皇帝
なかなか寝付けない理由は数知れない。
例えばここが後宮という特殊な場所だから。
隣の寝台で上司である護女官長が寝ているから。
ついさっき有り得ない二人が現れたから。
私はなかなか眠りに落ちる事が出来ず、ゴロゴロと寝返りをうった。今日は朝から多忙を極めた一日だったのに、不審者侵入の騒ぎで私たちは深夜までウィルマによる質問攻めにあい、身体は骨の髄まで疲れていた。それでも頭の中だけはさえてしまい、私は今夜何度目か分からぬ寝返りをうった。もっとも侵入者の正体を知らないサイトウさんたちは今、私とは別の理由で眠れない心理状態かも知れない。
暗闇の中自分の胸に触れてみるが、特になんの違和感もない。レイヤルクはどこに帰ったのだろう、と非生産的な思案にくれているうちに、漸くやって来た眠りは、決して心地良いものではなかった。
まただ。ーーー私はまた暗い穴を見下ろし、必死に手を伸ばしていた。
嫌だ。
この夢はもう見たくない。それなのに、避けようがなくまたこの夢に引きずり込まれていた。
届く筈が無い物に縋らなくてはいけないという、深い絶望が胸を塗りつぶしている。
あれを、何故手放したりしたのだろう?
しっかり持っていれば良かったのだ。
焼け付く喉の痛み。痺れにも似た臓腑の痛み。
そして激しい悲しみ。怒り。後悔。絶望。
暗い感情の全てが私の胸中を埋め尽くし、押し潰そうとしている。
ーーーああ、苦しい。でも大丈夫。これは夢だ。本当の私はもうすぐ目を覚ますだけ。はやく、はやく目を覚ますんだ。
どうにか自分にそう言い聞かせ、目を開ける。
焦げ茶色と金色のカーテンの隙間から漏れる朝日を受けて目が覚めた時、護女官長はもう寝室にいなかった。
嫌な夢を見た気持の悪さから長い溜め息を吐きながら寝台から下りて、隣の部屋へ行った。
居間スペースでは護女官長が私たちの朝食を並べているところだった。配膳部から取ってきてくれたらしい。直ぐに手伝おうとすると、彼女は心配そうな顔で尋ねてきた。
「昨夜はずっとうなされていましたよ。」
「すみません。うるさかったですよね。」
「そんな事は良いのですよ。体調が悪い時は直ぐに言いなさいね。それと、昨晩の賊の侵入者騒ぎで、人員の変更が色々あった様ですよ。」
その日から結果的に巫女姫を守るために、警備が大幅増員される事になった。廊下には武装した女性兵達が立ち、神殿庁からも新たに五名の女性の神官がこちらへ来ることになったらしい。
警備のためとは言え、常時たくさんの誰かに側にいて見られる事になり、サイトウさんの毎日は更に気が休まらない要素が増えた。
朝食の後は、いよいよハイラスレシアの皇帝と会う手はずとなっていた。
神殿庁の名誉と誇りにかけて、護女官長は私達にサイトウさんの身支度をさせた。特にサイトウさんに施すお化粧には、護女官長がこれでもかと気合いをいれており、巫女姫の美しさも神殿の権威を象徴する一つの手段、との責務に駆られているようだった。支度が終わる頃、扉が叩かれウィルマの声がした。
「皇帝陛下がいらっしゃいました。」
この国の皇帝が目の前に来るーーーそう思うと流石に緊張し、全身に力が入った。
サイトウさんは扉の前で背筋をピンと伸ばして立ち、私と護女官長は彼女の左右で膝をついて首を垂れて待った。ドキドキして床についた膝がグラつくが、隣に立つサイトウさんは私以上に心臓が痛い思いをしているに違いない。
やがて扉が開くと大柄な男性が現れた。
皇帝は浅黒い肌の色をしていて、長く豊かな黒い睫毛と濃い色の瞳がとても印象的だった。彼は数歩足を進め、サイトウさんを力強い眼差しで見つめたまま自信みなぎる声で言った。
「なんと可憐で清楚な巫女姫にあらせられる。」
ぎこちない笑みを作りながら、サイトウさんが自分の名前を名乗った。
「なんと愛らしいお声であろうか。」
皇帝の目尻が優し気に下がり、とても愛しいものを見つめる様な目つきでサイトウさんに向けられた。どこか色気を感じさせるその表情に、サイトウさんの頬が薄っすら桃色に変わる。
巫女姫、と呼び掛けるその声は一層甘く、皇帝の手が部屋の外へサイトウさんをエスコートする為に差し出された。少し迷った仕草を見せた後、サイトウさんはその手を取った。これから後宮の中にある祈りの間で一緒に朝のお祈りをするのだ。サイトウさんは皇帝に手を引かれ、祈りの間へ歩き出した。ーーー皇帝は三十代半ばと聞いていたが、大きな瞳のせいか年よりも若く見え、サイトウさんと歩くその姿はお似合いのカップルの様にも見えた。
