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黄金の中庭  作者: 岡達 英茉
第三章 後宮
38/66

嵐の一夜

 皇帝には既に子どもがいて、子どもの母となった女性は妃と呼ばれ、後宮には三人の妃がいた。三人の妃は個室が与えられ、特別な報酬を貰い、侍女の人数など様々な点での優遇を受けていた。

 サイトウさんは到着した日のその夕暮れに、第一妃の主催する歓迎会に招待された。

 広間に入ると、場を埋め尽く女性たちの人数に圧倒された。招待されたたくさんの女性たちが広間の壁伝いに敷かれた細かな模様の絨毯の上にコの字形に並んで座り、皆が一様に最大限めかし込んでいるために、その衣装の煌びやかさに拍車をかけるような化粧や上等な香水の香りが濃厚に漂い、この世の贅を集めたような空間になっていた。

 奥の座の特等席には三人の妃が座ってはいたが、サイトウさんは一番良い席へと案内された。皇帝の子を生んだ妃の地位は高いが、巫女姫はそれの上を行くのだ、と後宮にいる女性たちが認めたのだ。

 席につくと第一妃から順番に、サイトウさんに挨拶を始めた。

 第一妃は王族の出で、細身で背が高く、釣りあがった瞳がいかにも気丈そうだった。

 第二妃は丸い大きな瞳が印象的で、厚めの唇がこの上なく色っぽい女性だった。胸元が大胆に開いたドレスから覗く、巨大な鞠みたいな豊満な胸から、目を離すのに苦労をした。

 第三妃は小柄で大人しそうに見え、どちらかといえば控え目な顔立ちをしていた。美女で溢れる広間の中では、没個性的に見えた。

 ーーーー正直言って、皇帝の好みが全く読めない。もしや皇帝には好みが存在しないのかもしれない。

 夕食を兼ねているので、次々に豪華な食べ物が運ばれ、更には手配されていた踊り子たちが華麗に舞い、場を盛り上げた。サラとタラは巫女姫の食事の御味見係も務めており、サイトウさんが食事に手を出す前に2人は交代で食事に先に手をつけていた。所謂毒見である。サラとタラが味の検分に勤しむ中、私と護女官は後宮の中での生活について、女性たちからあれこれとアドバイスを受けた。

 後宮に数多いる女性たちの多くは、皇帝と顔をろくに合わせる事なく時を過ごし、一定の期間の後に外へ出て行く。こちらでは女性たちの教養を磨くカリキュラムが揃えられているために、ここで機織り等の技術を見につけ、外で仕事を見つける女性は多いのだという。後宮はいわば、女性にとっての職業訓練所としての役割も果たしていた。

 どの習い事の先生が一番評判が良いか、どこの中庭がこの季節は見頃か、浴場は何時頃が最もすいているか。

 彼女たちの話を聞いていると、女性だらけの異様に豪華な合宿所に来た様な感覚になった。もっとも、ここにいる女性たちが三人の妃の気分だけは害さないよう、端々で注意をしている事は、話ぶりや仕草から想像出来た。




 女だらけの華々しい宴が終わり、自室に戻るとサイトウさんは余程疲れたのか、大きな寝台の上に崩れ落ちる勢いで伏し、寝てしまった。彼女の体が寝冷えしないよう、丁寧に寝具を掛け直していると、寝台の脇に膝をついた護女官長が天井を仰いで呟いた。


「まあ、見事な細工ですこと。」


 釣られて私も上を見上げた。

 寝台の上の天井はドーム型になっており、立ち上がり部分から上部に向かって細かな装飾がされていた。頂点には寝台を見下ろす様に大きな絵が描かれており、そこには美しい翼を広げた白い鳥がいた。

