34:異次元の鏡
「本当にいいんだね、姫乃ちゃん?」
「……はい」
教員室前の廊下。既にと奥に見えている鏡の事をじっと見つめながら、ヒメは先輩の言葉に頷いていた。
第二の七不思議である『異次元の鏡』―――偽者の自分が現れるというその怪異は、凄まじく強い桜さんが当たるべきではないものだ。
もしも本物の桜さんが負けてしまうような事があれば、私達には手に負えなくなってしまう事が目に見えているのだから。
故に、今回は桜さんの手を借りると言う訳には行かない。私達の手で何とかしなければならないのだ。
「鏡の中から出てきた君は、君と全く同じ姿をしている存在。恐らく、君と同じぐらいの強さを持っている事だろう。そしてもし万が一負けるような事があれば、鏡の中に引きずり込まれて、二度と出る事は出来なくなる。
……それでも、やるんだね?」
「心配してくださってありがとうございます、先輩。でも、大丈夫です」
そう言って、ヒメは右手に携えていた竹刀を持ち上げる。
ゆっくりと持った刀は正眼へ。その刀身は揺れる事無くぴたりと静止し、それと共に周囲の空気が変化してゆく。
ぴしりと張り詰めた、緊張感に満たされた雰囲気。
それはまるで、朝の清浄な空気に満たされた神社の境内のようでもあった。
ヒメが精神を集中させた証―――その純粋な闘志が、周囲の雰囲気すら飲み込んでしまっているのだ。
「相対する事が出来るのが自分だけなら、私にやらせて欲しいんです」
鏡の中から出てきた自分に抵抗する事が出来るのは自分だけ―――先輩曰く、そういう決まりになってしまっているらしい。
恐らく、理由なんて無いんだろう。都市伝説なんてどれもこれも理不尽なものばかりなのだから。
それ故に、この話はヒメが適任であるのは確かだった。
「私は……皆を護りたい」
ヒメは、囁くようにそう口にする。
その言葉を聞き、私は小さく笑みを浮かべていた。
ヒメの強さは、精神性に強く左右される。護るべき仲間が自分の後ろにいる場合―――ヒメは、普段以上の力を発揮する事が出来るのだ。
自分が敗れれば私達に危険が及ぶ―――それが分かっているからこそ、ヒメは強い力を発揮する事が出来る。
皆を護りたいと願い、語るヒメの力。それは、今回だってきっと通じるものであった。
「だから、ここは私に任せてください」
「うーむ……まあ、姫乃ちゃんの実力はひきこさんの時に分かってるし、ある程度は安心か」
以前の事件でも、ヒメは怪異を相手に大立ち回りを演じていた。
見た目は可憐な美少女であるヒメがあんなド派手なアクションをしてたら、そりゃあ印象に残っている事だろう。
けれど今回の相手は自分自身―――私としても、やっぱり若干の不安は捨て切れなかった。
それでも、ヒメは真っ直ぐと前を向いている。
―――自分と戦う機会なんて、そうそう無いんだから。
ヒメは、笑いながらそう口にしていた。
都合のいい練習相手とでも言うつもりなのだろうか。
確かに持っている武器はただの竹刀で、即座に命の危険に繋がるような事は無いだろう。
それでも、やっぱり不安な事は不安だ。
「でも―――」
ちらりと、私は視線を横に向ける。
そこには、やっぱりヒメの後姿をじっと見つめている男二人の姿があった。
普段からあまりふざけたりはしない嶋谷は当然として、今はトモも。
心配で、不安で、けれど誰よりもヒメの事を知っているから止められない―――きっと、私と同じだろう。
だからこそ、二人もこう思っているはずだ。
―――ヒメなら、きっと大丈夫だ、と。
「……行きます」
構えを一度解き、ヒメはゆっくりと目を開く。
静かで張り詰めた空気は周囲に伝播して、怪奇現象が収まったのでは無いかと錯覚するほどに静謐な空気が立ち込める。
そんな中で、ヒメはゆっくりと前に進み出た。
見上げるほどに大きな姿見―――その正面へと。
『異次元の鏡』と呼ばれるそれは、随分昔にどこぞから寄贈されたものだ。
木の彫刻で出来た額縁は、ニスを塗り固めている為か光沢があるけれど、どこか経年を感じさせる重厚さがある。
昼間に見ればさぞ立派に見える事だろう。けれど、薄暗い廊下の中に佇む巨大な鏡は、どこか不安を感じさせるようなものへと変わっていた。
成程、怪談に利用されるのも分からなくは無い。
守衛さんなんかも、慣れてなかったら夜の見回りの時にびっくりする事だろう。
今は七不思議の事もあり、途方も無く不安を感じさせるものへと変わっている。
「……」
桜さんは、視線を細めながら身構えている。
