出発のとき
歳月の流れは止まってくれるはずもなく、私たちはその日をあっと言う間に迎えた。
巫女姫が後宮へ行く日が、ついにきたのだ。
後宮へ巫女姫が発つその当日の朝、私は神官長に呼び出されて、神殿庁の祈りの間にいた。
静まり返った広い祈りの間には、私と神官長以外、今は誰もいなかった。
間も無くサイトウさんと他の護女官たちの一行がこちらへやって来るはずだ。
祈りの間の真奥に設置された、高い天井まで届く木の祭壇の前に立つ神官長は、白地の正装の上に黄色のマントを掛け、装飾が施された儀式用の錫杖を左手についていた。
「後宮へ行っても、神殿庁の一員である事を忘れないように。」
「はい。」
神官長は後宮に侍女として私がヒナ様に同行するのを認めてくれた。
今日、これから巫女姫様出発の儀を挙行する前に、一人で神官長に呼び出されたのは、その最後の心得を私に言って聞かせる為なのだと思われた。サイトウさんに同行したい、と頼んでみたあの日から、私は神官長と二人きりになる機会が殆ど無かったので、久しぶりのこの状況に心穏やかではいられなかった。一人前の護女官になろうと力を尽くしても、神官長の前に出ると自分が酷く頼りなく感じられて仕方がない。
「ヒナ様には神殿庁の盾があるが、サヤにはないのだ。自分の安全をまず優先してくれ。」
「はい。」
畏まって私が頷くと、神官長はその場で膝をつき、頭を下げた。衣擦れのサラサラとした柔らかな音が響く。低頭されるのは七ヶ月ぶりなので、当惑する。
「神官長?」
「………サヤ様の御身の安全の為に、護身の神技をかける事をお許し下さい。」
彼は顔を上げると、私を見上げた。久しぶりの尊敬語で、こそばゆい。私はどうぞ、とぎこちなく返答をした。
「聖木の護符はまだお持ちですか?」
護符ーーー神殿庁に来たばかりの頃、貰った聖木の葉だ。
私は自分の腰に巻いた外出用の綺麗な帯の折り目に手を突っ込み、柔らかな布にくるまれた護符を見せた。
神官長は少し表情を緩めると、護符に右手を差し出し、抑えた声で歌う様な詠唱を始めた。うっとりとしてしまう美声を今独り占めできる贅沢に束の間酔いしれる。
「後宮では常にお持ち下さい。不審な術から御身をお護りします。」
「ありがとうございます。」
神官長は立ち上がると、祈りの間から廊下に通じる扉の方をみた。もうすぐサイトウさんたちがやって来るはずだ。
「この後、儀式ではヒナ様の為に、同じく巫女姫様の幸と安全を祈ります。………ですが今は、サヤ様の為に祈らせて下さい。」
返事を私がするより早く、神官長は両手で錫杖を持ち、石の床に強く一度、振り下ろした。広い室内にその衝撃音が共鳴し、余韻が鳴り止む前に、彼は再び詠唱を開始した。
柔らかな歌とも囁きとも取れるそれを紡ぎ出しながら、神官長はリズムに合わせて錫杖を軽く床に打ちつけていた。その響きは大層心地よく、耳で聴き、身体で振動を感じているうちに、不思議な快感が押し寄せて来た。
目の前に立つ神官長の両目は閉じられており、私はその長い睫毛をずっと見つめていた。
詠唱が静かに終わり、代わりに錫杖が床を又一際強く打つと、同時に神官長の青い双眸が一気に見開かれ、その一瞬に私の視界に様々な映像が一度に乱れて押し寄せた。
ーーー子どもの頃に母親の首に腕を回し、抱きついたあの時。母の笑顔と体温、そしてその後ろに見える青空の眩しい陽光。
気心の知れた友と他愛ない話で笑ったあの時。転がる様に笑い続けた、輝かしい時間。
今は別れた恋人と手を繋ぎ見つめ合ったあの時。
陽だまりを無心で歩く時。
ーーー今まで経験した、あらゆる美しく幸福な瞬間が蘇り、胸が途方もない高揚感に襲われた。脳裏によみがえるそれらの光景と感覚に、視界は埋め尽くされ、圧倒的な感情に胸が張り裂けそうになる。心と身体に満ち溢れたその記憶の嵐に、私は一瞬平衡感覚すら失い、最後はまるで光の海に浮いているかの様な気さえした。
それは穏やかに収束していき、気が付くと神官長は私を真っ直ぐに見つめ、ただ辺りには何もなかった様な静寂が広がっていた。私は数秒前と寸分変わらず、やはり立っているだけだった。
これが、神官長の祈りなのだ。その力の大きさをまざまざと体感させられ、私は打ちひしがれて動けずにいた。
言葉も発するのを忘れ、見つめあっていると、急に神官長が床に崩れ落ちる様に膝をつき、首を垂れた。そう何度も無駄に敬意を表さないで欲しい。
「神官長、立って下さい……!」
「跪かせて下さい。」
どうしたんだろう、
まさか今の強烈なお祈りで、体力を消耗し過ぎたのだろうか。この後まだ仕事が彼には山積みな筈なのに。どうしたことだ。
「あの、」
神官長は半ば投げやりに呟いた。
「………立っていると、あなたを抱き締めてしまいたくなるのです。」
身体が痺れて動かない。なに………、今、なんて?