 嫌な絵だ、と感じた。

 寝る時にこんなにごちゃごちゃした細工や絵画が視界に入って来たら、邪魔で仕方ない気がする。


「素敵な絵ねぇ。」


 護女官長は私とは違う感想を持ったらしい。サラとタラは実に双子らしく、同じ角度に首を傾けて天井を見上げていた。


「私はまだこの部屋を片付けますから、サヤたちは先に休みなさい。」


 サイトウさんの部屋の隅にまだ残る未開梱の箱を開け始める護女官長の言葉に甘え、私も泥の様に疲れ切った身体を引きずり、居間を挟んだ自分用の寝室に向かった。

 部屋に入り、二台並んだ寝台の内自分の寝台にどっかりと腰を下ろすと、背後で今閉めたばかりの扉が開いた。

 振り向くと心臓が止まるほど驚いた。

 部屋の入り口に、ずっと行方知れずだった、この場所には絶対にいるはずがない人物が立っていたのだ。

 頭が空白になるほど驚き、ややあって私はようやく口を開けた。


「レイ、ヤ………!?」


 あれほど神官長に探させたくせに、よりによって帝国のど真ん中、しかも皇帝の後宮という、女しかいない区画にレイヤルクは今この時姿を現していた。

 驚きのあまり、発するべき言葉が見つからない。どこにいたのか、いや、どうやって何しにこんな所に登場してくれたのか、というかそもそもあなたは何なのか。聞きたい事があり過ぎて優先順位がつけられない。


「驚かせたかい?」

「あ、当たり前です!……どうやって来たんですか?後宮ですよ、ここ!」

「そう、君は何だって後宮になんかまたのこのこやって来たんだい?神殿庁ならまだしも、君はここに一番いちゃいけないよ。」


 レイヤルクはつかつかと私に歩み寄り、懐かしむ様に私を抱き締めた。私はそれに驚いたが、そこに驚いている場合ではなかった。


  「心配したよ。元気そうでなによりだ。」


 暫くして私を放すと、今度はその左手を私に差し出した。改めて見れば右手には明かりがついていないランプを持っている。転移術に使う例のアレだろう。


「さあ、帰ろう。ここは怖かったろう?」

「帰るって、何処にですか。私一応自分の意思で後宮に来たんですよ。」

「いけないよ。これだけは譲れないね。………君が寒さに弱くなければ良いんだけれど。行こう。」


 尚も何事かを言い募ろうと口を開きかけたレイヤルクだったが、急に無表情になり、私の腰の辺りに目を落とした。眉間にシワがより、いつもは飄々としている顔つきが見る間に仏頂面に変わっていく。


「君、イヤなモノを持っているね。そこに入れているのは護符かい?………転移術が君に施せなくなっているじゃないか。」

「ですから、どこにも転移するつもりはありませんてば。」


 レイヤルクは私の右腕を取り、何やらブツブツ呟き始めた。彼の手にあるランプの術光石が小刻みに揺れ出す。

 マズい。本当にどこかに転移するつもりだろうか。私がこの場から忽然といなくなったりしたら、大騒ぎになるだろう。

 だが術光石は割れる事なく、揺れもピタリと収まった。


「う〜ん。結構強力だねぇ。悔しいなぁ。」

「レイヤルクさん、マズいですよ。護女官長が直ぐ近くにいるんです。」


 護女官長はこの部屋の周辺に結界を張っていた。

 こんな風に術を使って転移などしてきたら、彼女に直ぐにバレる筈なのだ。今か今かと焦る私を他所に、レイヤルクは言った。


「その結界なら解いたから問題ないよ。」

「えっ、解いた?」

「うん。解いた。」


 唖然とした。

 通常結界は破るか突くものだと聞いていた。結界の張り手の能力を遥かに上回る能力を持っていなければ、本人に気づかれずに解くのは不可能なはずだ。

 護女官長が知ったら、立ち直れないかもしれない。

 ただし、結界を張っているのは護女官長だけではない。神官長も後宮だけではなく、宮殿全体に結界を張っているのだ。そう言おうと思った矢先、私の発言を予測したのか先にレイヤルクは答えた。


