レイヤルクの影
屋台で売られている食べ物には、地球で見るものと同じ物もあった。あれは懐かしい、といった世間話を私がしながら、抑えきれない郷愁に駆られていると、神官長が呟いた。
「………お帰り頂く為の神技は存在しないのです。」
「そうらしいですね。今までの神官さんたちは、異世界から召喚した女性が戻りたがるだろうとは誰も考えなかったんですか?」
召喚の逆の神技を研究してくれたっていいのに。純粋な疑問を向けただけだったが、神官長は答えに窮した様に押しだまってしまった。顔に巻いた布から覗く瞳からは、表情が消えていた。嫌味を含んだ言い方に聞こえたのかもしれない。
「だって、間違えた女性を連れてきた場合は直ぐ帰さないと…」
「サヤ様は巫女姫様に間違いありません。無論、その場合は仰る通りですが。」
私は態度と顔ばかりはお綺麗だが、頑強で偏屈なこの神官長に少しばかりいじわるをしてやりたくなった。私が被っている迷惑を考えれば、このくらいは許されるだろう。
「でも神官長は以前、神殿庁の広場でお会いした時は私を巫女姫どころが毛皮泥棒だと思われたではありませんか。」
「あの時は……、申し訳ありません。聖騎士に代わりましてもお詫び申し上げます。」
神官長は重苦しい声で詫びると気まずいのか俯き加減になったが、ふと視線を上げて私を見ると尋ねてきた。
「サヤ様はあの時なぜ神殿庁に?」
「巫女姫様のお元気がない、と聞いたので。若しくは単なる野次馬心ですかね。」
「ヒナ様は最近は沈まれるご様子も見られず、お元気におなりですね。サヤ様のお陰です。」
「そうなんですか?そうだとすれば嬉しいですけど。」
私は少し考えてから、周りの人に聞こえない様に小さな声で言った。こんな機会は滅多にないのだから、聞ける事は聞いておかなくては。
「ヒナ様は……、いずれ後宮に行かなくてはならないんですか?」
「はい。慣例ですし、皇帝陛下もそれを強くお望みです。短ければ数ヶ月程度後宮で過ごして頂く事になります。」
予想以上にあっさりと言われてしまった。淡々と語る神官長を見ていると、レイヤルクとの温度差を感じた。
どうしても確かめたくて仕方が無い。
何と聞けば良いのだろう?
………そうだ、丁度良い言い回しがあるではないか。
「えーと、その……。皇帝は巫女姫に、む、無体な真似とかをしませんか?」
「その様なご心配には及びません。巫女姫様はただ皇帝のお住まいで毎日お祈りをして過ごされるだけです。天の権威と地の権威の結び付きを内外に知らしめる為の象徴的な婚姻ですので。来年は陛下の御即位十周年ですので、代々の皇帝に感謝を捧げ、帝国の繁栄を祈る皇祖祭も、近隣諸国を招いた大掛かりな催しになります。ヒナ様にご臨席頂くのはこの上ない牽制になります。」
なるほど、異世界から人を呼び寄せるほどの神技があると、見せつけるのだろうか。神官たちの神技は、この世界では地球の軍事力に匹敵する扱いをされているのかもしれない。
でも………。やはり後宮となると、想像がつかない。実際はどうなんだろう?
私がいまだ納得がいかない顔をしていると、神官長は続けた。
「同じ事を以前ヒナ様からも聞かれました。ハイラスレシア帝国の皇帝陛下の後宮には、何百人という女性たちが、暮らしています。全国から集められた美しく教養ある女性たちであったり、単に最先端の教養を学ぶ為に入る貴族の娘たちもいます。ヒナ様やサヤ様がお考えの後宮とは、少し異なりましょう。」
ハイラスレシアの後宮は随分大規模なもののようだ。けれどそうなるとレイヤルクが言っていた事は…?
