35:次なる場所へ
砕け散った鏡が、破片となって廊下の床へと落ちる。
その衝撃で更に細かく砕けながら、その反射する光の中で、ヒメは改めて竹刀を構え直す。
偽者の身体は既に消え、今はそこに標的となる相手はいないはずなのに―――いや。
「姫乃ちゃん、それは―――!」
珍しく、桜さんが驚きの混じっている声を上げる。
ああ、私だって驚いている。だって、ヒメがその刃を向けた先にあったのは―――あの時、桜さんが握り潰したのと同じ、黒い靄の触手だったのだから。
降り注ぐ鏡の破片は、まるで意志を持っているかのようにヒメの体を避けてゆく。
或いは、鏡自身が、自分に宿ったソイツを斬り捨ててくれとでも懇願するかのように。
そしてヒメは、迫り来る触手へと向け竹刀を振るう。
「はあああああああああッ!!」
聞いているこちらが硬直してしまうような、強い意思の篭った裂帛の気合。
それは触手―――『根っこ』の放つ恐ろしげな怪異の雰囲気すら容易に打ち砕き、鋭い一閃となって放たれた。
横薙ぎに振るわれた一閃は、ヒメを捕らえようとしていた根っこ達に突き刺さり、それらを悉く断ち斬ってゆく。
ただの竹刀であるはずのそれは、まるで高名な剣士の持つ名刀であるかのように。
「―――!」
桜さんが息を飲む。
私には桜さんの考えている事は分からないけれど―――恐らく、それは異常な事なのだろう。
だって私には、あの根っこをどうにかする方法なんて、何一つ考えつかない。
けれどヒメは、まるで確信しているかのように、根っこへと向けて刃を振るっていた。
―――自分ならばアレを断ち斬る事が出来ると、そう確信していたのだ。
まるで理解不能だったけれど、なぜかヒメならばそれもありえるのではないかと、そう思えてしまう。
「……ふう」
がしゃん、と―――最後の鏡の破片が地面に落ちると共に、ヒメは構えを解いて息を吐き出す。
鏡の奥にあったはずの根っこは、全て切断され、霞となって消えてゆくところだった。
それと共に、周囲が少しだけ振動しているのを感じる。
『引きずり込む手』の時と同じく、怪異の根本が怒っているのか……それとも、この根っこの上げた断末魔の悲鳴なのか。
どちらにしろ、この『異次元の鏡』と言う怪異はここで終了となるようだった。
「ヒメ、大丈夫か!?」
「わっ……お、お兄ちゃん、大丈夫だってば」
「全く、無茶するんだからこの子は」
「た、焚き付けた杏奈ちゃんが言う!?」
心外だ、とでも言いたげな様子でヒメが声を上げる。
地面に落ちている鏡の破片を踏んでぱきぱきと音を鳴らせているけれど、どうやら破片によって怪我をするような事は無かったらしい。
とりあえずその事に安心して、私は小さく息を吐き出した。
と、そこでようやく、今まで沈黙を保っていた先輩が声を上げた。
「ふぃー、緊張したねぇ。それで賢司くーん、君は姫乃ちゃんに何も言わないのー?」
「……状況が終わったからっていきなり調子に乗り始めないで下さい、部長」
固唾を飲んで見守っていた笹原さんはともかく、あそこの二人は多少余裕はあった筈なんだけどね。
特に、ヒメの実力を良く知ってる嶋谷は、そこまで極端に心配はしてなかったはずだ。
だから、さっきの偽者の発言には、嶋谷だって反応していてもおかしくはないと思うんだけど。
そう思いながらちらりと横に視線を向けると、ヒメは若干ながら不満げな視線を嶋谷の方へと向けていた。
やっぱり、何かしら言って貰いたかったらしい。
「……はぁ、全く。言いたい事は杏奈達が殆ど言っちまったんだよ」
そんなヒメの視線にたじろぎ、嶋谷は肩を竦めながらそう口にする。
まあ、アイツはそう、衝動的に言葉を口にするタイプじゃないから仕方ないかもしれないけど。
けどまあ、ヒメとしてもやっぱり何かしら言って貰いたかったんだろう。
複雑な乙女心って奴よね。
「あ、ううん。別に、気にしてるわけじゃないから……」
絶対気にしてるわね。先輩が物凄く面白そうな顔してるし。
そしてそんな雰囲気を感じ取ったのか、嶋谷は苦虫を噛み潰したような表情で嘆息した。
まあ、何だかんだで甘いのだ、嶋谷は。
「……態々、言うまでも無い事だろ。俺が口を出さなくたって、ヒメは最初から分かってた筈だ。自分の事を分かってて、その上で俺達の事を大切に思ってくれていた筈だろう?
