第5話「死を招く現場」
水曜日の朝、湾岸エリアの埋め立て地を叩いていた激しい雨は、昼前には小降りになり、やがて止んでいた。
巨大な物流倉庫の建設現場。
無機質な鉄骨の森の下、水たまりの中に、作業員の遺体があった。
坂本健太。
二十三歳。
孫請け(二次下請け)である零細建設会社の若き職長であり、真面目で責任感が強いと評判の青年だった。
「……即死か」
真壁凛は、湿ったアスファルトの上で遺体を見下ろした。
地上三十メートルの足場から転落。
ヘルメットは砕け、腰にはフルハーネス型の安全帯が装着されたままだった。
「フックはどこにも掛かっていませんでした」
所轄の刑事が報告する。
「現場の足場には親綱(命綱を掛けるロープ)がありましたが、彼はそれを使わずに作業していたようです。典型的な手順無視による事故ですね」
真壁は無言で足場を見上げた。
そこには真新しい親綱が張られている。
だが、彼女はすでに気づいていた。
雨上がりなのに、そのロープの芯だけが乾いていることに。
事故の後で慌てて張られた、隠蔽工作だ。
その時、真壁のスマホに一通のメールが届いた。
警視庁の公式サイト経由で送られてきた「匿名通報」。
『坂本くんは殺された。親綱なんて最初からなかった。彼は現場代理人の権田に脅されて、無理やり高所作業をさせられていた』
送信元は、フリーメールのアドレス。
だが、名指しされた「権田」という名前に、真壁は眉をひそめた。
*
午後、真壁は坂本健太の自宅アパートを訪れていた。
迎えたのは、婚約者の女性だった。
彼女は泣き腫らした目で、遺品となった坂本のスマートフォンを握りしめていた。
画面はひび割れ、電源が入らない状態だ。
「……健太は、ずっと悩んでいました」
彼女は震える声で語り始めた。
「元請けの『帝都建設』からの圧力が凄まじくて……。ここは地域の有力企業で、逆らえばこの業界で生きていけなくなると」
「帝都建設……一次下請けの会社ですね」
真壁は確認した。
大手ゼネコンの下で実質的な工事を取り仕切る、地場のボス企業だ。
「通報にあった『権田』という男は?」
「帝都建設の常務であり、この現場の責任者(現場代理人)です。でも、健太は言っていました。『あの人は名ばかりの代理人だ』って。人手不足だからって名前だけ登録して、実際には現場に来ず、健太のスマホに直接電話をかけてきては、『死んでも工期を守れ』『雨でもやれ』と怒鳴り散らすだけだったと」
名義貸しの現場代理人。
建設業法違反の疑いが濃厚だ。
しかも相手は、コンプライアンスなどお構いなしの荒っぽい会社。
「彼は、拒否できなかったのですか」
「うちのような孫請けの弱小企業が断れば、会社ごと潰されると脅されていました。彼は責任感が強かったから……仲間の生活を守るために、自分が危険な場所を引き受けていたんです」
真壁は唇を噛んだ。だが、死人に口なし。
会社側は「彼が勝手にやった」で押し通すだろう。
「悔しい……」
婚約者は唇を噛んだ。
「健太は、もしもの時のために記録を残していたんです。彼、言っていました。『言った言わないの水掛け論にされないように、指示は全部録音してある』って」
「録音?」
真壁は壊れたスマホを見た。
「このスマホにですか?」
「はい。かかってきた電話は通話録音アプリですべて保存していました。そして電話を切った後、すぐにボイスメモを起動して、補足情報を吹き込んでいたんです。『今のは権田常務からの電話。〇〇の件で違法な指示があった。日時〇月〇日』……って」
真壁は息を呑んだ。
それは単なる隠し録りではない。
相手の「生の声」に加え、前後の文脈を本人の声で解説した、完璧な業務日誌だ。
証拠能力は極めて高い。
「でも、スマホが壊れてしまって……それに、私にはどうすればいいのか……相手はバックに怖い人たちもいるような会社で……」
彼女は怯えていた。
地元の顔役でもある帝都建設。
その裏には暴力団の影も噂されている。
証拠を出せば自分も狙われるかもしれないという恐怖。
真壁は彼女の肩に手を置こうとした。
その時、彼女のスマホが鳴った。
非通知の着信。
しかし、彼女は画面を見て息を呑んだ。
画面に表示されていたのは、メッセージアプリの通知だった。
『クラウドストレージへのアクセスを確認。フォルダ名「業務記録」』
『データ同期完了。ファイル総数、412件』
「え……?」
彼女が震える指で画面をタップすると、ずらりと並んだ音声ファイルのリストが表示された。
『No.001』から始まり、最新の『No.412』まで。
そのすべてが、過去数ヶ月にわたって記録された、権田からの違法指示と坂本の悲痛なメモだ。
「400件以上……」
真壁はリストを見つめ、低い声で呟いた。
「ハインリッヒの法則だ。1件の重大事故の背後には、300件のヒヤリハットがある。……これだけの数の危険な指示が出されていたのなら、重大事故が起きるのは不運などではない。統計的な必然だ」