「神官長の結界には流石に手を出していないよ。」

「えっ…」

「神官長は今頃あの黒髪の腰巾着を叩き起こしているところじゃないかい。」


 それはアーシードの事だろうか。

 いや、それはどうでも良い。それならば、急いで逃げなければ。勘付いた神官長が衛兵を引き連れてやってきてしまうかも知れない。


「見つからないうちに早くランプで逃げて下さい!」


 私はランプを握るレイヤルクがはめている手袋を見て不意に言った。


「………レイヤルクさんは禁術をした事があるんですか?」


 灰色の目がはっと見開かれ、私を見た。一瞬表れた緊張は直ぐに和らぎ、彼は穏やかな声で尋ねてきた。


「君はそれを誰かに話したかい?」


 否定しない、という事は本当にレイヤルクの手の色の原因は禁術なのだろうか。酷く突飛な思いつきだと考えていた仮定が、俄かに現実味を帯びる。


「いいえ。話してはいけない、とレイヤルクさんが仰ったではないですか。」


 レイヤルクの口元に笑みが広がった。安堵の表情に見えた。もっと詳しく聞きたかったが、時間がない。

 誰かがこちらへ駆けてくる物音でもするのではないかと、部屋の扉を薄く開けて確認していると、レイヤルクは素早くランプを床に下ろし、私の両肩を掴んで引き寄せた。


「願いの剣を置いていこう。」


 レイヤルクの左手が私の背中に回り、困惑している間に右手は私の鎖骨辺りに服の上から押し当てられた。ギョッとしたその瞬間に、胸にピリピリとした痛みが走った。


「い、いたっ…」


 私がレイヤルクの右手を振り払おうとした直前に、彼は私の身体を離した。胸を押さえながら擦り、何をしたのだとレイヤルクを睨み上げると、彼は諭す様に言った。


「ここが嫌になったらいつでも私を呼びなさいね。胸に手を当てて力強く願えば、私の力を三度だけ使う事が出来る。」


 レイヤルクの目線をたどり、そろそろと自分の襟を引っ張って隙間から胸を覗くと、瞠目した。私の胸のど真ん中に、太さ二センチ、長さにして五センチほどの金色の線が鎮座していたのだ。

 恐る恐る触ってみると、曇りひとつない銀色にもかかわらず、皮膚に触れる感覚しかない。丁度金色の棒でも胸に埋め込まれたみたいに見えて、気持ち悪い事この上ない。試しに爪を立ててみても、削れもしない。見ようによっては金色のいれずみにも見える。


「願いの剣だよ。」

「やだ、こっ、これ、落ちませんよ?!」


 レイヤルクは私の両手をその掌で包み込み、狼狽してジタバタと動く私を宥めようとやんわりと押さえた。だがこちらはちっとも落ち着かない。この状況の一切合切が、私の範疇をこえ過ぎている。目を激しく白黒させる私に言い聞かせる格好でレイヤルクは言った。神殿庁やサイトウさんが嫌になったら、いつでも護符を棄てて自分を呼べ、と。

 私を見ていたレイヤルクの表情が急に引き締まった。彼はどこを見るとでもなく、宙を睨んだ。レイヤルクは瞬時に人差し指を立てると、いまだ動揺する私の口元にかざした。


「もうバレちゃったか。想定以上に早いな。」


 耳を澄ませば、遠くの方で何やら集団が走ってくるような物音と声がした。まさか、追っ手が?


「私はヒナ=サイトウなんてどうでも良いから、君は自分自身の為に生きるんだよ。」

「これ目立ち過ぎです!取って下さい!」

「話を聞いているかい?………服を脱がなきゃ見えないだろう?第一自由に外せる物は心許ない。………以前の君はそれを捨ててしまったからね。」


 以前とは何の話だ、と聞き返そうとした時、遠くから大勢の人々が走る足音と、声が一層こちらへ近づいて来るのが聞こえた。その直後に、隣の部屋の扉が開く音がしたので、私は弾かれた様に動き、部屋のクロゼットを開いた。あまり広くはないそこには、私と護女官長の服がギッシリ掛けられていたが、私は構わずレイヤルクを中に強引に押し込めた。