だったら、俺が口を出すまでも無い―――そう思っただけだ」
「……ちょっと嶋谷、それじゃ私達の立場が無いじゃない」
「だから言ったんだよ……ったく。こんな事は一々口にする事じゃないだろ」
そういって、嶋谷はそっぽを向く。
その照れ方に私は小さく笑みを浮かべ―――そして、どこか嬉しそうな表情に変わっているヒメの様子に苦笑した。
まあ、そうだろう。私達全員の事を、最も良く観察しているのは間違いなく嶋谷なのだから。
「さて、それじゃあここはこんな所で。次に進まないとね」
深々と息を吐き出し、ぐっと背伸びをしながら、先輩はそう口にする。
その言葉に、私は改めて気を引き締めた。
まだ七不思議は二つ目……七つ目が不明だとしても、まだ四つあるのだ。半分にも達していない。
あんまり気を緩めている訳には行かないだろう。
「それで、次の七不思議は何なんですか?」
「ん、高校棟一階の廊下だね。七不思議の名前は『白装束の行列』。危険度で言うと……あんまり変わらないかな」
先輩は軽い口調でそう口にするけれど、十分脅威に感じる事ではあった。
『引きずり込む手』、『異次元の鏡』……これまでの二つの怪異は、十二分に危険なものだったのだ。
幸い、怪異として噂話に縛られているためか、例え異界の中だったとしても特定の場所に行かなければ発生しないみたいだったけど。
場所は高校棟一階の廊下……嶋谷達が普段通っているような場所だ。
そう思って私は嶋谷とトモの二人の方に視線を向ける―――が、どうやら二人とも大して気にしてはいないらしい。
怪異に対する耐性がある嶋谷はともかく、トモは……まあ、何も考えていないだけだろう。
「……それは、どんな噂なんですか?」
「んー……ありがちと言えばありがちなのか、微妙な話ではあるんだけどね。ぶっちゃけ、調べれば信憑性なんて皆無のようなものだけど、この状況だし……怪異になってると考えた方がいいか」
どうやら、これまでにあった話よりも眉唾な噂らしい。
あれ以上どうやって胡散臭い話が出来るのかと眉根を寄せるけど、所詮は作り話だ。
どんな荒唐無稽な話であったとしても、噂話になった以上変わらない。
まあ、あんまり荒唐無稽すぎると、むしろそれと相対しなければならない私達が困るのだけど。
「で、それはどんな―――」
「えっと……確か、授業中に扉の窓の所を見ると、白衣を纏った人たちの行列が見えるって言う噂でした……よね?」
どうやら、笹原さんも知っていたらしい。
その割には自信なさげだったけど、どうやら内容は合っていたようだ。
先輩は笹原さんの言葉にコクリと頷いて、その続きを担うように声を上げる。
「これぞ作り話って感じだけど、彼女の言うとおり。とある男子生徒が授業中、眠気を堪えながら扉の方を見ると、そこを何人もの白衣の人間達が横切って言った、という話だ」
「……化学の実験とかじゃ?」
「まあ、白衣が無い訳じゃないけど……あれって化学実験室の前に並んでるものだしね。そこで着てる理由は無いでしょ」
先輩の言うとおり、化学の実験用に、白衣と言うものは用意されている。
ただしそれは中央棟の化学実験室の前にハンガーで吊るされて並んでいるものであって、間違っても高校棟で着ているような物ではない。
ならば、その人達は一体何者だったのか。
「男子生徒は疑問に思ったけれど、その時は眠気も勝っていたし、単なる見間違いだったと判断して気にしない事にしていた。けれど後日、彼はもう一度それに遭遇してしまうんだ……今度は眠気なんて無い、廊下を歩いている時にね」
その言葉に、私は思わず眉をぴくりと跳ねさせていた。
恐らく、ここからがその話の本番。その白装束どもの正体が一体何なのか、それがこの話の核心だ。
一度剣を取り戦ったからか、ヒメはもうあまり怖がってはいないようだった。
皆を護ると、そう決めているのだろう。今度はどうやって皆を護るか、ただそれだけを考えているからか、じっと先輩の事を見つめて次の言葉を待っている。
その様子を見つめ返し、先輩は小さく頷いて声を上げる。
「白装束―――その白衣の連中は、一言で言えば異様だった。白衣の下も学校にあるはずも無い出で立ちをしていて、更に白衣の裾には所々赤黒い染みが存在していたんだ」
「……」
先輩の説明に、私は視線を細める。
その染みの正体が何なのかなんて、最早考えるまでもない事だろう。