聞き間違いだろうか?ーーーーどう解釈すべきなのだろう。
ああ、真意はどうであれ、もう良い。ただ、ただ今顔を上げて立ち上がって、私を抱き締めてくれたら、そうなったらどれほどの幸福感を味わえるだろうか。多分それは今の祈りよりも、私に幸福感を与えてくれそうな気がする。
その場に押し黙ったまま、私たちは硬直していた。静寂すら反響しそうな程に高い祈りの間の天井の下、私は自分の気持ちに全面降伏をしたい気持ちになった。愚かしいことに、いまや私の気持ちはよりによってこの神官長に奪われてしまっていた。
どのくらいそうしていただろうか。扉が外から数回叩かれ、神官長が立ち上がり短く返事をすると、正装したエバレッタが現れた。
「間も無くヒナ様がお越しになります。その前に護女官長も呼びますか?」
護女官長も私と同じく、サイトウさんと後宮に行く事になっていた。エバレッタは護女官長にも神官長が出発前の訓示をする意思があるかを問うた。神官長が無言で首を左右に振ると、エバレッタは神官長に近寄り、マントの肩から後ろについた飾りをなおし始めた。まるで少しの乱れも許さない、といった様子で。
目をそらして退出しようとすると、神官長は私を呼び止めた。
「サヤ。必ず週末毎、神殿庁に報告に来るのだ。決して欠かしてはならない。」
「心得ています。」
巫女姫の動静については、護女官が週単位で神殿庁に報告をしなければならなかった。
サイトウさんは後宮から自由に出られないし、護女官長は側を離れない。他にもサラとタラという、双子の護女官たちが付き従う事になっていたが、二人は皇帝の母后の姪たちであり、サイトウさんの立場をより強固にする目的の人選でもあった。報告の任務は私の担当になっていた。
ハイラスレシア全土から集まった高位の神官たちで祈りの間がいっぱいになった中、豪華に着飾ったサイトウさんが祭壇まで歩き、荘厳な雰囲気で出発の儀式は執り行われた。
真紅の絨毯が連綿と敷かれた廊下を、私と護女官長に両側を挟まれたサイトウさんが進み、外で待機していた白い馬車に乗り込む。馬車は花々で華麗に飾り立てられていた。
馬車の扉が閉まるまで、後宮に同行出来ない他の護女官たちは、サイトウさんの手をかわるがわる握り締め、別れを惜しんでいた。
扉を閉めたのはクラウスだった。扉が閉まると、クラウスは窓に右手の手のひらをそっと押し当て、サイトウさんを見た。サイトウさんは素早く右手をあげて、窓越しのクラウスの手と重ねた。切ない視線は直ぐに引き剥がされ、クラウスは馬車の車体から身を引いた。相手を失ったサイトウさんの右手はゆっくりと窓から離れ、そっと握りこぶしを作るとその胸に当てられた。
馬車が動き出すと、サイトウさんは窓に身体を寄せて、見送りに来ている神殿庁の職員や神官たちに、不安げな笑顔になりながらも、手を振り、挨拶をした。
神殿庁の敷地の外は、巫女姫の姿をその目でとらえようと押し寄せた群衆でいっぱいだった。
辛うじて確保された狭い馬車の通り道をノロノロと行く中、サイトウさんが振り撒く可愛らしい笑顔に、沿道の人々は興奮し、彼らも又満面の笑みで祝福をしてくれていた。
徐々に遠ざかっていく神殿庁の建物群を振り返ると、人垣の向こうに、他の神官たちにかこまれて正面入口にいまだ立つ神官長の姿があった。
彼は私と目が合うと、自分の腰の辺りに軽く手を触れる素ぶりを見せた。
護符をちゃんと携帯しなさい、との仕草に受け取れたので、私はこくりと一度頷いて、了解を示した。
群衆の中に私はタアナの姿を探した。
もしかしたら、来ているかもしれない。ただ、詰め掛けた大勢の中から一人を見つけるのは、針を藁山の中から探す様に難しかった。
タアナの顔と、もう一人の人物の顔を思い浮かべた。ーーーレイヤルク。
彼がこの場にいるはずは、勿論ない。