「ですが、先代の巫女姫様は後宮で他の女たちに殺されたと聞きました。」
神官長は驚愕に目を見開いた。
「その様な話を誰に?」
「良く覚えてません。………ですが、それを耳にしてからヒナ様が心配で。」
尚も話を続けようとすると、神官長は己の口元に人差し指を当て、会話の停止を求めて来た。青い瞳は辺りを伺っていた。例え小さな声で話していても、周囲に聞かれたくないのだろう。
ナッツが詰まったヌガーをようやく買うと、私たちは足速に人混みから離れた。
喧騒を離れて少し歩いてから、神官長は途中でやめていた話を再開した。
先代の巫女姫は記録によれば確かに後宮内で亡くなられたのだという。死因は病死、とされ亡骸は神殿庁に返された。又亡くなる数ヶ月前から体調を崩し、医師による診察を受けていたらしい。
「公的には病死、とされております。」
公的には、という部分が気になる。
「若くして他界されましたし、外部から後宮の事は分かりませんから。当時の市井では様々な憶測が飛び交ったのかも知れません。」
「太陽神の巫女姫様を傷付けようなんていう人たちが、後宮にはいるんですか?」
ハイラスレシアの人々はサイトウさんをとても大切に思い、崇めまくっているではないか。そんな立場である巫女姫を、害そうとする輩が中にはいるのだろうか。そう疑問をぶつけると、神官長は慎重に言葉を選びながら教えてくれた。
先代の巫女姫が召喚されたのは、今から十代前の皇帝の時であった。ーーー十代前の皇帝と言えば、図書館に飾られていたあの絵の皇帝である。
ハイラスレシア帝国が加速度的に強大な国家へと変貌をしていた時代であり、皇帝の権力は史上かつてない程に栄華を極め、頂点に達していた。本来同等であるはずの国家権力と神殿庁の影響力が歪になり、そんな潮流の中で宗教の権威は政治の権威に半ば屈していた。
「当時、巫女姫様を軽んじる者たちが後宮周辺にいた可能性は否定出来ません。」
「それでは、今はどうなんです?」
大事なのは今どうなっているのか、だ。
「巫女姫様の御意志に反する真似は皇帝陛下といえど、なさらないでしょう。」
それを聞いて、少しばかり安心した。安堵の溜め息をはきながら、購入したかりんとうの袋の束を抱きしめると、声をかけられた。
「たくさん買われましたね。当分菓子に困らないでしょう。」
このくらいなら直ぐに食べ切ってしまう、と自信たっぷりに言うと神官長は面食らった後で暫し絶句した。挙句にサッと私の腰回りに視線を走らせたのを私は見逃さなかった。
ーーーこの時ばかりは神官長の思考回路が手に取るように分かった。
妙に恥ずかしくなり、菓子袋でお腹を隠しながら恥ずかしさを誤魔化す為に、逆に質問してみた。
「さ、先ほど甘い物が苦手と仰ってましたけど、少しは召し上がるんですよね?」
「実は菓子を食べた事が殆どありません。」
「ええー!!食べた事がないんですか!?」
……信じられない。そんな奇特な人が存在するのか。絶対に人生の何割かを損している。
私が次ぐ言葉をなくしていると、神官長は首を傾げた。私の動揺が理解しかねるのだろう。お菓子の美味しさが分からないこの可哀想な人を、説得する責務に急速に駆られていく。そもそも自分だけ菓子を買って帰るのは気が引ける。思わず手に持つかりんとうの袋に力が入る。甘過ぎてどうかと思うハイラスレシアの菓子の中では、かりんとう菓子はかなりオススメな一品なのだ。
「神官長!でもお菓子を食べないなんて、」
「サヤ様、お声が大きいですよ。」
「お菓子は喜びであり、楽しみであり、癒しアイテムの一つではありませんか!」
私の力みとは対照的に神官長は、そうですか、と気のない返答を寄越し、周囲に視線を走らせた。私の話より、私が大きい声を出した事の方が気になるのだろう。私はこちらに注意を向けよう、と彼の視野を遮る様に手に持つかりんとうを持ち上げて見せた。
「さすがにこれは食べた事ありますよね?」
「記憶にございません。」
「そんな……。政治家じゃあるまいし…」
食べた事がないなら、ぜひ試して欲しい。この神官長は夏の日差しを浴びたら溶けてしまえそうなくらい肌の色が白いが、食べ足りないんじゃないだろうか。食わず嫌いなら勿体無さすぎる。めくるめく幸福の世界への扉を自ら遮断する事はない。
買ったばかりのかりんとうの袋を開け、神官長に差し出した。
