再び術屋へ
話が終わり、アーシードや護女官長と共に退出しようとしたところ、私は神官長に呼び止められた。私の名を呼んだ神官長は、机に軽く腰掛けた状態で顔をしたに向けてペンを持ち、机上に乗る手の平ほどの大きさの紙片に無言で何かをスラスラと書いていた。そのまま残る片手をおもむろに持ち上げ、私に向かって手招きをした。
一人残った私が部屋を出て行くのをやめて、神官長の前に戻ると彼は直ぐに顔を上げ、紙片を私に差し出した。そこには三行の文が書かれていた。
真夏の夜の月の雫。
冬の朝靄を浴びた霜柱。
夕暮れの陽写す空。
ーーーなんだこれは。
「護女官としての仕事だ。それを明日の巫女姫ヒナ様の神殿訪問までに揃えられるか?」
二人きりなのに尊敬語を使われなかったので、自分でお願いしておきながら、その変化に私は一瞬驚いてしまった。また話し方は丁寧だったが声色は厳しかった。私は少しの時間、止まってしまった。
ーーーこれを揃えておく?
明日はたしかに、巫女姫が帝都の中にある他の神殿を訪問し、お祈りに参加する予定だった。それはいい。
だが、霜柱を準備するって、どうやって?
他の二つなんて論外だ。雫と空、だなんて。意味がわからない。流石にいくら神官たちに不思議な力があるとはいえ、空を取るなんて不可能に決まっている。
「………私がいた世界では、月から雫は取れません。」
「こちらでもとれません。」
神官長は私の手の中から紙片を引き抜いた。そうして、黄金の指環がはめられた指で、メモを上から順にさし示していきながら説明を始めた。即ち、月の雫とはダイヤモンドを、霜柱はサファイアを、夕暮れの空はルビーを意味するのだ、と。
「これらの石は同時に身につければ、太陽神のお怒りを買うと言われ、神殿では禁忌にあたる。ヒナ様の身支度には決して三石を被せて用いてはならない。」
知らなかった。
自分の無知さを痛感させられ、小さくなりながら詫びる。護女官として扱って、なんてお願いをしたくせに、私はまだそんな事も分からない。多分、一番下位の神官だって、そんな知識があるに違いない。恥ずかしい。
「サヤ。神殿にきたばかりなのだから、分からなくて当然だ。ヒナ様を思う気持ちも分かっている。だが、良く考えてくれ。」
私の正面に立つ神官長は、少し腰をかがめ、私と目の高さを合わせる様にした。背が高いのでいつもは見上げるか、若しくは無駄に私に低頭するので見下ろすかの両極だった顔が、目の前の近くに来ると妙に緊張をした。
「神殿庁の威光は後宮の侍女にまでは届かない。」
それはつまり、後宮に一歩入れば、私たち護女官は自分の身を、自分で守らなくてはならない、という意味だろう。七ヶ月後には、サイトウさんももっとハイラスレシア語に不自由しなくなっているだろう。その間、私も今のままと同じでいてはいけない。護女官として精進しなければ。巫女姫は後宮に入れば、皇帝の宗教行事に参加をするのだという。その時サイトウさんの身支度を、私が一人でも間違いなくこなせるようでなければ、私自身が自滅するだけだ。神学の知識も不可欠だろう。
今ある自由時間の全てを捧げても、勉強しなければ、いっぱしの護女官にはなれないかもしれない。
「私はサヤにまで後宮に行って貰うつもりはない。寧ろ断固として止めたい。」
「神官長……。七ヶ月で、這い上がれる所まで力を尽くします。」
「焚き付けたかった訳ではない。その逆だ。………後宮で侍女をさせる為に、術屋から連れ出したのではない。」
私に向けられる心配そうな青い瞳を見ながら思った。この人は、人前ではおくびにも出さないけれど、ちゃんと私の事を気にかけてくれているんだ。そう思うと、胸がこそばゆかった。
安堵に似た喜びがジワジワと広がり、自然と笑みが浮かんだ。
