93:変わらぬ日々
「――――ッ!!」
声にならぬ悲鳴と共に、私は体を跳ね上げる。
身体にかかっていた布団を弾き飛ばし、周囲をとっさに見回して――そこが私の部屋である事に、安堵する。
「はぁっ、はぁっ……ゆ、夢……?」
そう、夢だ。アレは夢……あれ、どんな内容だったっけ?
分からない。分からないけれど、とにかく恐怖を感じていた。思い出すことを忌避しているように、内容を知りもしない夢の内容に恐怖している。
一体なんだったのか……思い出せはしないが、とにかく最悪な気分なのは確かだ。
「ああ、もう……掃除しないと」
何はともあれ、もう普段通り起きて境内の掃除をする時間だ。
あんまりゆっくりしている訳にも行かない。
いつも通り仕事していれば、この憂鬱な気分も晴れてくるだろう。
そう思い、私は気合を入れ直して起き上がる。まずは準備をしなければ。
顔を洗って、歯を磨いて、朝御飯を作る準備をして……それから、巫女服に着替える。
いくら気分が憂鬱だからといって、これは何年もずっと続けてきた事だ。
例え半分眠っていたとしても、しっかりと同じ事ができる自信がある。
「しっかし、何なのかしらね」
いつも通りの作業の後、私は竹箒を持って玄関へと向かっていた。
しかし、そんないつも通りの行動の中にも、妙な違和感が付き纏う。
何だろう、今日は別に何か特別な事があるわけじゃないのに。
別に学校の課題をやり忘れてるって訳でもないし、何か予定が入ってるって事もない。
今日はお兄ちゃんたちは皆来ないから暇と言えば暇だけど、別にそれも珍しいという訳ではないし。
「んー……何だってのかしら」
嘆息しながらも外履きに履き替え、じゃりじゃりと石を踏みながら境内へと歩き出す。
と――そこでちょうど、私は見慣れた姿を発見した。
姿を現したのは、石段をいつも通り軽快な足取りで登りきったヒメだ。
その姿に、私はきょとんと目を見開く。
「あれ、どうしたのヒメ?」
「おはよう杏奈ちゃん。どうしたのって、いつも通りいづなさんと特訓だよ?」
「あ、ごめん挨拶忘れてたわ。おはよう……って、今日はいづなさんいないわよ?」
「え、あれ?」
私の言葉にヒメは硬直し、しばしそのまま黙考する。
そして数秒後、表情を曖昧な笑みの形に固めた後、誤魔化すような笑い声を上げた。
「あ、あははは……えっと、ほら、そういう日もあるって言うか」
「要するに忘れたのね?」
「うぅ……はい、ごめんなさい」
しょんぼりと俯くヒメの姿に、私は思わず苦笑を零す。
しかし、珍しいといえば珍しい。ヒメはいづなさんとの特訓を本当に楽しみにしているから、今まで一度として日付を間違えた事なんて無かったのに。
楽しみにしすぎて間違えてしまったと言う事だろうか。
「ま、折角だし朝御飯作るの手伝ってよ」
「あ……うん、そうだね。杏奈ちゃんと一緒にご飯作る事なんて殆ど無いし」
「まあ、ここの掃除終わらせてからだけどね。ヒメも素振りぐらいならやってきたら?」
「うん、分かった。あんまり疲れすぎない程度にしとく」
そうして私達は互いに頷き合うと、それぞれの仕事へと取り掛かっていった。
とりあえず、ヒメはいつも通り裏手に回って素振りをすると言うことだろう。
あの辺りの地面、訓練のし過ぎで踏み固められてだいぶ硬くなってきちゃってるのよね。
まあ、別にそれで困るって訳じゃないんだけど。
「ま、さっさと掃除しちゃうとしましょうか――」
そう呟き、掃除を再開しようとした――その瞬間だった。
――にゃあ。
ふと、小さな鳴き声が私の耳に届く。
この辺じゃあまり聞くことなんて無い、猫の鳴き声。
殆ど反射的にそちらの方へと視線を向けて、ちらりと視界の端に黒い姿を発見する。
けれどそれを正視しようとした瞬間には、その姿はいつの間にかなくなってしまっていた。
「んー?」
再び、違和感。
いや、これはむしろ既視感だろうか。
前に一度、こんな事があったような気がしてならない。
