延期
アドリアーネは今日一日のことは楽しく話しながらも、笑みをさらに深めた。
目の前で真剣に話を聞いてくれるジュードの表情は厳しい。
どうやら別のことを考えてもいるようだが、上の空ではないことはわかる。
食事をとるジュードの背後で大きなオオカミさんが行ったり来たりしながら、ちらりちらりとアドリアーネを窺うのだ。
そして、今日出会った人物の名前を挙げれば、耳をぴんと張って聞き逃さないようにしようとする。
本当になんて可愛い人なのだろうと思い、この縁にアドリアーネは感謝していた。
しかし、ジュードはどうやら違ったらしい。
食事もあとはデザートとなったところで、人払いを命じた。
室内にはアドリアーネとジュード、ターニャだけが残る。
そこでジュードは言いにくそうに口を開いた。
「その…ここまで来ていただいて――いや、十年も婚約していただいておきながら非常に申し訳ないのだが……この婚約を解消してくれないだろうか?」
「婚約を解消? それでは結婚もなしということですか?」
「ああ、そうなるな」
ジュードの言葉を聞いたアドリアーネは、当たり前の質問をしてしまうくらいに動揺した。
部屋の隅で控えているターニャは態度には出さないものの、母犬が飛び出してジュードに今にも噛みつかんばかりの勢いで唸っている。
アドリアーネはそんな母犬の姿を見て少し落ち着きを取り戻し、次にオオカミさんの姿を探した。
するとジュードの背後でオオカミさんはしっぽを股の間に挟んで小さく丸くなっていた。
(私から隠れてる?)
目の前のジュード本人は無表情に近いが、オオカミさんの態度を見れば婚約解消の申し出は良心を苛んでいるようだ。
式まであと十日ほどしかないのだから当然だろう。
そもそも噂とは違って実直なジュードがなぜ今さらそんなことを言い出すのかと考えたアドリアーネはあることに思い至った。
再びさあっと体から血の気が引いていく気がする。
「他に……好きな方がいらっしゃるのですか?」
「違う」
決死の覚悟で訊いたアドリアーネの問いは間髪入れずに否定された。
それでもアドリアーネが納得できるわけがない。
「昨日お会いしたポレルモ子爵夫人は、その……」
「あれは――いや、彼女はいっさい関係ない。他に好きな女性がいるわけでもない」
「それではなぜ……?」
いつもは前向きなアドリアーネだったが、今はすがるような思いだった。
前世で彼氏いない歴=年齢だが好きな人がいなかったわけではない。
学生時代には告白もしたことだってある。――結果、玉砕したわけだが。
そして今、ずっと――十年間好きだった相手から婚約解消を真剣に求められているのだ。
また玉砕してしまうのかと、やはり自分を好きになってくれる人はいないのかと泣きたくなる。
「十年前、王位に就いたときの私は一介の騎士にすぎず、簒奪者と罵られ国内でも協力者がなかなか得られない状態だった。それが幸運にも聖王に認めていただき、多大な援助と後見を約束してくださった。しかも聖王は私とあなたとを――アドリアーネ殿と婚約させていただいたことで、特別な存在だと知らしめてくださった。そのおかげでようやく皆も――他国までも協力してくれるようになり、この国をどうにか立ち直らせることに成功したんだ。あなた方から受けた恩は多大で私は一生をかけても返しきれないだろう。だからこそ、このままあなたと結婚するわけにはいかない」
確かにジュードの言うことは間違っていない。
聖王国は多大な援助をし、アドリアーネの婚約者としてジュードは信頼を得ることもできた。
「それでは……ジュード様は私のことを好きではないから、愛してくださっていないから、結婚できないというわけですね」
「私はあなたのためを思って――」
「そんなお言葉は耳触りのよい言い訳ですわ! 私は今までに何度も何度もジュード様をお慕いしていると、大好きだとお伝えいたしました! それなのにやはり結婚できないというのは、ジュード様のお気持ちの問題ではないですか!」
「姫様!」
常らしくない激しいアドリアーネの言葉に、ターニャが堪らず声を上げた。
アドリアーネもわかってはいたのだ。
だがこの十年ずっとジュードと結婚できることを待ち望んでいたアドリアーネはジュードにとってお荷物だった。
そのことをこれほどはっきりさせられて、悲しみが抑えられなかった。
「卑怯だというのは重々承知している。今の今まで援助を受け、あなたの婚約者として恩恵を受けていたのにこのような申し出はあなたの名誉にも関わることだ。しかしあなたからの申し出にしてくだされば、笑いものになるのは私です」
「そんなことを申しているのではありません。私はあなたが――ジュード様をお慕いしているのです。その私に婚約解消をしろとおっしゃるのは、私の気持ちに応えられないということなのでしょう? 振られていてなお、このようにすがるのは浅ましいと思いますが――」
「あなたは勘違いをなさっている。幼い頃に何もわからず口にした言葉で婚約者となってしまい、私を好きだと刷り込まれてしまったのでしょう。あなたはまだ若い。私から解放されれば、きっと新たな――本物の恋ができるでしょう」
「ジュード様は私の想いを勘違いと申されるのですか? 私がそれほど……」
ジュードの言葉にショックを受け、呆然と呟いたアドリアーネはさらに何か言いかけて口を噤んだ。
そして首を横に振る。
「わかりました」
アドリアーネが決意に満ちた表情できっぱり答えたとき、ジュードは表には出さずほっとした。
それなのに、心の奥をチクリと針で刺されたよう痛みが走る。
だがそのことに意識を向ける前に、続いたアドリアーネの言葉に驚かされた。
「それでは結婚式をひと月延期しましょう。その間にジュード様が私に少しでも異性として好意を寄せてくださるなら、どうか結婚してください」
「いや、しかし――」
「私は私の心を十分に理解しております。ですから、あとはジュード様のお心を私に向けてくださるよう努力するだけですわ。それでもダメなら、諦めて国へ帰ります」
みっともないことはわかっていた。
だが十年も想いを募らせてきてここで諦めては、聖王女という肩書きを持つだけの喪女に戻るだけである。
ターニャがアドリアーネの発言に難色を示していことは、心配そうに見上げる母犬の姿から察することができた。
ジュードは無表情なままで考えているようだったが、そろりと出てきたオオカミさんはちらりとアドリアーネを見た後、またうろうろし始める。
嫌われてはいない。
それだけでもわかるのは幸いだった。
「それでは、今からひと月後にお返事をいただきます。今日はお誘いいただき、ありがとうございました。失礼いたします」
考えさせても発言させてもダメだと、アドリアーネは畳みかけるように告げて席を立った。
ジュードも一緒に立ち上がったが、納得はいっていないようだ。
ただ何を言えばいいのかわからないのだろう。
あとは逃げるが勝ちとばかりに、アドリアーネはにっこり笑って素早く部屋から出ていったのだった。




