66:剣を握る想い
「そこッ!」
伸びてきた腕を斬り払い、同時に重心を移動させて体勢を立て直す。
訓練では未だ不完全であったその技術も、姫乃はこの異界の中で徐々に完成させつつあった。
これは霞之宮の剣術において最も基本であり、同時に最も極める事が難しいとされる分野だ。
この重心の移動さえものにすれば、霞之宮の剣技を習得するための大きな助けになる――というのが、姫乃の師であるいづなの言である。
姫乃もこれにはかなり苦戦していたのだが、この異界の中で戦闘を続ける内に自分の動きの改善点を見出し、理想の形へと近づける事に成功していたのだ。
そしてそれは、今この瞬間にも。
「こっ、ち!」
身体を大きく捻り、振り終わった木刀を再び触れる体勢へと変化させる。
普通ならば転んでしまいそうな体勢にまで体が傾くが、それを何とかするための技術が極限の重心移動だ。
隙を殺し、更に次なる攻撃の始まりへと一切のタイムラグ無しに繋げるための技術。
それを容赦なく振るいながら、姫乃は向かってくる腕を再び縦に両断していた。
『油……油……』
しばらく進む事によって聞こえてきた、老婆の発しているであろうしわがれた低い声音。
普段の姫乃ならば、それだけで竦んで動けなくなるであろうほどに怨念がこもっているそれ。
しかしながら、その程度で姫乃の動きが鈍る事など一切無かった。
むしろその剣技は更に鋭さを増し、まるで舞であるかのように絶え間ない動きを繋げる。
なぜなら、今ここには護るべき相手がいるのだから。
「市ヶ谷さんっ!」
「っ、ああ、もう少し……よし、巻き戻し完了だ!」
姫乃の言葉に答え、地面に伏せてラジオを操作していた浩介は、そんな彼女の言葉とともに再びノイズを流し始めた。
その不協和音は音の無い世界へと染み渡るように広がってゆき、同時に現れていた怪異の腕達は引き攣るように動きを止め、姿を消してゆく。
そしてそれらが完全に消え去った事を確認すると、姫乃はようやく大きく息を吐き出した。
「市ヶ谷さん、大丈夫ですか?」
「ああ、おかげさまでね。助かったよ、俺一人じゃ結構大変な事になっていた」
「市ヶ谷さんなら一人でも何とか出来てしまいそうですけど……でも、そう言って貰えて嬉しいです」
先ほどまでの凛々しい姿はどこへやら、姫乃は穏やかな笑みと共にそう答える。
誰かを護ると言う行為そのものに思い入れのある姫乃にとって見れば、この状況は自分の力を振るうに値するもの。
それ故に、護った結果誰かから例を言われるという事は、彼女にとっては非常に価値のあるものだったのだ。
と、そんな視線が、ふと浩介の持つラジオの方へと向けられる。
「それ……便利だと思ってましたけど、そんな弱点もあったんですね」
「まあ、品が品だからね。それに、怪異がこんな風に常時襲ってくる状況なんてそうそう無いから、普通はある程度したら巻き戻す事が出来るんだけど」
浩介の持つ、ノイズを放つラジオ。
およそあらゆる怪異に対して有効であるそれには、一つだけ弱点が存在していた。
それは、古いラジオであるが故に、カセットテープしか再生できないと言う点だ。
これがCDであったならば、ボタン一つで最初から再生し直す事が可能であった。
しかしカセットテープでは、終わってしまえば巻き戻さねばならなくなってしまう。
両面に録音しておけばよい話ではあるが、それは浩介のミスであった。
「まあ、結構な長さで録音してあるから、もう切れる事はないだろう。だいぶ近づいて来たみたいだし、さっさと怪異の本体の所へ向かうとしようか」
「はい、分かりました」
コートについた落ち葉を払い、真っ直ぐと前方を見据えて言い放つ浩介に姫乃は同意する。
その表情の中に恐れの色は見えず、ただ向かう先の敵のみを見据えていた。
そんな姫乃の様子と、彼女の持つ木刀へちらりと視線を向け、浩介は声を上げる。
「篠澤さん、少し聞いていいかい?」
「あ、はい。何ですか?」
「君は、怪異が怖くないのか?」
その言葉に、姫乃はきょとんと目を見開いて動きを止める。
姫乃が足を止めたことに気づき浩介も首を傾げながら立ち止まるが、それだけで彼女が動き出す事はなかった。
そのまま二人ともしばし沈黙し――そして、姫乃が声を上げる。
「怖いですよ。とても、怖いです」
発せられた言葉に、浩介は思わず息を飲む。その声音が、酷く機械的なものであったためだ。
感情のこもらない、あるいは感情を無理矢理押さえ込んでいるかのようなその声音。
それは、今の短い時間の中で、湧き上がってきた恐怖心を無理矢理押さえ込んだがためであった。
