手紙に書き連ねてあるのだろう。全く、クラウスが羨ましい限りだ。もし今のサイトウさんをクラウスが見たなら、後宮に忍び込んででもサイトウさんに会いに来てしまうかも知れない。




