聖杯
「秘宝って何ですか?」
「初代の巫女姫様にまつわる物です。神殿庁から出される事は決してありません。」
いまだ仏頂面で話す私に対して、アーシードは気を使うように身振り手振りを交えて教えてくれた。初代の巫女姫、というのは太陽神が招いたとされている巫女姫だ。
速足で歩くアーシードに私はついて行った。
連れて行かれたのは、私がつい最近来た庭だった。
聖木のある庭である。
だが彼は聖木には目もくれず、その奥に建つ建物を真っ直ぐに目指した。水色のタイル張りの立派な建物だ。窓が殆ど無く、随分堅牢に見える。
その建物の正面入口にある唯一の扉から中に入ると、受付にいた初老の神官にアーシードが書類を渡した。
「二名の許可をする。」
神官がそう囁くと、さわりもしないのにノブがガチャリと音を立てて回り、扉が奥へと開いた。
「進みましょう。」
アーシードが私の腕を取り、開かれた扉に誘う。緊張しながらも先へ行くと、扉の先は僅か二帖ほどの空間しか無く、その更に先に又扉があり、閉まっていた。振り返ると今通った扉が勢い良く閉まった。何だか閉じ込められたみたいな気分だ。
目を白黒させる私にアーシードは解説をしてくれた。
「外観からは分かりにくいのですが、非常に強力な警備がされているのです。ここからは自力で開けなければなりません。」
アーシードは扉のノブに軽く手をかけると、歌う様に何かを囁き始めた。
神官たちが神技を用いる時は、必ずこういった詠唱をした。歌を聴いているみたいで、波があって耳触りが良く、不思議と心地が良くなるのだった。
不意にアーシードの詠唱が終わり、彼は何事も無かったかの様に扉を開いた。
中は一転して広い空間になっていた。木の床は良く磨かれていて大変綺麗で、ちょっとした資料館みたいに彼方此方に硝子ケースの展台が設置され、古そうな宝飾物や書物が並べられていた。壁には肖像画がほぼ隙間無く飾られ、絵の中の人物は皆真紅のショールを方肩からかけて真っ直ぐにこちらを見ていた。まるで四方八方から観察されている居心地の悪さを感じる。
「全て歴代の神官長の肖像画です。」
部屋に入って直ぐの所には、こま犬みたいにこちらを向いた、等身大の女性の像が両はしに置かれていた。しかも手には弓矢を持ち、今しも矢を放ちそうな格好をしている。二体に挟まれたこちらは、矢の標的にされているみたいで何だか落ち着かない。
「正義の審判像です。邪な目的で入ろうとすれば射抜かれる、と言われています。」
ちょっと待って。
それは聞き捨てならない。それはどの程度を邪と言うのか。信者ではない私が通って大丈夫なんだろうか。
女性像の目前で石像よろしく固まり立ち止まった私を見て、アーシードは朗らかに笑った。
「お気になさらず。単なる迷信ですよ。泥棒除けには一定の効果があるのです。」
「迷信だなんて、どうして言い切れるんですか。」
「像には何の神技も掛けられていないからです。ーーー大丈夫ですから、早く入って下さい。」
でも神技がかけられているのかいないのか、私には全く分からない。この世界の神官の力をもってすれば、侵入者を射殺す仕掛けを設置するなんて、造作もなさそうだし。
私は横目で女性像を睨みながらも、念の為音速の勢いで二体の間を走り去った。
幸い女性像はピクリとも動かなかった。
七宝の壺や象眼細工の小さな物いれーーー腰ほどの高さの展示ケースの中には、古そうな代物がたくさんあった。どれも宗教上の価値ある逸品なのだろう。
部屋の中ほどには身長よりも高い、大きな陳列棚があり、古びた本が並んでいた。
「全て陽法論の初版本です。」