術屋の中で離れ離れになって以来、音信不通だったし、神官長も彼の話はもう長い事しなかった。完全に行方知れずになっていたのだ。
群衆の密集地帯を過ぎると、馬車は速度を上げて走り出した。
後宮はハイラスレシアの政治の中心であり皇帝の住まいでもある、宮殿の中の一角にあった。ハイラスレシアの宮殿は神殿庁からは離れており、緊張による車内の沈黙を圧倒する巨大な建物が私たちを待っていた。
宮殿は大きなドームを持つ堅牢な、大小様々の円型建築物がくっついて、一つの建物になった形をしていた。その周りには何重にも分厚い石の門が巡らされていた。
後宮は宮殿の内部では奥の方に位置し、長い廊下と幾つもの棟を抜けたその先にあった。
外からみた重々しい宮殿の雰囲気とは異なり、後宮エリアは中庭や大きな窓が多く、開放的で明るかった。あちこちに色鮮やかな花々が咲き誇り、鳥が庭の水盤台にとまって水をつつくなど、一見平和で美しい時が流れていると感じさせた。
サイトウさんが後宮に与えられた部屋は、後宮の女性が使える部屋の中でも最も大きな個室の一つで、三間からなっていた。最初の間は居間になっていて、その奥にサイトウさんの為の大きな寝室があり、居間の隣にあるもう一間は護女官長と私が使う寝室だった。サラとタラは三間の隣に部屋を与えられていた。
後宮には日頃から女性の衛兵が配置されていたが、巫女姫の為に、その人員が大幅に増員されていた。
皇帝は毎朝、後宮の隣にある皇帝専用の祈りの間で太陽神に感謝の祈りを捧げるのが日課で、昼間は後宮エリアにいない為に、皇帝への挨拶は明日の朝一番に行う事になっていた。明日は太陽祭の日でもあるので、盛大に祈りを捧げた後は、街中を皇帝と巫女姫がまわらなくてはいけなかった。
馬車を連ねて運びこんだ荷物は少なくなく、私と護女官長は引っ越し荷物の開梱に追われた。その合間にも、後宮の住人たちがご丁寧にも挨拶に訪れ、作業がなかなか進まなかった。
バラバラと引っ切り無しに女性たちが訪問してくるものだから、終いには、彼女たちはワザと私たちの作業を邪魔しにきているんじゃないか、と被害妄想に駆られるほどだった。訪問者のあまりの人数に、私の脳内はパンク状態になり、名前など到底覚えられないし、最後の方には顔の認知機能も麻痺し、彼女たちの自己紹介すらうわの空で聞き流していた。
後宮を取り仕切るのは、後宮官女長のウィルマという中年女性で、チリチリの短髪が一度見たら目に焼きつく、個性的なヘアスタイルをしていた。どうしても時代遅れのパーマを連想してしまう。ウィルマはキリッと表情を引き締めていて、表情にあまり動きがない人だったが、かといって私たちに対する態度は丁寧で、後宮の中を詳細な説明をまじえて案内してくれた。
後宮の中では女性たちが教養を磨くためのカリキュラムが充実していて、裁縫や楽器、舞踊を習う為のホールや、情報を交換するためのサロンが幾つかあり、若い女性たちがたくさん集まって己の内面磨きに励んでいた。
侍女以外の女性たちは基本的にここを出られないので、彼女たちの娯楽施設も用意されていた。つまり演芸場や巨大なプール、浴場もあったのだ。
私たちは新しい環境に尻込みしつつも、出来るだけ神殿庁にいたころと変わりない普段の生活空間をサイトウさんに提供しようと、与えられた部屋を神殿庁から持ち込んだいつもの調度品で統一し、サイトウさんが好きな香をたいた。
廊下を私たちが歩く度、数多の女性たちから寄せられる視線は、一様に好奇の眼差しに満ちていて、今まで以上に注目にさらされるサイトウさんは、気の毒なくらい緊張し通しだった。
私はなるべく彼女の緊張を和らげようと、部屋を設えながらも護女官長ととりとめのない雑談を延々と続けた。
驚愕の出来事が起きたのは、後宮に来た初日の、まさにその夜だった。