クラウスがこの光景を見たら、大層なショックを受けるに違いない……。
サイトウさんは神殿庁でこの時の為にお祈りの練習を幾度も重ねてきた。彼女が澄んだ綺麗な声でお祈りの言葉を紡ぐと、皆がうっとりとした表情を浮かべた。
私も護女官長もこの出来栄えに大変満足していた。
お祈りの後は皇帝とサイトウさんは馬車に乗り、後宮を出て目抜通りを通り、宮殿を一周して国民に巫女姫が皇帝のもとに来た事を知らしめた。
サイトウさんが外出する時は、神殿庁にいた頃からギャラリーが集まり、いつだって大変な騒ぎだったが、この日のパレードはそれに輪を掛けて大賑わいだった。長い距離の間、馬車の大きな窓からサイトウさんは手を振り続け、笑顔を絶やさなかった。だが流石に疲れたのか、馬車が後宮に戻った頃にはかなりげっそりとしていた。
『今日だけで十歳は歳とった気分だよ!!』
自室に辿り着くとサイトウさんは珍しく辟易した声で愚痴を言った。日本語だったので私にしか通じなかったが、護女官長たちにもニュアンスは伝わったのか、皆苦笑していた。
夕食は皇帝の提案により、サイトウさんは彼と食事を取ることになった。サイトウさんは時折私の通訳を交えつつも、なんとかその食事会を楽しんでくれていた。こちらの言語にはあまり不自由しなくなったサイトウさんだが、食事の後半になるとほぼ全ての会話を私が通訳しなければならなくなった。
余程疲労が溜まったのだろう。頭と舌が着いてこなくなってしまった様子だった。
皇帝に食事を共にしてくれたお礼と、感じの良い別れの挨拶を終えると、私たちは寝室まで脇目も振らず一直線だった。総出でサイトウさんの化粧を落とすと着替えさせ、明日朝一番に入浴させる事にして、寝て貰った。サイトウさんは私たちが彼女の寝室から出る前に、恐らく寝てしまっていた。
一大任務が終わると、最早私の頭の中には安らかな睡眠しか描けなかった。着替えはおろかやはり風呂など論外で、寝台に上がるとそのまま眠りの世界へトリップした。
夜中に目が覚めた。
カーテンの隙間から外を見ると、まだ真っ暗だ。
ふと自分の顔に触れてみると、乾燥しきっていた。
マズイ。
化粧も落とさず寝ていた為に、肌がゴワゴワになっていた。ただでさえハイラスレシアの空気は、日本に比べて乾燥している。こんな事を繰り返していたら、老化が進んでしまう。
女子としての血が騒ぎ、隣で寝息を立てている護女官長を起こさない様に静かに部屋を出て、浴場に向かった。廊下には灯りが等間隔でともされており真っ暗ではないが、昼間と違いあまりに人気がなく静かなので、私は走って浴場を目指した。浴場と私たちの寝室は建物で繋がって入るが、間に幾つか中庭があるので大回りして行かなければならなかった。近道をしようと中庭を突っ切る決心をして、回廊の階段を下りて庭に出る。
「あっ、そこのあなた!その中庭は通らない方が良いわよ!」
不意に背後から声を掛けられ、驚きながら振り返ると若い女の子の二人組が回廊にいた。彼女たちは私のもとに駆け寄ってくると、私の顔を見て目を見開いてから軽く頭を下げた。
「失礼しました!巫女姫様の護女官の方ですよね?」
「ここは通ったら駄目な決まりなんですか?」
逆に尋ね返すと、彼女たちは少し周囲を気にする素振りを見せながら言った。
「この中庭は『見る為の中庭』なのです。後宮の慣習と言いますか、不文律の一つです。」
驚いて暗闇に包まれた中庭を見る。
改めて近くで見ると、二人の髪は少し濡れていた。彼女たちも浴場帰りなのだろう。近道はせず、回廊を回って来たと見受けられた。
サイトウさんや妃たちは専用の浴場を与えられていたが、それ以外の女たちは幾つかの大浴場を共同で使っていた。夕方の混雑は大層なもので、諦めて夜遅くに入る女たちもいるのだろう。
ということは、レイヤルクの術を見られない為には今後は私は深夜にお風呂に行くしかないのか……。
「不文律…」
「あら、他にもたくさんございますよ!南の中庭は、正午に出てはいけません。お嫁に行き遅れると言われています。大浴場の右から二番目の席は、使うと親不孝になると言われています。後宮での食事は野菜から食べないと太ると言われています。」
不文律は多岐に及んでいるらしい。どうも最後の決まりだけは、種類が違う様だが……。
鑑賞専用の中庭、と言われても、他の中庭と何ら変わりなく感じる。寧ろ低木が茂っているだけの、地味な中庭に思えるのだが。しかしルールはルールだ。仕方なく私は大回りして浴場に行く決意をした。




