主の秘密
「随分遅かったねえ。道に迷ったのかい?」
術屋に帰ると接客をしていたレイヤルクが声を掛けてきた。
遅れた謝罪をしながら、買ってきた毛皮を急いで店の奥にしまう。
私がいない間に術光石を持って来たお客さんがかなりいたらしく、焦げ茶色の木製カウンターの周囲には術光石を入れた箱がたくさん積まれており、レイヤルクはコクピットの中にいるみたいになっていた。
「直ぐに片付けますね。その状態じゃレイヤルクさん、コクピット…カウンターから出られないじゃないですか。」
するとレイヤルクはヒョイと片眉を上げた。彼は右腕を軽く持ち上げ、カウンターに叩き下ろすと、彼の身体はトランポリンの上を跳ねた様にフワリと宙に浮き、カウンターについたままの右手を力点にして中から外に出た。術者ともなれば、少しの跳躍くらいはたいしたことがないようだ。
一部始終を見ていた術屋の客たちから一斉に黄色い歓声が上がり、私は思わず両耳を押さえた。
すご〜い、レイヤルクさんもう一回やって、と騒ぐ若い女性客たちの安い感激に気を良くしたのか、レイヤルクは再び跳躍をしてひらりとカウンターの中に戻った。
「いやだ、凄〜い」
「レイヤルクさんっていくつなの?凄いわぁ!」
「本当凄い!私、神官だって跳ぶのなんて見た事がないわ。」
凄い以外の形容詞を知らないのか。
興奮した彼女たちが顔を動かす度、結い上げた髪にさす飾りが細かく揺れている。レイヤルクも目元をダラしなく緩めて、口元を綻ばせながら答えていた。
「う〜んと、いくつだっけなぁ。」
「ヤダぁ、ど〜して分からないのぉ?」
自分の主がデレデレとしているところはあまり見たくないものだ。箱を腕に抱えて奥に片付けながら、横目でレイヤルクとお客さんたちの様子を窺う。レイヤルクは茶目っ気を含んだ灰色の瞳を泳がせながら言った。
「確か38だったかな。」
「見えな〜い!もっと若いかと思ってたぁ。」
満更でもなさそうにニヤつくレイヤルク。派手に化粧をした女性客が、カウンターにもたれかかりながら言った。
「レイヤルクさんの事だから、若返りの化粧水でも使ってるんじゃないの?」
女性客たちが異口同音にそうよそうよ、と騒ぎ私まで片付けの手を止めて彼を見た。本当にそんな化粧水を持っているのなら、こっそり使わせて貰おう。
「面白い事を言うね。そんな物は使っていないし、あったとしても売れないよ。うちの術屋では人体に直接作用する物は売らない事にしているんだ。」
「そう言えば他の術屋と違って、色気薬や惚れ薬を売ってないわよねぇ、ここ。」
なにぃ……。
世間一般の術屋にはそんなインチキ臭い薬が売っているのか。
レイヤルクの術屋では雑貨しか扱っていないのに。
今度タアナと一緒に見に行ってみよう。それにしても色気薬って何だろう。飲むと色っぽくなれるんだろうか。アヤし過ぎる。どういった目的で使うのだろう。
「そう。薬は実入りが良いけれど、薬みたいな口に入る物は、タチの悪いクレームを呼び込み易いからね。私は問題を起こさず細々とやれれば良いんだよ。」
きゃいきゃいとはしゃぐ彼等を置いて、昼食の支度をしに二階へ上がった。
平和そうにパスタを口に運ぶレイヤルクの顔を見ていると、神殿庁で会った怖い黒髪短気男と神官長との出会いが嘘のように感じられる。思い返せばあの神官長も、嘘みたいに美しい容貌をしていた。
こちらの世界にもパスタに似た麺があり、今日の昼食に使ったのだが茹で時間を間違えてしまい、フニャフニャになってしまった。アルデンテを目指したのに……。キッチンタイマーが欲しい。
だがそれすらパクパクと平らげるレイヤルクを見ていると、なんだか罪悪感に襲われ、胸が痛んだ。
「レイヤルクさんは惚れ薬を作らないんですか?」
何気無く思いついて聞いてみると、レイヤルクは口に詰め込んでいたパスタを吹き出しそうになった。ゴホゴホと咳こみ、グラスに手を伸ばして急いで水を飲み下している。