出てきたものとは本人しか戦えない―――その話を聞いていなかった訳じゃないと思う。
けれど、いざとなったら私達全員を連れて逃げられるように……そのための準備をしているんだろう。
桜さんは、私に約束してくれた。全員をここから出してくれるって。
この人ならば、それを必ず護ってくれる。だから、今は―――
「ヒメ」
「ん、何、杏奈ちゃん?」
かける言葉に、一瞬だけ逡巡する。
けれど、そんなものは最初から決まっていた。
ヒメが望んでいた言葉が何なのか、何の為に強くなろうとしていたか……それぐらいは、理解していたつもりだから。
だから、私は背中を押す。
「頼りにしてるわ」
「……! うん、待っててね」
私達に護られないように、私達を護れるように。
護られているばかりの自分が嫌で、頼ってばかりの自分が嫌で、弱い自分を嫌悪して。
だからこそ強くなりたいと―――護って、頼られて、そんな強い自分でありたいと。
それがヒメの願いだって、知っていたから。
だから私は、ヒメを信じる。
―――そして、ヒメが鏡の前に立った、次の瞬間。
「―――ッ!」
パァンと、竹刀と竹刀がぶつかり合って、甲高い音を奏でた。
目に入ってきたのは異様な光景―――鏡の中から身を乗り出してきた人影が、まるで水面から飛び出すようにこちら側へと足を着け、横薙ぎに竹刀でヒメの首を狙っていたのだ。
申し分ないほどに速い、私も何度か見た事のある、ヒメの得意な一閃。
いづなさんが最初に教えて、そして今でも数え切れない程反復している、その一撃だった。
ああ、分かる。間違いない、これが―――
「来たよ、『異次元の鏡』……!」
先輩の言う、二つ目の七不思議なのだ。
鏡の中のヒメ―――偽者は遂に鏡の中から完全に姿を現し、ヒメと相対するように立っている。
その顔は無表情で、どこか機械的な印象を受けるものだった。
普段から感情豊かで、表情がコロコロ変わるヒメらしくないその顔は、遠目でも簡単に見分ける事が出来るぐらい分かりやすいものだった。
「本当に、私……ふッ!」
ヒメは偽者の竹刀を弾き返し、バックステップで距離を開ける。
それなりに広い廊下とは言え、竹刀を振り回して大立ち回りするには狭いと言わざるを得ない。
だからこそ、ヒメは廊下のど真ん中に陣取り、鏡から出てくる偽者を待ち構える。
姿形は本当に変化は無く、ただ若干の違和感を感じるその姿。
人間の身体は左右非対称で、鏡に映った姿はそれらが逆となる。
だからこそ、その姿はヒメそのものでありながら、若干の違和感を感じてしまうのかもしれなかった。
「……」
偽者は鏡の中から姿を現すと、ぐるりと周囲を睥睨し―――そして、にたりと嗤った。
その表情は、元となったヒメには決してありえざるもの。
「ッ……!」
「コイツ……ッ!」
トモが、僅かに苛立ったような声を上げる。
偽者が浮かべた表情は、まるで口の端が避けたかのような大きな笑み。
嘲笑い、飛び切りの害意に満たされたそれは、以前のひきこさんのそれのような酷く醜悪なものであった。
ふざけるな、と私は胸中で吐き捨てる。恐らく、トモも同じような心境なんだろう。
ヒメの顔で、ヒメの姿で、そんな汚い表情を浮かべてるんじゃ無い、と。
「ふふ、あはははははははは……!」
「喋った!?」
声を上げ、哄笑し始めた偽者に、笹原さんが驚愕の表情を浮かべる。
私としても、若干意外だった。最初の時のあの無機質な表情から、まるでただ動き回る人形のようなものだと思っていたのに。
どうやらこいつには意思が―――それも、私達に対する害意がしっかりと存在しているらしい。
そしてその偽者は、悪意に満ちた視線をヒメの方へと向けた。
「醜い、醜いなぁ……ッ!」
「っ!」
叫びながら、偽者は竹刀を振るう。
その剣速はとにかく速く、私も見ている事は出来ても反応する事は決して出来ないだろう攻撃だ。
あのインチキ臭いいづなさんの剣術を学んでいるのだから当然と言えば当然だけど、いざそれが敵に回ったとなると戦慄を禁じえない。
そんな偽者の攻撃は、同じぐらいに速く動く竹刀によって受け止められる。
相手の発する害意に眦を吊り上げながら、ヒメは相手の攻撃を押し返すと共に言葉と袈裟の一閃を放っていた。
「どういう、事っ!?」
「醜いものを醜いって言ったんだよ! 貴方の……私の心が醜いって!」
「な―――」
その言葉に、私は思わず絶句する。
空を斬る音すら置き去りに振り回される竹刀に脅威を感じない訳ではなかったけれど、その言葉は決して聞き逃せる事ではなかった。
何言ってんのよ、この偽者―――!
