迷える子羊
見てはいけないものを見ている。
強い直感が私にそう警鐘を鳴らしていた。
ドクドクと心拍数が上がり、全身が緊張して強張る一方で頭の中だけは妙に冴えていく。
常識を超えたその皮膚の色から、目を離すことが出来ない。
まさかこの世界の人はみんな身体の一部がこんな風に濃紫色をしているのだろうか?ーーーいや、そんな筈はない。
この二ヶ月で沢山のハイラスレシア人を見て来たが、皆地球の人間と肌の色は変わらなかった。そもそもこんな手袋をはめているのが、レイヤルクくらいだった。
困惑しながらもレイヤルクの枕元まで行くと、汗粒が浮かぶ彼の額に私は手の平をそっと乗せた。
彼の額は火傷しそうな程の、物凄い熱さだった。
「レイヤ…!!」
レイヤルクの名を呼びかけた瞬間、前触れも無く彼に左手首を掴まれた。心臓が口から飛び出そうなくらい、驚く。
尋常でない色の右手が、私をつかんでいた。その手は普通の手と何ら変わりなく、暖かい。
レイヤルクは苦しそうに呼吸をしながら、呻いた。
「出て行きなさい。半日寝ていれば治るから。」
「で、でも……。お医者さんに見てもらった方が…」
「必要ない!」
レイヤルクにしては珍しく語気を強めたので、私は余計に混乱した。苦しげな呼吸をしているのに、寝ていれば治るほど軽いとは思えない。少なくとも三十九度はありそうな高熱が、半日で下がるだろうか?
私ならまず無理だ。
レイヤルクは薄目を開けて寝台から私を見上げたまま、私の手首を掴むその濃紫色の右手により一層の力をいれた。
「誰にも、言ってはいけないよ。医師にも治せない私の持病だからね、こうしてただ寝てる他ないんだ。」
口外してはいけないのは、高熱で倒れている事?
それともこの、普段は隠している右手の色の事?
レイヤルクは私の返事を待っているようだったが、喉が硬直して動かず、私はただ彼の右手をひたすら凝視していた。すると私の手首を掴んでいた右手はゆっくりと弛緩していき、私からそっと離された。
レイヤルクは左手で自分の額を押さえ、両目をギュッと閉じて、私に背を向ける方向へ寝返りを打ってしまった。
「あの……。本当に大丈夫なんですか?」
「怒鳴ってすまないね。後でちゃんと起きるから、今日は休店にして君も好きにして休んでいなさい。」
「レイヤルクさん……。」
寝台に横たわるその背中を暫く眺めた。
彼がとても心配だ。
こちらの現代医学ではお手上げの病持ちだなんて。レイヤルクに何かあったら私はどうしたら良いのだ。
彼がいなくなったら自分の今後はどうなってしまうのだ。
私はレイヤルクの腰のあたりまで落ちていた寝具に手を伸ばし、そっと肩までずり上げて掛けてあげてから、寝室を出た。
術屋の正面入り口に下ろしている格子戸に、急な休店を詫びる張り紙を貼る。
まだ通りを歩く人々は少なく、日が高くなると賑やかになる表通りも今は閑散としていた。
タイルを敷き詰めた通りを肌寒い風が通り過ぎ、格子に貼り付けたばかりの紙を揺らす。それは吹かれるままに頼りなくゆれ、まるで今私が置かれた境遇を見ている気にさせた。
ぼんやりと立っていると、隣のパン屋の扉が開いた。
バケツと雑巾を手にしたタアナが中から出て来た。
彼女は笑顔でおはよう、と私に言うとパン屋のガラスをせっせと拭き始めた。乾いた冷たい風の中で、きゅっきゅと小気味良い清掃の音をたてながら仕事に励むタアナは、ふとその手を止めて私を見た。
「サヤ、顔色が良くないよ?どうしたの?」
「ちょっとレイヤルクさんが風邪気味で。今日術屋はお休みなの。」
タアナは真剣な顔になり、濡れた雑巾をバケツに突っ込むと、バケツを地面に放置してこちらへ歩いて来た。
「そうなの?じゃあ今日は一日看病ね。」
私は適当に笑って誤魔化した。
だって多分彼は、私が入室したらまた拒絶しそうだから。
そう思うと私の脳裏に彼の右手の残像が浮かび上がった。まるでそこの部分だけが未知の人種であるかのような、異状なその色。
ーーーああ、誰かに話してしまいたい。こんなの、絶対普通じゃない。でもレイヤルクからは口止めされているのだ。客商売をしているのに病持ちだと噂を立てて欲しくないからだろうか。それともーーー?
「ねえ、サヤは大丈夫なの?貴方真っ青よ。朝ごはん食べたの?」
顔を上げるとタアナが私を覗き込んでいた。
こうして自分の身体を気に掛けてくれる人がいるっていうのは、なんだか少し嬉しい。
私も日頃お世話になっているのだし、こういう時こそレイヤルクの役にたたねば。
そうだ、レイヤルクが起きてきたら何か口当たりが良い物を食べさせてあげよう。パンとサラダじゃだめだ。温かい、栄養がつくものが良い。これくらいなら私にも今できるだろう。
そう決意すると私は外套を羽織るのも忘れて、市場に買い出しに出掛けた。
市場では色々な野菜や果物を買い込んだ。
野菜は煮込んでしまえばたくさん食べられるから、スープにしよう。体調が悪い時はやはり果物に限るから、食べやすい様に小さく切って、フルーツポンチみたいにすれば良いかもしれない。
買い物が一段落すると、急に寒さを感じた。
興奮してひと時忘れていたが、やはり朝はかなり冷え込む季節が到来していた。早く帰らないと、私が風邪を引きかねない。
そんな事を考えながら、屋台が密集する市場をうろついていると、広場の隅に視線が吸い寄せられた。屋台が途切れたその先、建物の壁沿いに五人の男女がならんで立ち、彼等を半円状に取り囲む形でちょっとした人だかりが出来ていた。
注目を浴びる五人は皆後ろ手に縛られていた。
ギクリと嫌な記憶が蘇る。
これは隷民のセリだ。
少し前に私が並ばされていたあの光景を、今私は外から眺めている。
人がこんな風に売買される様は、市場に買い物に来るようになってから、初めて目の当たりにした。嫌な気持ちになりながらも、それでも看過出来ず、人の波をぬってそろそろとセリに近づいて行き、不安そうに周りを窺いながら立ちつくす五人の顔をつぶさに観察した。彼等に対する同情の気持ちと同時に、もう一つの事で頭が一杯だった。
日本人はいるだろうか?
ーーーアジア系の顔立ちの隷民はいなかった。
安堵と同時に幾らか失望が沸き起こり、矛盾した感情を抱えながら遠巻きに眺めていると、隷民を眺める人垣の中に見覚えある人物を発見した。
以前見た時とは服装が違ってはいたけれど、櫛が滑り落ちそうな艶のある長い黒髪のキューティクルは変わらなかった。
図書館で会った従四位の神官である。
まさか彼も隷民を買いにきたのだろうか?
驚いて視線を貼りつかせていると、私の眼差しが強過ぎたのか、それに気付いて神官がこちらを振り向いた。
目が合った一瞬だけ黒い瞳を見開くと、直ぐに穏やかな表情に戻り、彼は私の方に歩いて来た。
「又会いましたね。お買い物ですか?」