一体どういう事だろうか……ってまあ、別に黒猫ぐらいは幾度も見た事あるだろうけれども。
別段、変わった光景という訳じゃなかった筈だ。
「何で引っかかったのかしら……」
何かが脳裏に引っかかる。それがどうにも気持ち悪くて、思い出せそうなのに思い出せない苛立ちに、私は深々と嘆息を零していた。
ともあれ、掃除をしてしまわないといけない。今日も学校があるのだから、あんまりゆっくりしている訳にも行かないのだ。
ヒメが特訓を終えたら誠也を起こして、それからご飯を作って……ああ、トモは来るのかどうかを聞いとけばよかった。
まあ、多めに作ってもそれはそれでいいか。お弁当にでもすればいい訳だし。
「さて、さっさと掃除終わらせますかー」
とにかく、今は掃除に集中だ。
今日は特別な用事があるって訳じゃないから、まあまったりと行く事にしましょうか。
――そうして掃除に集中している内に、私はさっきの違和感のことを忘れていた。
* * * * *
「おーい姉ちゃん、あんまりゆっくりしてると遅れるぞ?」
「杏奈ちゃん、早く早く!」
「分かってるわよ、ちょっと待ちなさいってば!」
別に急がなきゃ遅刻するって時間じゃないけれど、あんまりゆっくりしている余裕がある訳じゃない。
石段含めると学校から距離がある方だしね、うちは。
まあとにかく、今日の授業の用意をカバンの中に詰め込んでゆく。
っと、アレはどこに行ったかな――
「姉ちゃんってば、何ぼんやりしてんだよ?」
「人の部屋に入る時はノックぐらいしなさいって言ってるでしょうに」
「はいはい、家族以外にはしてるよ」
そこまで遅くしていたつもりはないのだが、どうやら焦れてしまったらしい誠也が私の部屋に乗り込んできた。
親しき仲にも礼儀ありという言葉を知らないのだろうか、こいつは。
まあ、今は説教している暇も無いから、とりあえず置いておく事にするけれど。
「で、何してんだよ姉ちゃん?」
「学校に行く準備に決まってるでしょ。ただ日記帳がどうにも見つからなくて……」
「はぁ? 何で学校行くのに日記帳がいるんだよ?」
「何でって、そりゃ――」
咄嗟に言い返しかけて、私ははたと動きを止める。
そうだ、何で私は日記帳なんか学校に持っていこうと思っていたのだろうか。
別に見せびらかすものではないし、態々そんなかさばる物を持って行く理由も無い。
いや、それにそもそも――
「てか、姉ちゃんって日記なんかつけてたのか?」
「え、いや……つけてない、けど」
「余計に何で持ってくんだよ?」
「そりゃ、えっと……何でだろう? 自分でも分からない」
「おいおい、しっかりしてくれよ」
誠也は呆れたように半眼を浮かべて嘆息を零している。
その様子には若干カチンと来たけれども、私自身訳の分からない事を言っていたのだし、呆れられても仕方ない事ではある。
って言うか、本当に私は何をしようとしていたのか。
「何か様子が変だけど、熱でもあるんじゃないだろうな?」
「いや、無い無い。大丈夫、健康健康」
「それならいいけどさ……調子悪いんなら言えよな」
ぶっきらぼうながら優しい我が弟に、『コイツ結構もてるんじゃないか』と思いつつ、胸中で感謝しておく。
別に調子が悪いわけじゃないんだけど……何か、変な感じだ。
何かは分らない。けど、何か、何かが――
「おーい姉ちゃん、本当に大丈夫なのか?」
「……うん、大丈夫、問題ない。行きましょう」
喉奥に小骨が引っかかってるような不快感ではあるけれど、あんまり訝しげな表情をしていても誠也に心配を掛けてしまう。
今の誠也は、本当に私の事を心配している表情だ。
別に調子が悪いと言うわけではないのだから、これ以上心配を掛ける訳にはいかないだろう。
とにかくいつも通りに明るく振舞い、誠也の背を押して自室を出てゆく事とする。
少しだけ、後ろ髪を引かれるような思いがあったけれど――その原因に思い当たる事が出来ず、私は誠也に気付かれぬよう小さく嘆息を零していた。