「私のこれは、単なる自己暗示です。怖いけど、怖くて動けなくなってしまったら誰も護れないから……だから、こうして剣を振るう自分を作っているんです」
「……そうか。済まない、思い出させるような真似をしてしまって」
「いえ、いいんです」
小さく、苦笑するような色が姫乃の声の中に宿る。
その頃には凍りついた表情は消え去り、先ほどと変わらぬ穏やかな様子の姫乃の姿が戻ってきていた。
剣を握り、仲間を護る事を信条とする自分。それは紛れも無く、姫乃にとっての本心であった。
だからこそ、それ一本に意識を集中する事で恐怖心を一時的に忘れさせる、力押しとも言えるような技術。
それがあるからこそ、姫乃はこの異界の中でも冷静さを失うことなく動く事が出来ていたのだ。
「市ヶ谷さんこそ、怖くはないんですか?」
「はは、俺も怖いよ。色々な怪異に会ってきたからね、怪異の恐ろしさは良く知ってる」
薄く笑みを浮かべるその姿からは、恐怖心を見つける事など出来はしない。
しかしそれでも、浩介の発する言葉には、それ相応の重みが宿っていた。
姫乃には――否、姫乃だからこそ、それが理解できる。彼の言葉の中には、姫乃の願いと同じように、強い思いの一部が存在していた。
「怖いけど、それでも、確かに助けを求めている人がいる。俺の目と耳が届く範囲でそんな人がいたって言うのに、それを見て見ぬ振りをしてしまったら、俺が俺ではなくなってしまいそうで……それが、怪異なんかよりももっと怖い」
あまり強い言葉ではない。口調はとても穏やかなものだ。
けれど、その言葉の中には、ただひたすらに願い続ける祈りのような感情すらも込められていた。
「……なんて、ちょっと格好付けすぎか」
「いいえ……私は素敵だと思います」
「はは、ありがとう」
自嘲気味に呟いた言葉を肯定され、浩介は照れた顔を隠すように頬を掻く。
そんな彼の様子を見つめ、姫乃は小さく笑みを浮かべていた。
決して、馬鹿に出来るものなどではないのだ。姫乃はそれを、尊い思いだと信じていたから。
ただ、少しだけ気になったのは――
(『助けを求めている人』っていう言葉……依頼人の人かと思ったけど、何だかそれ以外の誰かにも意識が向けられていたような……)
ほんの僅かながら、姫乃はそんな疑問を抱く。
しかし、そんな疑問を飲み込み姫乃は小さく息を吐き出した。
今は聞く意味も無い。そして、それがどのような意味を持っていたのか、それをこの場で問いかける事は憚られたのだ。
気にならないと言えば嘘になるだろう。賢司の関係者である浩介の話は、姫乃としても聞きたいものであった。
しかし、どこであのタブーに触れてしまうかも分からない以上、下手に踏み込む事が出来なかったのだ。
「……無理に聞く必要も無いよね」
深くは考えない。頭の回転は速いが、思考は結構単純な姫乃は、そう結論付けて先を急ぐ。
今は集中すべき相手がいるのだ。考えるのならば、そちらの方にすべきである。
「あの、市ヶ谷さん」
「ん、何だい?」
「さっきの怪異……隠れ婆、でしたっけ? あの怪異が、油がどうとか喋っていた気がするんですけど……」
話を逸らす事が目的と言うだけではなく、これは姫乃にとって純粋に疑問だった事であった。
先ほど怪異と戦っていた時に聞こえた声。距離が近くなった事によって聞こえるようになったのかもしれないが、その内容が理解できなかったのだ。
話す内容はただ単純に『油』のみ。単なる単語のみで話にすらなっていないが、それに一体どのような意味があるのか、姫乃にはそれが気になっていた。
そんな彼女の疑問に、浩介は笑みを交える事なく声を上げる。
「ああ、アレは隠れ婆というか、隠し神の妖怪全般に見られる傾向だよ」
「隠し神全体と言うと、子供をさらうって言ってたやつですよね?」
「まあ、それの繋がりみたいなものだね」
口調は比較的軽いが、その声音は硬い。そんな浩介の様子を察し、姫乃は思わず気を引き締めていた。
弱点が無いかと考えた末の疑問ではあったが、あまり良い話ではないと思われる。
覚悟を決め、姫乃は浩介の話を待つ。
「隠し神は、さらった子供から油を取るんだ。怪異に目的が無いように妖怪にも目的なんて無いんだろうが……とにかく、そういう習性があるって事だよ」
「油を、取る? 人間の子供から? そんなの、一体どうやって……」
「……絞るんだよ」
「絞る? 何を――」
そう言いかけて、姫乃は先ほどの腕を思い浮かべる。