 クロゼットを閉めたのと、寝室の扉が開くのは殆ど同時だった。現れたのは護女官長だった。


「外が騒がしいので、少し見てきます。サヤはヒナ様の所に行きなさい!」

「はいっ!」


 威勢良く返事をしたものの、護女官長が廊下へ出て行ったのを確認するや、私は部屋に戻ってクロゼットを開けた。

 私の服に埋もれた状態のレイヤルクが、もがく様にして出てきた。


「窒息するかと…」

「レイヤルクさん、早く転移を!」


 床に転がっていたランプを拾うと、レイヤルクに半ば投げる勢いで押し付けた。私がこれ以上はないほど急いで焦っているのにもかかわらず、当の本人はのんびりと構えていた。 その落差に更にイライラとする。


「それが、今しがた出来なくなったんだよ。」

「はいっ!?」

「神官長に警戒されたかな。結界が縮小されて、急激に強化されてしまった。」

「つまり、それはっ?」

「神官長は今多分、結界が破られない事に全精力を注いでいる。」

「それで、その結界は…」

「これはちょっと、ここから出るのは工夫がいるねぇ。」


 遠回しな言い方に苛立ち、私はズバリ核心をついた。

 要するに、レイヤルクさんは今結界の外に出る術が行えないという事か、と。

 

「やってみなければ何とも。でも、多分時間がかかるかな。」


 どう考えても追っ手はサイトウさんを守るため、こちらに向かっている。術を練っている時間はない。


「ズバッと結界を破っても良いんだけど、そうすると反動があるからね。」

「反動…」

「神官長が最悪死んだりしたら、マズいだろう?やっぱり。」


 確認している、というより私の返事次第で結界を破ってしまいそうな聞き方だった。最初からそのつもりだったのかもしれない。私は諭す様にハッキリと答えた。


「勿論、それはマズいです。」


 私は寝台のサイドテーブルに置かれたままの自分の手帳に手を伸ばし、一枚紙を破いた。それをレイヤルクに手渡す。


「生けるぬいぐるみの神技、出来ますよね?この紙でやって下さい!」

「………生ける人形の神技の事かい?」


 名前なんてどうでも良い。

 ただ、ここの所ガリ勉の様に勉強をしてきたので、陽法論の中に、紙に描いた絵を実体化するや神技が載っているのを私は覚えていた。衛兵たちにそれを追わせて気をそらせるのだ。もし神官長がその際に神技を使えば、結界も多少緩むだろう。

 レイヤルクは紙を片手に何やら呟いた。すると紙の上に瞬時に一人の人間の姿形が描かれはじめた。


「レイヤルクさん、髪は赤毛で、目は青色でお願いします!」

「注文が多いねえ。君の好みかい?」


 特徴的で目立つ方が良いからだ。面倒なので私は質問を無視した。


「あと背が低い男性にして下さい!」

「この紙の大きさなら、言われずともそうなるよ。」


 紙の上に描かれた男性の影がホログラムの様に浮かび上がり、紙から離れて床に下りた。光の様にぼんやりと透けて見えていたその体は、大きくなるとともに徐々に光を失い、しっかりとした色となり、本物の人の様に変化した。まるで目が次々に錯覚を起こしているみたいな気分になった。

 目の前にいるのは、絵の通り赤毛に青い目の、酷く表情を欠いた、背の低い人だった。触ろうと手を伸ばしても、空を切る。ただ、体の中心部分に紙の感触があった。

 後には床には人型に切り抜かれた紙切れが残されていた。

 レイヤルクはそれを拾うと、自分のポケットに仕舞った。


「良いですか?ちゃんと逃げて下さいね。」


 クロゼットの中にレイヤルクを再び押し込もうとすると彼は振り向いて真顔で私に聞いた。


「君はここに残って本当に良いのかい?」

「また後で会いましょう!」

「その生ける人形、神官長は…」


 最後まで聞かずに私はクロゼットを閉めた。そもそも今私がレイヤルクとこの場から逃げたら、私も社会から抹殺されるに等しいのではないか。それに万一レイヤルクがここにいるのを見つかってしまえば、私とレイヤルクの関係も公にされてしまう。そうなれば、私も無事では済まされない。