「皆を護りたい!? 皆を護れる機会がある事が嬉しい!? 皆を危険に晒しておいて嬉しいなんて、随分勝手な事が言えるよねぇ!」
「それは……くっ!」
偽者の放つ言葉に動揺したのか、ヒメの攻撃が一瞬鈍る。
危うく喰らいかけた攻撃を何とか弾き返したものの、ヒメはその言葉に対する返答は出来ないようだった。
確かに、ヒメはそう思っていたのだろう。
皆を護れるようになりたくて、その為に努力を重ねて、そしてその力が発揮される場所も手に入れた。
だからこそ、死地に飛び込んでいるようなこの状況を、嬉しいと感じてしまっていたのかもしれない。
―――けど、それは。
「貴方は自分本位なんだよ! 皆を護れればそれでいい……皆を護れる自分自身にのみ価値があって、その価値の発揮される場所が無くてはならない!」
「わ、私―――」
「貴方は、私は……ッ! 皆を護りたいんじゃない、皆を護れる自分でありたいんだ! そんな利己主義の心を醜いと言って、何が―――」
―――そこが、我慢の限界だった。
「悪いに―――」
「―――決まってんだろうがこのスカポンタンがァ!」
「……ッ!?」
堪忍袋の緒が切れた私とトモは、近くに置いてあった花瓶とその台を持ち上げ、ヒメと偽者の間に向かって投げつけていたのだ。
生憎と本人には通じないようだったが、それでも動きを止める事には成功する。
そしてそんな偽者に対し、私とトモはびしっと指を突きつけていた。
喉奥から飛び出してきたのは、好き勝手言ってくれやがった偽者に対する罵詈雑言だ。
「ヒメのそういう所は最初から承知してるに決まってんだろうが!」
「承知した上で付き合ってんのよ、悪い!? 第一その程度の面倒臭さだったら先輩の方がよっぽど面倒臭いわ!」
「……杏奈ちゃん、何気に酷くない?」
後ろで何か聞こえたけれど、目の前の相手に集中しているために聞き流してしまっていた。
私は偽者に……そして、それに対峙しながら目を見開いているヒメに叩きつけるように言葉を繋げる。
「第一ね、その程度の利己主義ならいいに決まってるでしょ! 実害無いし! 私の周囲には『自分のモノを誰にも奪われたくないから触ったらぶっ飛ばす』みたいな事言ってる人もいるのよ!?」
「そしてヒメに護られて何の文句があろうか!? あるとしたら兄貴として情けないという俺のプライドぐらい! 何が言いたいかと言うと俺の妹宇宙一可愛い!!」
後半トモの言葉が完全に戯言と化していたけれど、まあどうでもいい。
ヒメが気にする事なんて何も無いんだ。例え根本が自分の欲求だったとしても、やってる事に変わりは無い。
ヒメは私達を助けてくれて、だから私達もヒメを助ける。
必要な事実は、ただそれだけなのだ。だから―――
「ヒメ、やっちゃいなさい! 私達は皆で一緒に帰るんだから!」
「うん……うんっ!」
首肯と共に零れるのは、嬉しそうに弾んだ声。
そしてそれとほぼ同時に、ヒメの体は爆ぜるかのように移動していた。
挙動の最初を読む事の出来ない、極限まで無駄の省かれたその動き。
それは、これまでに見た中で最も、師であるいづなさんに近付いているものだった。
放たれる一閃もまた、限りなくいづなさんに近付き―――そして、その攻撃は、本人であるヒメにも防御できないものであった。
故に、偽者もそれを防御する事は叶わない。
「ぐ……がぁっ!?」
脇腹に突き刺さった一閃に偽者は呻き、そして間髪入れずに翻った足が、偽者の体を巨大な鏡へと叩きつける。
そして―――動きは全てが連動したまま、回転するかのように翻り、弾丸が装填されるかのように、竹刀は大上段に構えられた。
放たれる一閃は、鏡ごと斬り裂こうとするかのように―――
「―――月風!」
「がっ、あああああああああああああああああああああッ!!」
ヒメの持つ最大の攻撃力が、偽者に肩口から突き刺さり―――後ろにあった鏡ごと、その姿を粉砕したのだった。