そして壊れたスマホからこのデータを引き出し、彼女に提示した「何者か」。
奴だ。
真壁は直感した。
あの「透明な処刑人」が、すでにこの事件の「バグ」を見つけ、トリガーを引く準備を整えている。
*
夕方、真壁は帝都建設の本社ビルに乗り込んだ。
豪奢だが、どこか成金趣味の悪さが漂う自社ビル。
応接室で対峙したのは、常務の権田と顧問の唐沢(元警察参事官)。
「しつこいな、真壁くん」
唐沢は不快そうに眉をひそめた。
「労基署も警察も『事故』で処理を進めている。君だけだよ、騒いでいるのは」
唐沢。
かつてのエリート官僚が、なぜこんな地方の建設会社にいるのか。
噂通りこの会社が暴力団と繋がりがあるなら、その「警察封じ」の用心棒として天下ったのだろう。
腐りきっている。
「新たな証言があります」
真壁はハッタリをかけた。
「坂本さんは生前、権田常務からの電話をすべて録音していました。さらに通話直後に詳細なメモも吹き込んでいます。そのデータが存在します」
権田の眉がピクリと動いた。
叩き上げ特有の荒っぽい顔つきに、焦りの色が浮かぶ。
だが、唐沢は動じない。
「ほう?では、そのデータを聞かせてくれたまえ。……まさか、現物もないのに言っているわけではないだろうね?」
真壁は言葉に詰まった。
データは婚約者の手元にある。
だがまだ提出はされていない。
唐沢はその隙を見逃さなかった。
「証拠がないなら、それは妄想だ。それに、彼がサインした『安全誓約書』がある以上、法的には会社に責任はない」
唐沢は冷徹に言い放つ。
「警察と同じだ。書類が全てだよ」
その時、権田の秘書が部屋に入ってきて、何やら耳打ちをした。
権田の顔色が変わる。
「……なんだと?ネットに『内部告発』の書き込みが増えているだと?」
匿名通報だけではない。
坂本の同僚たちが、あるいは何者かが仕掛けたボットたちが、SNSで騒ぎ始めているのだ。
『帝都建設の権田常務による人殺し』
『証拠音声があるらしい』
「……唐沢さん」
権田が焦ったように時計を見た。
「例の件、予定を早めましょう。マスコミが嗅ぎつける前に」
「ああ。それがいい」
唐沢は真壁に向き直り薄く笑った。
「残念だが時間切れだ。権田常務はこれから、ロンドン視察へ出発する。向こうでのプロジェクトが難航していてね、陣頭指揮が必要なんだ」
逃げる気だ。
録音データの存在が公になる前に海外へ高飛びし、ほとぼりが冷めるのを待つ。
その間に唐沢の人脈と裏社会のルートを使って証拠を揉み消し、婚約者に圧力をかけるつもりだ。
「……行かせると思いますか」
「止められるかね?逮捕状もないのに」
唐沢は勝ち誇ったように言った。
「我々は正規の手続きで出国する。法は我々の味方だ」
*
本社ビルを出た真壁は、激しい雨の中、拳を握りしめた。
法は彼らを守る。
書類が完璧である限り、そして決定的な証拠(録音データ)が警察の手に渡っていない今、彼らの出国を止める術はない。
だが。
スマホが震えた。
画面には見知らぬ地図アプリが起動し、成田空港へのルートと、あるフライト便名が表示されていた。
『NJ401便ロンドン行き19:30発』
『搭乗者:権田剛』
『状態:チェックイン済み』
そして画面の下部に一行、メッセージが浮かび上がった。
『証拠データNo.1〜No.412、共有設定完了。開示まであと60分』
真壁は息を呑んだ。
姿なき処刑人は、婚約者を守りながら、同時に権田たちを追い詰めている。
膨大な録音データをいきなりばら撒くのではなく、まずは「あるぞ」と匂わせて敵を動かし、逃げ場のない「空の密室(空港)」へと誘導したのだ。
「……追うぞ」
真壁はパトカーに乗り込んだ。
「成田へ向かう。権田常務を見送ってやる」
逮捕するためではない。
彼らが自らの作り上げたような「冷徹なシステム」によって、どのように裁かれるのかを見届けるために。
(第5話完)
第3部「追跡者の校正」をお読みいただきありがとうございます。
本作に至るまでの「修正」の記録を、以下のアーカイブよりご確認いただけます。
■ 第1部:『マニュアルキラー』
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
設備屋として潜伏する織部悟。彼は、社会の誤植(悪意)を赤ペン一本でデバッグする「伝説のエディター」だった。すべての始まりとなる第1シリーズ。
■ 第2部:『マニュアルキラー Ⅱ —校正なき改竄—』
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
論理パズルを愛する男・三谷と、システムを免罪符にする「ルール」との死闘。織部が「仕様」を悪用する巨悪をいかにして葬ったかを描く、緊迫の第2シリーズ。