更に奥に進むと部屋の突き当たりになっていた。壁に沿って一台の展示台が置かれ、硝子ケースの中には瑠璃色の華奢な杯が入っていた。ワインでも一杯飲むのにちょうど良さげなその杯は、飲み口の少し下の部分に帯状に金箔が貼られ、葡萄の模様が彫られていた。
「初代の巫女姫が我々の世界にいらした時に持たれていた杯です。」
「つまり、ーーー巫女姫様は杯片手にこの世界に現れたのですか?」
「その通りです。何故かは分かりませんが。」
何という偶然だろう?記憶をたどれば、私もビールを入れたグラスを片手に持っていた筈なのだ。途中でどこかに落としたけれど。
伝説が正しいのであれば、この杯は大昔に地球からやって来たのだ。大層な骨董品なのだろうな、と感慨新たに杯を観察した。あの楔形文字を教えた女性なのだから、間違っても東洋の人間ではなかったのだろう、とは予想していた。こんな手の混んだ硝子製品を目の当たりにすると、やはり予想通りだったな、と感じる。
「巫女姫様は唯一の持参品であるこの杯を生涯大切にされたと言われています。そして、崩御される際に、神官たちに約束なさったそうです。元の世界に生まれ変わっても、呼ばれればきっとこの世界に戻って来る、と。」
召喚はその誓いに基づいて行なわれているということか。アーシードは杯に視線を当てたまま続けた。
「神官長の召喚神技では、初代巫女姫様の魂の欠片が宿ると言われているこの杯を用います。」
という事はこの杯が無ければ、巫女姫の生まれ変わりは探せないらしい。もしーーー例えばこの杯が割れてしまったら、召喚も出来なくなるのかも知れない。ガラス製と思しきその杯をやぶにらみしながら、遠回しにその事を聞いてみると、アーシードは苦笑しながら教えてくれた。杯には歴代の神官長による半永久的なプロテクトが掛けられていて、その強力な積み重ねによって、もはや塔の上から落とそうが、火口に投げ込もうが、何人の神技によっても、破壊は不可能だろう、と。
「召喚は陽法論の最終巻の最終章よりも難度の高い、『秘巻』にのる、極めて難しい神技です。」
アーシードによれば、召喚神技に挑んで失敗し、神技の反動を受けて亡くなったり、途中で力を使い果たしてしまって命を落とした神官長がたくさんいるらしかった。召喚神技は神官長がまさに命がけで取り組む、一世一代の大仕事なのだと言う。勿論、力量に自信が無くて、取り組まなかった神官長もいたらしい。
アーシードの濡れた様な黒い瞳が私にひたと向けられていた。
「妨害により、正しく召喚神技を終えられず、当時神官長が身に受けた力の反動は凄まじく、とても直ぐに神技を行える状態にありませんでした。」
分かっている。
それは、本当は頭の中では、私も分かってるんだ。
「命を賭けて得た巫女姫様を奪われて、何事も無かった様に忘れられる筈などありません。神官長はサヤ様を真剣に探していました。またサヤ様の安全の為に、事態を明らかにする訳にはいかなかったのです。」
なんと返事をすべきなのか、困った。
アーシードは神官長に対して不満を漏らした私をたしなめるために、わざわざ秘宝を見せてくれたのだろう。
「サヤ様をこの様な形でしか神殿庁にお招き出来なかった事は、万死に値する失敗です。ですが、歴代の神官長が巫女姫様とその召喚にかける思いは、サヤ様が思われているほど決して軽くはありません。」
「いえ、あの、前にも言ったと思いますが、まず私は巫女姫ではないと思います。記憶も持ち合わせていませんし。そこはどうでも良いんです。」
巫女姫、だなんて恥ずかし過ぎてとても呼ばれたいなんて思わないし。そもそも生まれ変わりなんて言う発想が、個人的には受け付けない。
むしろ、二重に扱われ、二重の態度を取られる方が、私は苦しいのだ。いずれにしても、私にとってはレイヤルクが恩人なのだ。でも、神官長が私を放置していた訳ではないと聞くのは、少し嬉しかった。