「サヤ?」
「出来るところまでやってみます。あとは私はご判断に従うだけです。」
今のままではだめだ。
私もこのハイラスレシアで一人のサヤとして生きていかなくちゃいけないんだ。いつまでも浮わついている訳にはいかない。私は、この地でこれからの人生を自分の両足で踏ん張って進んで行かなければならないのだ。サイトウさんが日々鍛錬して彼女の役割を担うのを、ぼんやり遠くから眺めているだけでは、それこそいる意味がない。
「うまく説明出来ないのですが、私はいかなくちゃいけない気がするんです。」
神官長は私の目を覗き込む様な仕草を見せ、少し不思議そうな表情を浮かべた。幾度か瞬きをしてから、彼はゆっくりした口調で言った。
「私も上手く説明しかねるのだが、サヤには神殿庁を離れてもらいたくはない。」
「後宮では私がヒナ様のお役には到底たてないからですか………?」
「ヒナ様は心強くお感じになるだろう。だが或いは、サヤが心配する通りになるだろう。」
お前は不要だ、と宣言されるのは遠回しであっても多少傷付いた。神官長が言いたい事は理解できるし正しいのだろう。私は同じ日本人としての使命感のあまり、空回っているのかもしれない。だけど、………私って何の為にここに来たのかな………?
私がどんよりとした気持ちから落胆を隠せないでいると、神官長はすうっと私から目を離し、青い視線を部屋の彼方此方に彷徨わせた。片肩に下げられた官位を表す真紅のショールを、腰の辺りで右手の指先が弄んでいる。
なんとなく気まずい時間が流れた。
「サヤはこちらで気負わず過ごせば良い。この事態の責任は私にあるのだから、懸念は全て私に。」
召喚の責任を取ろうとしてくれているのは有難い。お給料もこの地で困らないほど貰っているし、神殿庁の毎日は安全で快適だ。でも、何も考えず動かないのは、ただ鳥かごの中で生きるのと同じだ。
神官長は私を見ていたが、尚も片手の指先で真紅のショールをいじっていた。普段他の神官たちの前では堂々とした佇まいを見せているのに。どうも私はよほど彼を困らせているらしい。目のはしでその様子を捉えているうちに、私はふと神官長に嫌味の一つでも言ってやりたくなった。
「神官長は私をなるべく隠したいのですか?臭い物に蓋をするみたいに…。」
神官長の目が大きく見開かれた。
しまった。怒ったのだろうか。
だが薄い色の瞳からは今ひとつ感情が読み取れない。
「隠したい、というのは語弊があるな。だが似たものかもしれない。」
一旦言葉を切ると、神官長は口を真一文字に結び思案に暮れた後で、少し苛立った様に首を左右に振った。
「護女官としてなどではなく、サヤの素性を知っているのが私だけだというのが、恐ろしいのだ。巫女姫様が後宮でただの侍女として扱われる事が。」
「そんな事ですか。私は別に構いませんけど…」
予想外な事を言われて、苦笑まじりに返事をすると、神官長は後悔を匂わせる溜息をつきながら額を抑えた。
「忘れてくれ。勝手な言い分だな。」
だいたい神殿庁でも一介の護女官としてしか扱われていない。神官長にとって、それとどう違うのか。私が言葉を選びながら尋ねると、神官長はゆっくり口を開いた。
「………手元にいて貰うのとは違うのだ。目が届かない場所に行かれてしまえば、今とは心配の度合いが全く異なる。」
「私なら、大丈夫ですから。ヒナ様の側にいる為に、頑張ります。」
神官長は静かに溜息を吐いた。そして私にやっと聞こえるくらいの小さな声で呟いた。
「サヤは優しい。あなたは本当に一途で………人の為に全力を尽くす。」
それから暫くして、久しぶりに術屋へ行く機会が再びめぐってきた。
レイヤルクの術屋の捜索が完全に終了したのだという。
私は神官長とアーシードに連れられて、かつて四カ月を過ごした家に戻ってきた。
