033_別れ(住む世界の違う二人)平民と貴族、1309字
街灯の代わりに、魔導具の淡い魔光が石畳を照らす王都の下町。
パン屋の娘である私は、小麦粉の染みついたエプロンをきつく握りしめ、路地裏の影で立ち尽くしていた。
私の恋人であるルーカスは、真面目な仕立て屋の見習い…… のはずだった。
「ごめん、サリー。今夜は親方の急な手伝いで、約束の時間に遅れそうなんだ」
昼間、ルーカスはそう言った。
でも、彼が「親方の仕事場」だと言った方向とは真逆の、貴族街へと向かう馬車に乗り込む姿を、私は偶然目撃してしまった。
しかも、仕立て屋の安月給では一生買えないような、上質な外套を羽織っていた。
これまでもそうだった。
ただの平民というわりに、彼の剣は騎士のようなきちんとした型だったし、この国では王族か高位の貴族しか使えないはずの魔法を使えるのも知ってる。私の誕生日に、どこで手に入れたのか、魔力が付与された指輪を贈ってくれた。
彼はいつも「ただの偶然さ」と優しく笑う。
私も、彼を失いたくないから、その言葉を信じたフリをしてきた。
けれど、夜遅くに帰ってきたルーカスの服からは、仕立て屋のアイロンの匂いではなく、貴族の晩餐会で使われるような高級な香水の香りが漂っていた。
「サリー、待たせてごめんね。これ、お土産の珍しいお菓子だよ」
ルーカスはいつものように、私を気遣い優しい瞳で微笑んで言った。
その手にあるのは、王室御用達と言われる高級菓子店の箱だった。
ルーカスは私を愛してくれている。それは嘘じゃないと分かる。
でも、彼の優しさに触れるたび、私の心は冷たくなっていく。
つじつまの合わないことに、だんだん疲れてしまった。
目の前にいる優しい彼は、本当はどこの誰なのだろう。
平民の私には決して届かない、遠い世界の住人なのではないか。
彼の嘘に付き合い、気づかない振りを続けることに、私の心は限界を迎えていた。
「ルーカス、もういいよ」
私は差し出されたお菓子の箱を受け取らず、静かに首を振った。
「サリー……?」
「そのお菓子も、あの綺麗な指輪も、私には勿体ないわ。……ねぇ、ルーカス。仕立て屋の見習いは、そんな高価な香水の匂いなんてさせないのよ」
ルーカスの顔から、すっと色が引いていく。その端正な顔立ちが、少し歪んだ。
「これは、その……違うんだ、サリー! 君を騙すつもりじゃなくて、俺はただ、君との平凡な時間を守りたくて──」
「私を守るための嘘なら、どうして私はこんなに苦しいの?」
彼が本当は高貴な身分の人なのだとしたら、私との恋は最初からおままごとだということだ。
ルーカスが私の手を取ろうと伸ばした手を、私はそっと拒絶した。
「さよなら、ルーカス。私は、身の丈に合った恋をするわ」
私はエプロンのポケットから、あの純銀の指輪を取り出して彼の手に握らせると、振り返らずにパン屋の勝手口へと駆け込んだ。
鍵を閉め、暗い厨房で一人座り込む。
涙が溢れて止まらなかったけれど、これでようやく、終わりの見えない嘘の迷路から抜け出せたのだと、どこかでホッとしている自分もいた。