「きっと何かの縁です。どうぞ召し上がってみて下さい。」
私の溌剌とした申し出に神官長は目を曇らせた。間違いなく乗り気ではないようだ。顔周りの布を取らないと食べられないからだろうか。
「私のいた世界にもこれと同じお菓子があるんです。」
かりんとうを更に神官長に向けて押し出すと、観念したのか神官長は袋に手を伸ばし、片手で口周りのアバを緩めてかりんとうを一つ食べてくれた。
「おいしいですか?」
「甘いですね。」
甘いと美味いは同義ではない。というより、神官長にとってはマズイと同義な筈ではないか。意気消沈しかけながらも別の袋を差し出した。こちらは砕いたナッツと砂糖のコーティングがされた、手の混んだかりんとうだ。カロリーの権化みたいな代物だが、プレーンタイプより味わい深い。ナッツで甘さも感じにくくなっている。ゴリ押しの物凄い笑顔で言ってみた。
「じゃ、こっちはいかがですか?」
「サヤ様………。」
人を世界を跨いで誘拐した挙句、迷子にしてしまった事に比べれば、かりんとうを食べてくれる事なんて屁でもないはずだ。期待と脅迫に満ちた笑顔で見つめ続けると、神官長はそろそろと菓子に手を出した。続けてザクザクと軽やかな咀嚼音が聞こえてきた。
「どちらがお好きですか?」
「こちらの方が…」
「やっぱりそうですよね!香ばしくて止まらない美味しさが私も好きなんです…」
神官長は尚も勧められては堪らない、とでも、思ったのか私の話を遮断する勢いで言った。
「私のせいで開けさせてしまいましたね。」
神官長はかりんとうの袋をそっと私の方へかえすと、もう一袋買って来るからここで待つように、と 私に背を向けて近くのかりんとうの屋台へ歩いて行った。神官長はかりんとうがもしや嫌いだったのに無理して食べてくれたのだろうか。いずれにしても、上司の思いもよらぬ意外な一面を発見してしまった様な気がして、なんだかこそばゆい可笑しな気持ちになった。
市場の中で待ちぼうけをくらっていると、不意に見覚えある後ろ姿を視界のはしに捉えた。
柔らかそうな波打つ茶の髪。
飄々とした歩き方。
久方振りに目にする、かつて見慣れていたその揺れる長い髪をひたと見つめて、私は弾かれた様にその場を離れた。ーーーレイヤルクさんーーー?あの後ろ姿はまさか、レイヤルクがここに?
その後ろ姿を見失わない様に気を付けながら、ひたすら後を縋る。思い切ってレイヤルクさん、と声をかけようにも屋台の間を通り過ぎる人混みに遮られ、距離が縮まらない。念の為振り返れば、神官長は丁度かりんとうの屋台で店主に金を払っているところだった。再び前方を行く波打つ茶髪に視線を戻すと、大きな屋台の角を曲がり、私からは死角に入ってしまった。ーーーまずい。見失ってしまう。
えいや、と人混みの動く流れを無視して飛び込むと、私は一目散にその後ろ姿を追った。
「待って………!」
角を曲がるとその人物はどこにも見当たらなかった。人がきと狭くたち並ぶ屋台のせいで、最早どの方向に行ったのか見当もつかない。しかしこの機会を逸したら、次に会えるのはいつかなど分かったものじゃない。妙な焦りに追いたてられて、私は彼方此方の角を曲がったり戻ったりして、必死にさっきまで視界に捉えていた茶髪を探した。
「どうしよう。どうして。いない…」
夕暮れ特有の強い風が吹き、乾燥したハイラスレシアの砂埃が舞い、先の方の視界が曇った。私はまるでスーパーの中で母親を見失った幼児の様に、半泣きで狭い道を小走りしていた。買い物をぶら下げた人々に幾度かぶつかり、立ち止まってその場で三百六十度見渡した。レイヤルクはどこにもいなかった。彼はどこかへ行ってしまった。また私を置いて行ってしまったのか。
そして私はその場で軽く迷子になっていた。まずい。探さなくては。
ーーー私は誰を探すんだろう?
神官長を?
かりんとうの屋台からは遠く離れ、当然神官長も近くにいない。どちらに行けばかりんとうの屋台に戻れるのかもよく分からない。勿論、べらぼうに広い市場ではないのだから、向こうも私を探していれば会える筈だ。だからとりあえず歩けば良いのだが、何故か私の足は痺れて動かなかった。きっとレイヤルクらしき人影を見失った落胆と、それにふとこの時私は疑問に思ったのだ。私はどちらを探すべきなのだろう。ーーー神官長は果たして私を今探しているだろうか?