 部屋の窓を開けると、大きな声で力一杯叫ぶ。

 同時に生ける人形は走り出して部屋の外へ飛び出した。

 続けて私も部屋を駆け出ると、叫び声を耳にしたのか、ちょうど居間の隣のサイトウさんがいる部屋が開き、サラが出てくるところだった。サラとタラはサイトウさんの部屋へ行っていたらしい。


「曲者よ!ヒナ様をお守りして!」


 サラに向かって叫ぶと、咄嗟に彼女が結界を張るのが横目にみえた。

 サヤ!と私を呼ぶサラとタラの声を背後に聞きながら、私は生ける人形を追って廊下へ飛び出した。廊下に控えていた女性の衛兵が驚いて剣をふり下ろしたが、生ける人形はそれを擦り抜けて先へ走り続けた。

 暗い廊下の先からはたくさんの足音と同時に、衛兵たちのものらしき怒鳴り声が聞こえた。ガチャガチャと金属音も聞こえるから、いつも以上に武装した衛兵もいるのだろう。


「誰か来て!侵入者です!」


  大声を出すとそれが呼び水となり、廊下の向こうから二十を超す数の衛兵が姿を現した。その最後尾に、よろめきながら護女官長が駆けてきている。

 生ける人形はそのまま廊下を抜けて、その先へ逃げ続けた。私はスカートの裾が捲れ上がるのも構わず、それを追って走った。中庭を突き抜け、階段を幾つかのぼり回廊まで辿り着いた。


「誰かいるのか?!」


 その時、廊下の先の闇を割って、騒々しい足音と男たちの怒鳴り声がした。後宮にいるはずがない、男の衛兵がついにやって来たのだ。皇帝の許可を受けて、ここまで駆けつけたのだろう。


「そこの男、お前何をしている?!」

「待て!止まれっ」


 人形を一番近くで追っているのは私だったが、人形が走る足の速さに次第に距離が離されていく。

 二つの中庭に挟まれて、優美な曲線を描く回廊を人形は駆けていたが、その先から唐突に白い神官服を纏った背の高い男が現れた。

 神官長だーーー!!

 人形は私と神官長に挟まれる位置にいた。前後を挟まれた人形は、素早く私を振り返り、その青い目と一瞬目が合った。その直後、人形は回廊の手すりを乗り越えて、中庭に下りた。私はそれを更に負うべきか躊躇したが、ここで見失っては、これを作り出してもらった意味がない。僅かな躊躇いの後、人形の後に続こうと手すりに手を掛けて足を上げ、中庭に下りようとした。

 だが、身体が手すりを越えた時、下を見下ろして身がすくんだ。

 私が立っていた位置は、下の中庭から更に階下におりていく階段の上にあったのだ。即ち飛び降りようとしているところは相当な落差があり、深くなっていた。平らな地面や草の上ならまだしも、この高さから階段の上に怪我無く着地する自信は全く無かった。

 咄嗟に身を反転させて手を伸ばし、手すりにつかまったが、身体は手すりを乗り越えたあとだったので、私は手すりにぶら下がって何とか中庭への落下を免れた。反動で手すりのポールに胸を強打し、胸がぺしゃんこになりそうなほどの痛みを感じた。

 直ぐに駆けつけた衛兵たちが、手を伸ばしてくるが、怖くて手すりから手を離せず、その屈強そうな腕に捕まることができない。

 ーーーこれこそ、チャンスじゃないの?