廊下ではヒメが待っていて、私の姿を見つけて声を上げる。
「あ、ようやく出てきた。杏奈ちゃん、遅いよー?」
「あはは、ごめんごめん。ま、とにかく行きましょう」
時間的にはまだ急がなくても大丈夫な程度だ。
出発はいつもより多少遅れたとは言え、どうせ皆で待ち合わせなのだからあんまり変わらない。
玄関へと向かい、靴に履き替えて外に出る。
今日は家族の皆がいないから、鍵を閉めていかないと――
「……ん?」
「杏奈ちゃん、どうかしたの?」
「あー、いやいや。何でもない」
ふと、お父さんとお母さんの事を思い出してしまった。
二人は仕事で出ている筈なのに、ついうちにいるような気がしてしまったのだ。
とにかく、両親がいない以上は鍵を開けたままにして置く訳にはいかない。
「よし、施錠完了っと……それじゃ、行きますか」
しっかりと鍵をかけた事を確認して、家を出る。
まあ、わざわざこんな所まで泥棒に来るような奴もいないけれど。
見晴らしいいから割と目立つし、何だかんだでここの鍵はしっかりしている。
神社で気が引けるというのがあるのか、そもそも神社なんてあんまり儲かってないと思われてるのか、今まで泥棒に入られた事はない。
……まあ実際の所、そこまで大量の金がある訳じゃないのは事実だが。
「何か曜日の感覚でも狂ってるのかしらねぇ」
いつも通りの長い石段を下りつつ、私は嘆息しながらそう呟く。
どうにも、変な感覚だ。
まあ、別に調子が悪い訳じゃないのは事実だし、何か問題があるって訳でもないけど。
「杏奈ちゃん、どうかしたの?」
「いや、ちょっとど忘れと言うか時差ボケと言うか……夢見が悪かったのが原因なのかしらね?」
「え、杏奈ちゃんも?」
「……って事は、ヒメも?」
「おいおい、二人とも大丈夫?」
私たちの言葉に、後ろを歩いていた誠也が眉根を寄せる。
まあ別に、単に夢見が悪かったと言うだけなのだし、問題は無いのだけれど――
「いや、単に曜日の感覚が変だなーって感じがするだけよ。ほら、今日が木曜日辺りだなーと思ったら火曜日だった感じ?」
「がっかり感は伝わってくるけどさ……寝ぼけてんじゃないのか?」
「私だけならそうかもしれないけど、ヒメもだしねぇ」
普段しっかり……まあ、私生活ではしっかりしてるヒメが訓練の日付を間違えたのだ。
何となく、違和感が積み重なってしまっている――そんな感じがしてならない。
とは言え、その正体を掴めるほどじゃないのだけれども。
「うーむ……ねえヒメ、その夢の内容覚えてる?」
「え? えーと……ごめん、思い出せない」
「ヒメも思い出せないか。実際、私もあんまり覚えてないのよね」
「うん、何だかすごく怖くて悲しかったのは覚えてるんだけど……詳しい内容はどうしても思い出せないの」
どうやら、ヒメも私と同じような状況らしい。
どうにも嫌な感じがするけれど、違和感の原因を確かめる事はできない。
「……とりあえず、皆にも聞いてみましょうか」
「うん、そうだね。とりあえず、お兄ちゃんと賢司君かな」
「――、そうね。とりあえずあんまり待たせても悪いし、さっさと行きましょうか」
再び、僅かな違和感。何かが足りないような、そんな感覚。
別に足りないものなんて無い。ここにいる三人と、待っているであろう二人の計五人。
それが、私たちの普段の人数であるはずなのに……なのに、誰かが足りないような――そんな一瞬引っかかった違和感が、私の脳裏にこびり付く。
何も……そう、何もおかしい事なんてない筈なのに。
なのに、何かが――
――にゃあ。
振り返る。
確かに聞こえた猫の声。それは恐らく、あの時境内で聞いた声と同じだろう。
神社から出てもまだ近くにいたのかと視線を巡らせれば、翻った尻尾だけが僅かに目に入る。
やっぱり、その姿を捉える事は出来なかった。
こびり付く違和感、そして――不快感。
「一体、何が――」
私の大切な日常が翳っているような気がして、私はどうにも拭い切れないその感覚に、思わず眉根を寄せていた。




