95:歪められた日常
あの後、収まらぬ苛立ちに悪態を吐く私は、5限目の授業を無視して中央棟の屋上を訪れていた。
ヒメは私の事を気遣っていたけれど、おそらくこの感覚は私にしか分らないだろう。
あの部室の事に関しては、ヒメも何かしら感じ取ってはいただろうけど、このような苛立ちを感じる事はない筈だ。
そう、これだ。忘れてはならないと思うもの……日常を大切だと思うこの心だけは、絶対に離す訳にはいかない。
絶えず押し寄せる不快感と苛立ち――これは、私が何より大切にする日常を歪められた事に対する怒りだ。
「ふざけんじゃないわよ……」
許せないと、心底思う。
この違和感に慣れてしまうかもしれないと思った自分に、心底腹が立つ。
ふざけるな、そんな事を許してなるものか。
それだけは、絶対に譲る事は出来ない。この思いだけは決して忘れてはいけない。
――それを決して、一瞬たりとも忘れるな。
「ッ……そう、よ。言ってたじゃない」
誰かが言っていた、それだけは間違いない。
がしゃんと、落下防止用のフェンスに手を付く。菱形をいくつも作り出すそれを強く握り締めながら、私は絞り出すように声を上げていた。
「誰かが、誰かが……思い出せ。それを言ったには、誰だった……?」
遠い出来事のように、記憶が霞がかっている。
誰に言われたのか分らない。けれど、その言葉は忠告として私の中に存在していた。
決して忘れてはならないと、その言葉を強く噛み締めていたかのように。
激しく燃え上がる怒りの、その火種になったかのように――私の中で、燃え盛り続けている。
――とまれ。
ぎりぎりと、指に痛みが走るほどに握り締めていたフェンスを離す。
冷静さを欠いている。駄目だ、このままではとてもじゃないが、状況を判断する事なんて出来はしない。
こういう時にこそ賢司の力が欲しいと思ってしまうけれど……生憎と、持て余すようなこの感情は、私の中にしか存在していないだろう。
まあどうにしろ、いくら怒りに任せて怨嗟を吐き出していた所で状況は好転しない。
ここは一度、冷静にならなくては。とは言え、この苛立ちはなかなか消えてくれないのだけれども。
「何かきっかけがあれば全部思い出せる気がするんだけど……」
そろそろ5限目も終わってしまう時間だ。
あんまりゆっくりしている訳にも行かない。とにかく、少しでもいいから何かを思い出さなくては。
手がかりになるのは、私の耳に残っているあの声だろう。
誰が呼びかけたものかは分からないけれど、その声音も僅かながらに記憶に残っている。
あと手がかりになるとすれば、昼休みに訪れようとしていたあの部室だろう。
どこの部活も使っていない空き部屋だったあそこに、一体何があったと言うのか。
私は何故、迷う事も無く無意識にあの場所へと辿り着いてしまっていたのか。
分らないけれど――いや、違う。分らないでは駄目なのだ。思い出さなければ。
「部室、部活、部……」
といっても、私達は部活になんか入っていない。
ヒメは昔剣道部に入っていたけれど、今年度が始まる前に辞めていた。
と言うのも、ヒメに対してぶしつけな視線を向けてくる輩が多かったからだ。
そりゃまあスタイルもいいし顔も可愛いと来れば注目を集めない方がおかしいだろうけれど、だからと言ってあの状況を私たちが許す筈も無く。
ヒメの方も、いづなさんから剣術を学ぶ事を望み、そちらの道を歩み始めた。
だから、私達は誰一人として部活になど入っていない。
――その筈、なのに。
「――――」
何故だろう、何かが引っかかる。
何もおかしい所は無い筈なのに、何かが。
思い出さなくてはならない。何がおかしいのか、何に引っかかったのか。順序だてて考えなくては。
私達は誰も部活に入っていない。それは事実だ。
今この時点で、全員が帰宅部なのだ。別に部活は義務ではないし、やる事が無いなら入る理由なんて――
「入る理由なんて、無い……?」
再び、何かが引っかかる。
本当にそうだっただろうか。確かに、積極的に部活に入る理由は存在しない。
けれど、何か困らなかったか。部活に入っていないために、何か――
「ぁ……ヒメッ!」
新年度に入った当初の事を思い浮かべ、私は顔を上げる。
そうだ、ヒメがフリーになったから、ヒメに対して数多く信勝勧誘が寄ってきたのだ。
だから、隠れ蓑が欲しかった。簡単な文科系の部活にでも入って、勧誘を躱したかった。
そうでもなければ、アレだけの人気を持つヒメへの勧誘なんて収まるはずが無い。
だと、言うのに――
「――入って、ない?」
ああそうだ、部活になんて入ってない。
正直な話、文科系の部なんて入ろうと思えばいくらでも入れる。
活動が強制じゃないのも多いし、入部制限だって存在しない。
それなのに、わざわざ『入らない』などという選択をする筈が無いのだ。
文芸部でも料理部でも、それこそいくらでも入る場所などあるというのに。
何故私とヒメは、部活に入っていない?