 ふと思いついて目で神官長を探すと、彼は私が目論んだ通り、右手をこちらに差し出して、何やら詠唱を始めていた。

 直後、私の身体が見えない手に持ち上げられる様にして上方へ上がり、手すりから手を離すとそれを乗り越えて元いた回廊の床の上に落下した。

 神官長に礼を言おうと顔を上げると、彼は突然胸の辺りを押さえて身体を二つに折った。

 うううっ、と呻いたかと思うと、そのまま神官長は床に膝を着いて崩れ落ちた。その際、片方の手を床に着いて受け身は取ってはいたが、回廊の石造りの床に額を打ち付けた。


「神官長!?」


 周囲にいた衛兵は彼の身体に触れるのを躊躇していたが、私が彼を助け起こすと直ぐに手伝ってくれた。

 私たちの手を借りて顔を上げた神官長は、顔面蒼白になっていた。開かれた目は一瞬焦点が合っていなかった。だが何かを振り払う様に顔を左右に振り、目を瞬くと神官長は周囲にいた衛兵たちに命じた。


「何をしている。あの男を追え!」


 その命令に弾かれた様に反応し、衛兵たちは次々と中庭へ下りていき、薄暗い中庭の向こうへ既に姿を消した人形を探しに消えていった。

 神官長は衛兵たちの後ろ姿を目で追いながら、呼吸を整えた。

 ーーー多分、さっきレイヤルクさんが神官長の張った結界を突いたんだ。

 私を助けるための神技の発動によって、微かに生じた結界の僅かな隙をついたのだ。おそらく神官長はその反動を受けたのだろう。

 苦しむ神官長に申し訳なく思いつつも、他方では私はレイヤルクが無事に逃げられて安堵した。

 神官長はゆっくりと私に視線を移した。


「サヤ。正直に話してくれ。そうでなければ私は貴方を庇いきれない。」


 神官長は何かに気づいている!

 自分に向けられる疑いに満ちた目に耐え切れず、思わず目を逸らす。

 今になって、レイヤルクが言いかけた事に気付いた。

 神官長はこの術を見破れるはずだ、と彼はその言おうとしたに違いない。


「サヤ、私は結界内で力が使われるとある程度感知できる。」


 神官長は続けた。

 宮殿では日常的に色んな神技が行われているが、今夜、結界を突かれた後に三度、非常に強力な力の発動を感じたと。

 神官長は手を伸ばし、私の服の腰帯に触れた。


「一度目は、この護符に私が施した神技を解除しようとする力だった。」


 レイヤルクが私を連れて転移しようとした時のことだろう。


「そんな事をするのは、あの男に他ならない。」


 観念するしかなかった。


「何があった?」


 地の底から響く神官長の声色に恐れをなして、冷や汗が出てくる。見上げれば非難がましい瞳がこちらに向けられていた。神官長は腕組みをして、私に説明を求めた。


「レイヤルクさんが、突然転移してきたんです。別にレイヤルクさんの肩を一方的に持ったわけではないですよ?ただ、場所があまりに………。」


 よくよく見れば、目の前に立つ神官長の出で立ちは奇妙であった。神官服の一番上の一枚をすっぽりと羽織ってはいるものの、その下は寝間着にも見える。まさか自宅の寝室から飛び出して来たんだろうか? おまけに上から下まで舐める様に神官長を観察してみると、なんと裸足だった。さあ今しも寝よう、と寝台にでも上がった直後か何かだったのだろうか。


「あの男とどんな話を?何もされなかったか?」

「か、彼は私に転移してここから出る様にと…」

「やはりそうきたか。それが無理だと分かってさっき帰ったのか。」


 神官長は腕を組んだまま、眉間に皺を寄せてその場を動かなかった。彼は眉を少しひそめて目をすがめ、やや首の角度を傾けた。


「ーーーあの男。改めて考えれば、どこかで見た顔だな。かなり以前、どこかで見た気がする。」

「どこでです?」

「思い出せない…」


 神官長は私に部屋に戻る様に言うと、それは長い溜息をついた。


「陛下に報告にいく。あの男の名は伏せておくから、案ずるな。」


 賊が後宮にしのびこみ、衛兵がそれを取り逃がした。

 その騒ぎはあっと言う間に後宮内に広まった。


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