「南のハジュス国が、軍備増強の怪しい動きを見せています。ハイラスレシア帝国との国境戦に張ってある結界を今一度強化しに行く為に、私は明後日から暫らく帝都を出ます。どうかその間、お健やかに過ごされますよう。」
「結界なんて作っているんですね。知りませんでした。あの、お気をつけていかれてください。間違っても私は神官長にたてついたりしませんから。」
翌日早朝、身震いする様な寒さに目を覚ますと、なんと雪が降っていた。初雪とは思えぬほどしっかりとした雪が舞い、大気を灰色に染めていた。降雪のせいか湿度を感じるが、同時に窓辺からは底冷えする冷気が伝わってくる。
突然訪れを告げた冬の姿に、感慨深く外を眺めていると、私の部屋の扉が叩かれた。
まだ顔も洗っていない時刻である。何だろう、と訝しく思いながら扉を開けると、アーシードが申し訳なさそうな、少し情けない微笑を浮かべていた。
「朝早くにすみません。神官長のご命令で参りました。」
はい?と聞き返しながら扉を全開にすると、アーシードから少し離れた所にクラウスが立っていた。腕を組み廊下の壁に寄り掛かり、床に視線を投げているその姿はどこか不貞腐れているみたいだった。
「術屋の捜索に一区切りがつきましたので、要りような物などありましたら、今から取りに行きましょう。帰りに市場に寄ることも可能です。」
「術屋と市場に?」
「ええ。サヤ様は以前もお菓子を大量に仕入れられたとか。」
神官長がそう言ったのだろうか。そんなネタ、わざわざアーシードに教えなくても。
「私は仕事で明日より国境に行きますので、暫くはサヤ様の護衛が出来ないのです。是非今日、市場で買い溜めをなさって下さい。」
確かに以前神官長と外に出た時に私はお菓子を買い込んだ。だがまさか、買い溜めの命令が下るとは思ってもいなかった。大量のお菓子があれば、当面買い出しには行かずに済むだろう。だが、護衛とは何を指しているのだろう。
「アーシードさん、でも護衛なんてものは私には不要ですから。」
「何を仰います。護衛は不可欠です。それにレイヤルク=シャジャーンが貴方様の前にいつ現れるか分かりません。サヤ様の外出に護衛は絶対です。」
つまりそれは、まさか私を外出の度に見張っているということか!?
全く考えもしなかった事を言われ、驚きで頭が真っ白になった。このアーシードがいつもこっそり私の後をつけていた?
「今までずっと私を見張っていたんですか?!私を囮にして。」
「囮だなど!あの男からお守りする為です。何をしでかすか分かりませんから。」
ジワジワと憤りがせり上がってくる。だって、守るためだと言うなら、最初から教えてくれていても良いではないか。陰でこそこそつけていたなんて………!
私を心配するレイヤルクの気持ちを逆手にとって、彼を抹殺する気なのか。私が憤っていると、クラウスが空気をぶった斬り、口を挟んできた。
「おい、何をごちゃごちゃ揉めている。出かけるのか、やめるのかどちらかにしてくれ。」
「ーーーまさかこの三人で術屋に?」
ふい、と逸らされたクラウスの仏頂面は、私の質問を無言で肯定していた。
誰が選んだのか、素晴らしい人選だ。視点を変えれば、名門二家の御子息との外出だ。人によっては狂喜乱舞するのかも知れない。
だけど、犬猿の仲らしきこの二人と出かけるのはちっとも楽しそうではない。
とはいえ家がどうなっているのかやっと見にいけるし、服や小物を持って来られる。タアナにも無事を知らせねばなるまい。
「行きます!行きましょう!」
とにかく今は堂々と術屋に行くチャンスに乗るのが先決だ。でも、自分が釣り餌にされていた事実には、憤りを感じた。もう一度きちんと神官長と二人で話し合う必要がある。