「そこのお客さん、一つどう?もうすぐ店じまいだから安くしとくよ!」
私が立ち尽くしていると、直ぐ横の屋台の主が声をかけてきた。見ればガラス製の小さな小瓶を売っている。香油入れだろう。屋台の奥には、詰め替え用の香油が入った大きな瓶が並べられていた。華奢な小瓶達に懐かしさを覚え、暫し見惚れてしまった。
一つ手に取ろうとすると、不意に後ろから手首を掴まれた。心臓が跳ね上がるほど驚いて振り返ると、神官長が私を見下ろしていた。しかも顔周りを覆う布がすっかり解け、露わになった表情は酷く険しかった。金色の髪が幾筋かパラパラとこぼれて風に揺れている。
「………お探ししました。」
恐ろしいまでの低音だった。私が詫びるより早く、神官長は私の手首を掴んだまま、屋台から離れる様に速足で歩き出した。引きずられる形で歩きながらその横顔を見上げると、やはり相当怒っているみたいだ。ややあってから彼は妙に抑えた声で私に聞いてきた。なぜ無断で自分から離れたのか、と。
「ご、ごめんなさい。」
「謝って欲しいのではありません。理由をお尋ねしております。」
答えに窮してしまった。今しがたレイヤルクを目撃した、などと言ってしまえば神官長は死に物狂いで彼を探そうとし始めるだろう。少し考えたあとで、私は小さな嘘をつく事にした。
つまりは、タアナに似た子を見かけたからつい追いかけてしまった、と。
続けて、私は中途半端な笑いを浮かべながら、タアナが私にとってどういう存在なのかを説明した。話しながらも辺りをうかがい、もうあの茶髪の男性が見当たらない事を再度確認する。
「嘘をつかれてまで、あの男を庇われるのですか。」
ドキンと胸がなった。
同時にグッと胸が詰まり、言葉を次げなくなる。
神官長は低く感情を抑えた声で言った。屋台の会計を済ませて振り返ると、私が男性の後を追って走っていくのを見た、と。
「すみません。」
また詫びてしまった。案の定、神官長は気分を害した様子で、眉間に皺を寄せた。
「サヤ様は、あの男の事が……お好きなのですか?」
「好きとか嫌いとかの感情ではなくて……なんと言いますか、彼は私の買い主ですし…」
「飼い主!?」
「えっ、私一応隷民でしたから。」
兎に角レイヤルクには世話になったのだ。彼は私にとってのこの世界での親みたいなものだ。何もかも分からないこの異世界であるハイラスレシアで、私に言葉を、日常を与えて保護してくれた人だ。加えてレイヤルクは私が見てきた限り、日々の暮らしにも困りそうな程の、生活力ゼロ男だ。あんなにものらりくらりとした変人が、一体今私という家政婦なしで、どう暮らしているのだろう。
心配になるのが人というものだ。
ふと自分の手首の熱さに気がつき、視線を下ろすと私の手首はまだ神官長に掴まれたままだった。その手が少し滑っていき、私達はまるで手を繋いでいるみたいになっていた。
「私はサヤ様をあの男に渡すつもりはありませんよ。」
真正面から大真面目にそんなことを言われ、自分の顔が蒸気するのを感じる。軽く頬に触れてみると、見事に熱い。多分自分は今、ゆでダコみたいに赤くなっているに違いない。恥ずかしさから視線を逸らす。ややあってからもう一度神官長の顔を見ると、急に彼は自分が顔を晒している事実に気が付いたのか、弾かれた様に私の手首を離し、自分の顔周りの乱れた布を直し始めた。
その吸い込まれそうなほど綺麗な目だけを布の隙間から覗かせると、彼はふと眦を下げて、少し笑いを含んだ声で言った。
「サヤ様のお顔は白くなられたかと思えば赤くなられたり、お忙しいですね。」
余計に赤面しそうな事を言われてしまい、屋台を観察するフリをして視線を逸らした。
すると思いがけず神官長は小さく声を立てて笑った。
「お可愛らしい…、」
えっ、と再び視線を神官長に戻すと、彼は急に無表情になって頭を下げて言った。
「いえ、失礼を申し上げました。」
和かに話していたのに、まるで仮面を外したみたいに硬い表情に変わった。ーーー可愛らしいと言われて、失礼だとは思わないのだか。
少し歩き出すと彼は不意に歩みを止めた。
「サヤ様は、あの店にご興味が……?」