暗がりから伸びてくる無数の腕。尋常ではない膂力を持ち、掴まれればひとたまりも無いであろうその力。
そして、『絞る』という単語――そこから想像できる事は、たった一つだけだった。
「子供の身体を絞り、油を取る……それが、隠し神の中でよく見られる傾向だ。それにどのような理由があるのかは知らない。あるいは、理由なんて存在しないのかもしれない……いや、その可能性の方が高いだろう。
だがどちらにしろ、危険である事に変わりは無い。早目に解決しないといけないだろうね」
「そう、ですね」
感じる苛立ちを抑え、姫乃は頷く。
周囲の情報を己の中に取り込んでゆくには、感情の揺れが邪魔になるのだ。
故に、自己暗示を用いて感じたものを押さえ込んでいる。けれど確かに、怪異に対する恐怖も怒りも、姫乃の中に存在していた。
そのようなものがいつまでも存在する事を、認める訳には行かないと。
「……行きましょう、市ヶ谷さん」
「ああ、分かってるよ」
硬い声を上げる姫乃に、浩介はやはり失敗だったかと小さく嘆息を零す。
だが、怪異と対決する姿勢を持ってくれるのであれば、あの事に気づかずにいてくれるかもしれない――そう、浩介は考えていた。
(何故、彼女は怪異に狙われるのか)
今回の怪異は子供を狙う怪異である。そして姫乃は、まだ子供と呼んでも差し支えない範囲の少女だ。
故に、この場に老いて彼女が狙われる事に違和感は無い。
が、怪異が現れたあの山全体から見てみれば、篠澤姫乃と言う少女一人が狙われる事はどう考えても不自然であった。
(……一応理由は知っているが、話す訳には行かないか。友達想いな子だ、これを知ったら傷つくだろう)
本来ならば、話した方がいいと浩介は考える。
だが、この話を持ちかけてきたのは他でもない、大事な弟分である賢司だったのだ。
その言葉を無碍に扱う事は、浩介としても避けたい所であった。
(賢司も、大切に思える子を見つける事ができたか)
浩介は姫乃の性格を、あまり長い付き合いとはいえないながらも、多少ながら把握していた。
もしも自分の身に何が起こっているのかを知れば、彼女は一人で戦うようになるだろう。
それは姫乃にとっても、姫乃を大切に思う者達にとっても危険な事だ。
(怪異自体に目的は無い……なら、彼女を狙っているのは怪異そのものではなく、怪異を作り上げている根本の方だ。目的は彼女の力か? 木刀で怪異を斬る……危険視しているのか、或いは――)
「市ヶ谷さん?」
「ん? あ、ああ。どうかしたかな?」
「いえ、突然黙ってしまったので……何かあったのかと思って」
心配そうな姫乃の言葉と視線を受け、浩介は所在無さげに頬を掻く。
本気で案じているらしい姫乃に、若干ながら負い目を感じてしまったのだ。
「ああ、いや。今回の敵の事を考えていただけだ。子供を狙うと言う性質上、どうしても君の方が狙われそうだからね」
「そうですね。それに、市ヶ谷さんはそのラジオも持ってますし……そのラジオでは戦えないんですか?」
「これは本体に有効なダメージを与えられるほどの威力は無いさ」
分身である腕ならまだしも、本体を直接攻撃するには密度が薄すぎる。
もしも本体が相手となるならば、有効なダメージを与えるためにはもっと違う方法を用いる必要がある。
「異界の核を潰す事が出来ればその方が楽なんだが……流石に下調べが足りないからな。何とかしよう」
「核、ですか? そんなものがあるんですか?」
「基本的に本体にくっついているようなものだけどね。分離している事のほうが稀だから、本体を何とかするのと大して変わらないよ」
「はぁ、そうですか」
要領を得ていない様子の姫乃に、浩介は小さく苦笑する。
とはいえ、方法が無いと言うわけではない。
「相手に合わせて行動する。俺みたいな力の無い人間が怪異と戦うには、それが必須だ。大丈夫、手はいくつかあるよ。君は、君の身の安全を優先してくれ。俺はたぶん狙われないから」
「……はい、分かりました」
微妙に納得できていない表情ながら、浩介の最後の言葉に対し、姫乃は一応の了解を発する。
その言葉に一応の安心を得て、浩介は視線を前方に戻し――ふと、動きを止めた。
訝しげにその姿を見上げた姫乃は、彼の視線を辿り、そして同じく驚愕の表情と共に動きを止める。
二人の前方。その場所には――小さな寺が建っていたのだ。
「これは……」
「気をつけて。恐らく、最奥だ」
そして、その中心に立つ一人の老婆――ゆっくりと上がったその顔は穏やかな表情を浮かべている。
けれど、その奥には、底知れぬ狂気と闇が揺らめいていたのだった。