ただ、それだけではその白装束たちの正体を突き止める事は出来ない。
「白装束たちは階段の奥―――まるでそこに下り階段があったとでも言うかのように現れ、少年の方へと歩いてきた。
怯えた彼は、必死に視線を逸らして、白装束たちの目を見ないようにしながら近くの教室に逃げ込んだ。
その甲斐あってか、白装束たちは彼に気付く事も無いまま、通り過ぎて行ったんだ」
そんな先輩の言葉に、ヒメがあからさまにほっとした表情を浮かべる。
まあ、いくら怖がる事が少なくなったと言っても、怖い事は怖いのだろう。
正直、私としてはまだまだ安心できる所にはないと思うのだけれどね……白装束どもの正体にはまだ辿り着いてないし。
「さて、謎の集団をやり過ごした少年だったけれど、彼は疑惑を抱いていた。一体彼らは何者だったのか、と」
「まあ、当然と言えば当然だと思いますけど……それを調べようと思ったと?」
「好奇心旺盛だったんだろうね。まあ、だからと言ってその連中に近付こうとは思わなかったみたいだけど」
そういって、先輩はちらりと嶋谷の方を見つめる。
好奇心云々に関しては先輩も人の事は言えないと思うけど……要するに、その少年とやらもこの二人のような性格だったんだろう。
怪異に突撃して行こうとしないだけ、まだ理性的だ。
常に見ない振りをしてやり過ごそうとする方が理性的と見るかどうかは、意見が分かれる所だろうとは思うけど。
「どう調べようかと考えていた少年は、白装束たちに関して一つだけ思い出した。それは、彼らの服装が妙に古臭かった事だ。それを元に、彼は歴史に詳しい先生に、その事を尋ねた」
古臭い格好をした怪異……いや、話の中だし、これは幽霊なのかしら。
微妙ではあるけれど、この際どちらでも構わない。
そいつ等の正体が一体何なのか―――そこで、この話の危険度が変わってくるのだ。
……まあ、赤黒い染みなんて付けてる時点で、真っ当な連中ではないと思うけど。
「少年の話を聞いた先生は、一つの話を彼に聞かせた。それは、この学校のあった場所が、かつて軍の研究施設の建っていた場所なのだという話だ」
「それは―――」
「非合法で、非人道的な隠された研究……骨の髄まで真っ当ではない、狂気の研究だったそうだ」
思わず、顔を顰めてしまう。
具体的な内容が思いつくわけでは無いけれど、先輩の言っていることは十分に理解できた。
成程、性質が悪い。話の上では直接的な被害が出ているわけでは無いけれど、もしも危害が及んだ場合の危険度は、他の怪異よりもよっぽど上だった。
今に始まった話では無いけれど、決して油断する事はできない。
「その先生は、最後にこう言ったそうだ。『もしもう一度出会うような事があっても、決して目を合わせてはいけない。彼らに捕まれば、どんな実験の材料にされてしまうか分からないからね』―――とね」
「最後にしっかりと危険性について述べてるのか……となると、どうやって対応すればいいのかだな」
「まあ、その辺りはそこのお姉さんに期待してるんだけど」
そう言って、先輩は桜さんの方へと視線を向ける。
って言うか、一応桜さんって先輩と同じ年齢だったと思うんだけど。
しかも結構小柄だから、むしろ先輩よりも年下にしか見えない……まあ、かなり落ち着いてるから仕草を見てると年上っぽく感じるけど。
そんな事を思いながら桜さんに視線を向けると―――桜さんは、私が予想もしていなかった表情を浮かべていた。
「さ、桜さん?」
「え……あ、うん、どうしたの、杏奈ちゃん?」
「いや、どうしたって言うか……」
桜さんは私が声をかけるまで、呆然とした表情でヒメの事を見つめ続けていたのだ。
何だろう、一体どうして、そんな表情を?
「えっと、次の怪異が結構厄介そうなんですけど、どうやって対応したらいいかなって……」
「ああ、うん。私が何とかできると思うから、また案内をよろしくね」
本当に、話を聞いていたのだろうか。
何となく不安になりつつも、桜さんの本来の実力を知っている私は、その言葉に素直に頷いていた。
それにしても……さっきの表情は、一体何だったのだろうか。
桜さんは、ヒメを見つめて一体何を考えていたのだろう。
「……やっぱり……と同じ……」
私の横を通り抜けて歩いてゆく桜さんが、小さく呟く声を残してゆく。
その意味を測りかねながらも、私は彼女の後を付いていったのだった。