咄嗟に何の話か分からなかったが、神官長の瞳が先ほどの屋台に流された。即ち、あの小瓶たちに。
「懐かしいな、と思って見ていただけです。レイヤルクさんが私の足に塗ってくれた事があっ…」
目があうと神官長の表情は凄絶に険しかった。………また何かとんでもない誤解をしているに違いない。
「あっ、お菓子ありがとうございました!」
列に並び直してまで神官長が買ってくれたかりんとうの袋を強奪して香油の話を強制的に終了した。
他愛ない話をしながら歩いていると、あっと言う間に神殿庁に戻りついた。神官長とじっくり二人で話す機会はあまりないので、もう少し一緒にいて話してみたい気がした。だが、入手したお菓子を急いで自分の部屋にしまい、サイトウさんの所に戻らねばならない。神官長にとりあえずお供をしてくれたお礼を言った。先を急ごうとすると、神官長に止められた。
「少しお時間を頂けませんか?中庭にある聖木をご覧頂きたいのですが。」
これ以上は時間がない。私も名残惜しいのだが、別れ際のサイトウさんの心細そうな顔が脳裏に浮かんだ。角が立たない程度に遠慮をさせてもらい、火急的速やかに仕事に戻った。
サイトウさんが神殿庁の中で主に過ごすのは、私が彼女と最初に出会った広間だった。戦利品をしまってから広間に向かうと、中から微かな歌声が聞こえた。広間の前に立つ柱の後ろには、赤く分厚いカーテンがひかれていて、中が見えない。だが、澄んだ高い歌声はサイトウさんのものだと程なくして気が付いた。思わず柱の前で足を止め、聴き入ってしまった。
なんて上手に歌うんだろう!
声が綺麗なだけでなく、伸びやかで情感がこもっていた。
歌が得意な友人の歌声にカラオケで聴き惚れる経験は何度かあった。しかし、サイトウさんの歌は今まで生で聴いた歌の中で、一番美しかった。まだ彼女のハイラスレシア語はたどたどしく、発音も少々ぎこちなかった。だがそんな些末な事は気にならない、技術と才能を見せつけられた。私自身は歌がかなり苦手なので、その素晴らしい歌声が本当に羨ましく、暫し聴き入った。出来れば邪魔をしたくない。
サイトウさんの高音に被せられる形で、低い男性の歌声が聞こえた。
どうやらサイトウさんが一人で歌っていたわけではないらしい。低く良く響く男性もまた、歌に長けていた。情熱的な二重奏は、神の恵みの素晴らしさを歌っていたが、信仰に拘らず聴衆の心に訴える力があった。
そこまで聴いてから、私はやっと歌声の主が誰なのかが分かった。
クラウスだ。
彼がサイトウさんと一緒に歌っていた。
「そんな所で何を突っ立っているの。」
後からやって来た護女官が、私を見てからかった。
「ヒナ様とクラウスが歌っているんですよね?」
「そう。今度、王立学院をヒナ様が訪問される事になったの。子どもたちの前でこの歌をご披露なさるらしいわ。」
良いわねぇ、学校に巫女姫様が来るなんて………とボヤきながら、護女官は茶器を乗せたカートを押して赤いカーテンをばさりと開け、広間に入って行った。私も後に続く。
私たちが現れるとサイトウさんとクラウスは歌をやめ、こちらを振り向いた。サイトウさんはいつも広間では、大きな赤いクッションが敷かれた一段高くなっている上座に座っているのだが、クラウスはそこに腰掛けていたらしく、私たちが入って行くと直ぐに腰を上げて離れた。巫女姫と同じ所に座っていたなんて、とんだ不届き者である。
隣にいた護女官も同じく感じたらしく、やや不満そうな視線をクラウスに投げていた。
「あのね、私がここに座ってと言ったの。一緒に練習し易いから。」
覚束ないハイラスレシア語でクラウスを庇うサイトウさんは、いじらしかった。そもそもサイトウさんが誰かと二人きりになっている状況が珍しかった。彼女の周囲には世話をする人間が常時複数張り付いていて、サイトウさんが何やら考え事をしながら室内を彷徨う時ですら、水差しを抱えた護女官やらが付き従って、行列となっていたのだから。そしてこの世界に来てからそれに慣れているサイトウさんにとっては、いつも人に囲まれているのはごく自然な事の様だった。