黒塗りの神殿庁所有の立派な馬車が術屋に着くと、わらわらと人だかりが周囲に出来る。
神官長とアーシードはそれを気にする素振りも見せず、聖騎士たちを通りに残して術屋へと入って行った。
以前様子を見に来た時と同じく、術屋の中はきちんと片付けられていた。
神官長は店舗スペースには目もくれず、真っ直ぐに奥の部屋である倉庫室へ向かった。ーーーあの日、レイヤルクが姿を消した場所だ。
窓が大きな店舗部分とは異なり、そこは昼間でも若干薄暗い。神官長は奥の倉庫室へ入るなり、右手を上げて天井からぶら下がる術光石を灯らせた。途端に薄暗かった倉庫の隅々までが明るくなる。
彼は倉庫の中の本棚の一つに歩み寄ると、棚に置かれていたランプーーー持ち手がついた硝子に、小さな丸い術光石が入れられた物ーーーを手にした。
「これが何かしっているか?」
「はい。ランプですよね。」
レイヤルクの家の中にも幾つか置いてあったので、当然知ってはいたが、私には点灯出来ない無用の長物だ。
何とはなしに答えると、神官長はゆっくりと首を左右に振った。
「これは術光石の力を用いた転送装置だ。転移術の補助に使ったのだろう。」
転送装置?
目を点にしていると、神官長は私の目の前でそのランプを軽く振った。カラン、カランと涼やかな音がする。よくみれば、硝子の器の中の術光石は割れていて、数個の破片になっていた。
「術光石が割れる力を利用して、空間と空間を繋げる。」
「はあ………。」
原理は良く理解出来ないが、単なるランプではなかったという事だろうか。要するにレイヤルクはあの時、その移動装置を使用したのか。中の石が割れてしまうのだから、使い捨てらしい。
「転移した場所までは分からないが、術光石が割れた方向から、転移した方角だけは分かる。報告によれば、術光石は北に向けて割れていた。」
「レイヤルクさんは、北に?」
「目くらましかも知れないし、そうでもないかも知れない。いずれにしても、あてど無く捜すのは無理がある。」
神官長はそう呟きながら、ランプを本棚に戻した。
もしや、今のは弱音だろうか?
今日も私をこの家に一旦帰らせれば、レイヤルクが現れると少しは考えたのかもしれない。生憎レイヤルクは火に飛び込む虫にはならなかった。
私は思いついて聞いてみた。
「その転送装置の作り方は、陽法論の何巻に載っているのですか?」
すると神官長は意外そうに眉を上げた。
「サヤも陽法論を読んだ事が?」
「いえ、ただ、レイヤルクさんは最終巻の神技もできたみたいだったので。」
神官長の青い目が物凄く熱心に私に向けられた。きっと、レイヤルクの力に興味があるのだろう。
「以前私がお願いしてレイヤルクさんに、雨を降らせる神技をやってみて貰ったんです。」
「ーーー雨の恵みの神技か……。降らせるまでにどのくらいの時間が?」
「結構直ぐに降りました。ザーっと、きちんと。」
すると神官長は目をつい、とそらしてから吐き捨てる様に言った。化け物だな、と。
これには思わず口元が緩んでしまった。
やばい、と口角を懸命に元に戻そうと取り繕っても後の祭りだった。神官長は私が笑ったのを見逃さなかった。
「ーーー一緒にいてあの男が化け物じみていると思った事はないか?」
「いえ、なんていうかーー。レイヤルクさんの方も、神官長を化け物と呼んでいたので。それが可笑しくて。」
すると思わぬ所から笑い声が聞こえた。それまで私たちの会話を黙って聞いていたアーシードが、堪えきれなかったみたいに噴き出したのだ。これには神官長もやや不満そうに表情を曇らせた。何か反論した気に薄い唇を一旦開きかけて、だがそれ以上は何も言わずに又閉じていた。その顔が、意外にもちょっと可愛かった。