「ッ……!」
ずきんと、頭が痛む。
何かが引っかかる、何かを忘れている、何かを思い出そうとしている。
これだ、私はやっぱり何かを忘れてしまっている。この正体さえ、掴めれば――
――にゃあ。
瞬間、朝から何度か聞いた声が、頭上から降ってきた。
その鳴き声に、私は反射的に振り返る。
ここは屋上だ。小さい猫が、上の方から声を掛けられる場所なんてそうそう無い。
あるとすれば、給水塔がある場所――私が入ってきた階段のある建物の上だけだ。
聞こえてきた方向もあっているし、そこで間違いないだろう。
「……黒猫」
僅かに尻尾が見えたから、間違いないだろう。アレは朝から現れていた黒猫だ。
そもそも、こんな風に付いて来て時折声を掛けてくる猫なんて、異常以外の何者でもないけれど。
「ん……異常?」
ふと、再び何かが引っかかる。その言葉が、何かしっくりと来なかったのだ。
何か他の呼び名があるような、そんな気がしてしまう。
けれどまあ、今はあの黒猫の方を気にするべきだろう。
関係があると断定する事はできないけれど、何かしら関わっている可能性は高い。
少なくとも、ただの猫でない事は確かだ。
「よっ、と」
梯子を見つけ、給水塔の方へと登ってゆく。
そういえばここは、昼休みに高校の男子生徒がよく昼寝をしている場所だったと思う。
たまにここで昼食を取る時に、上っている所を見た事があった。
流石に、今は彼の姿も見当たらないけれど。
給水塔に並び立つようにしながら、私は周囲へと視線を走らせる。
が――そこにはやはり、あの黒猫の姿は存在していなかった。
上ってきたのと反対の方向から飛び降りたのかと思い、そちらを見下ろしてみたが、やはりその姿は無かった。
何なのだろうかと、私は思わず眉根を寄せる。
「別に猫が何か知ってるとは思わないけどさ、せめて手がかりぐらい――」
思わずいもしない相手に悪態を吐こうとして――ちゃりんと、足元で音が鳴った。
驚き、反射的に足元へと視線を向ける。
落ちていたゴミでも蹴飛ばしたのか。そんな事を考えながらも爪先の向こう側を視線で追う。
「――――っ」
――心臓が、跳ねた。誇張でもなんでもなく、胸を圧迫するような強い鼓動を感じて、私は息を詰まらせる。
そこにあったのは、鍵だった。プラスチックのタグがついた、幾度か見かけた事のある鍵。
私はこれを、ヒメが何度か手にしている所を見た事がある。
そう、これは部室の鍵。本来ならこの中央棟の守衛室で一括管理されている筈のモノだった。
部室を使っている部の学生にしか貸し出されず、その時も学生証が無ければ渡しては貰えない。
本来、こんな場所にはある筈の無いものだった。しかも――
「これ……」
拾おうと伸ばした手が震える。
喉がカラカラに渇き、全身に細かく鳥肌が立っているようにすら感じられた。
何故なら――鍵についているタグに書かれていた部屋の番号は、間違いなくあの部屋のものだったからだ。
昼間、私とヒメが無意識のうちに訪れていたあの場所。
何故とか、どうしてとか――そんな陳腐な疑問すら浮かんでこない。
ただ私の中にあったのは、漠然とした確信だ。
「ッ……!」
反射的に、駆け出す。
梯子を降りるのすらもどかしいと即座に飛び降り、身を翻して階段を駆け下りてゆく。