「な、なんだい急に。」
「術屋にはたいてい置いているんですよね?そんな物は私がいた世界には無かったので。」
タアナに惚れ薬の話を振ったら、レイヤルクに使え、とか言い出しそうだ。
「そういえばタアナから聞いたんですけど、サイトウさんの体調が良くないらしいですよ。」
「そうかい。それは心配だね。」
ギョッとして私は弾かれたように顔を上げた。レイヤルクの言い草が余りに平板で、露ほども心がこもっていなかったからだ。
サイトウさんの体調などどうでも良いと思っているのだろう。
「ところで聖騎士って何ですか?」
「君の話はどうしてそう彼方此方へ飛ぶのかな。話題の転換が強引で唐突過ぎやしないかい?……宗教の権威を振りかざして、太陽神の名の下に法外な権力を持った、鼻持ちならない騎士たちの事だよ。神殿庁の犬さ。」
皿に残ったソースをスプーンで掻き集めてまで綺麗に食べるレイヤルクを見ながら、妙に感心した。
なるほど確かに、クラウスという聖騎士は凶暴な黒い犬そのものだった。
「レイヤルクさん。私の料理マズくないですか?」
「君は一つの話題に飽きっぽいのかい?」
翌日、いつもの様に朝ご飯の準備が整ってもレイヤルクは自室から出てこなかった。
寝坊だろうか?
暫らく待っていたが、待ちきれずに食べ始めた。
私が食べ終わり、自分の食器を洗いだしてもレイヤルクはまだ起きてこなかった。
さすがにこんなに寝ていては、術屋の開店に間に合わなくなってしまう。いくらレイヤルクの朝の身支度が超簡素だとは言え、術屋の格子を開けたり、商品を点検したり、といった術屋の開店準備は私一人ではできない。
自分の髪を適当に一つに括ると、私は痺れを切らしてレイヤルクの部屋の前に立った。
白い木の扉の前まで行き、拳で軽く数回ノックをしてみる。ーーー部屋の中からは何の反応もない。
今度は少し強めにノックをしてみたが、やはり梨の礫であった。
どうしたのだろう?余程深く眠っているのだろうか?ーーーまさかもうとっくに起床していて、部屋にはいないとか?
立ち往生した挙句、とりあえず一階に下りて術屋を見に行く事にした。案外私が気づかなかっただけで、今朝は私より先に起きていて、もう術屋の中にいるのかもしれない。
二階部分にある居住スペースを飛び出すと、私は階下へ下りた。
術屋の前面には格子戸が下りたままであり、中は暗く無人で静寂に包まれていた。
やはりレイヤルクは下りて来てはいないのだろうか。
家の中に戻ると再び彼の部屋の前に立った。だがこうして棒立ちになっていても仕方が無い。
ほんの少し躊躇しながらも、銀色のノブに右手をかけてそっと回し、音を立てないように細心の注意を払いながら、扉を開けた。
部屋は濃青色の厚いカーテンが閉まったままで、一瞬良く見えなかった。目が慣れてくると、広い部屋の奥にダブルベッド程の大きさの寝台があり、白っぽい寝具を掛けたレイヤルクが横たわっていた。
(なんだ、やっぱり寝ていただけじゃないの。)
安堵の溜息が口から漏れそうになったが、寸前で止まった。
良く見ると彼は苦しげに眉根を寄せ、喘ぐような途切れがちの呼吸をしていたのだ。胸は不規則に乱上下している。
「レイヤルクさん?!」
どこか具合が悪いにちがいない。
駆け寄ろうとして、私はタタラを踏んだ。
ーーー何とも言い難い違和感に襲われたのだ。
私は薄暗い部屋の中を、違和感の正体を確かめるべく、慎重に一歩一歩前へと進んだ。
(ああ、そうか。手袋をしていないんだ。)
いつもつけている、肘まである両手の手袋が外され、彼は素肌を晒していた。
でも………でも、それだけじゃない。
ああ、これは何なのだろう………?
レイヤルクの剥き出しの右手は、肘から指先に至るまで、人の皮膚とは思えない異様な色ーーー濃い紫色をしていたのだ。