その手の中に、拾い上げた鍵を握り締めて。
「はぁっ、はぁっ……」
何が私を突き動かしているのか……それだけは瞭然としている。
私は、私の日常を取り戻したい。こんな偽物は許せない。
だから、私は――私の本当の日常を、思い出さなくてはならないのだ。
そこに私の求めるものがある確証はないけれど、それでも私の足は思い描いた場所へと突き進む。
――必ず、取り戻す為に。
「ここ、この部室!」
一瞬通り過ぎかけて何とかブレーキを掛け、私はその部屋の前に立った。
乱れた息をゆっくりと整えながら、じっと扉を見つめる。
他の部室のように派手な看板が掛けられている訳でもない、その部らしい装飾がされている訳でもない。
ただ何も張られていない空き部屋――けれど私は、この部屋に対してそんな空虚なイメージを抱く事はできなかった。
何かが、おかしい。やっぱりこの部屋の前に立つと、違和感を強く感じてしまう。
何かが欠けているような、そんな感覚が。
「……お願い」
そのかけた隙間を埋めるかのように、手にした鍵を挿し込んでゆく。
ぴったりと填まった鍵は引っかかる事も無くくるりと回り――がちゃんと、予想よりも重い音を響かせた。
思わず生唾を飲み込みながらも、扉をゆっくりと開けてゆく。曇りガラスに隠されて見えなかった、その部屋の中。
まず目に付いたのは、何台かの机を繋げて出来た大きめの机。
周りには棚がいくつか置かれているけど、そこには何も収められていなかった。
やっぱり空き部屋だ、何も無い。何も――だと、言うのに。
「どう、して」
胸が、痛い。何かが詰まって、吐き出したいのに吐き出せない。
欠けていて、足りなくて、それがどうしても認められなくて。
狂おしく、叫び出したいほどに切ない思いがこみ上げてくる。
この部屋の中にいると、息苦しいほどに強い思いが湧き上がって来るようであった。
けれどそれが何よりも愛おしく――想いが、逆巻く。
ああいっそ叫びだしてしまおうかと、そう思った時だった……一冊の本が、私の目に飛び込んできたのは。
「これ……日記?」
いつの間にか机の中心に置かれていたのは、一冊の日記帳。
見たことも無い筈のそれは、けれど酷く懐かしく感じてしまう。
思わずそれに手を伸ばし、私は硬直してしまっていた。
何故なら、そのタイトルは――
「杏奈の日記……私? いや、違う。私は日記なんて書いてない」
私は日記なんて書いた事は無い。けど――確かに、何かが足りないと感じていた。
朝学校に来るとき、どうしても見つからなかったある筈の無い日記帳。
それがこれなのだと、私の心は確信していた。
どうしてこんな場所にこれがあるのかは分からないけれど、これが私の一部であるならば、戻ってきてくれた事が何より嬉しい。
そう思いながら日記帳を手に取り、手の上でそれを広げる。
――瞬間、私は目を見開いていた。
目に飛び込んできたのは、枠すらない白いページと、そこに描かれているデフォルメされた少女のイラスト。
黒くて長い髪と、白い着物。今時見ないような姿をした少女のキャラクター。
それを目にして――無意識の内に、言葉が零れる。
「……杏奈」
私と同じ、名前。
この子の、名前は――
『――――やっと見つけてくれたね、杏奈』
刹那――私の記憶が、弾けた。




