第3話「ナイフと炎上」
火曜日の昼下がり大通りの交差点は悲鳴とシャッター音に包まれていた。
「天誅だ!社会のゴミめ、死んで償え!」
血走った目をした男が叫びながら馬乗りになっている。
その下でスーツ姿のサラリーマンが血まみれになって呻いていた。
腹部に深々と刺さったサバイバルナイフ。
アスファルトに広がる赤黒い水たまり。
だが真壁凛が現場に到着したとき最も異様だったのは犯人でも被害者でもない。
それを取り囲む「観衆」たちだった。
誰も止めに入らない。
誰も止血しようとしない。
AEDを探して走る者は一人もおらず、誰もが一一九番ではなくスマートフォンの録画ボタンを押している。
まるで映画のワンシーンを撮影するように、無機質な好奇心だけがレンズの向こうで蠢いている。
「どけ!警察だ!」
真壁の怒号でようやく「壁」が割れた。
真壁は犯人の男の手首を捻り上げ、ナイフを蹴り飛ばした。
男は抵抗しなかった。
むしろ達成感に満ちた顔で地面に頬を押し付けられながら笑っていた。
「見ただろ?俺がやってやったんだ。正義を執行したんだ!」
確保された男の名は島田。
無職二十八歳。
刺された被害者は、小俣。
四十二歳、会社員。
現在は意識不明の重体。
捜査一課による取調室で、島田は悪びれる様子もなく語り始めた。
「あの男は犯罪者ですよ。電車で痴漢をして、示談金で揉み消そうとしたクズだ。SNSで全員がそう言ってる」
「全員?」
真壁は冷ややかに聞き返した。
「お前は現場を見たのか。被害者が痴漢をした証拠を持っているのか」
「『ギロチン』が言ってたんです!あの暴露系インフルエンサーが、証拠のDMも晒してた。住所も顔写真も特定されてた。だから俺が代表して罰を与えたんだ!」
ギロチン。
登録者数二〇〇万人を超える正体不明の暴露アカウント。
ここ数日被害者の小俣氏はその標的になっていた。
真壁はサイバー犯罪対策課の刑事が差し出したタブレットを覗き込んだ。
そこに並ぶギロチンの投稿は、吐き気を催すほど巧妙だった。
『この痴漢オヤジ、反省の色ゼロらしいな。被害者の女の子が可哀想すぎる』
『住所は言えないけど、背景に映ってるこの公園、〇〇区の海岸沿いに似てない?w』
『近所の人からDM来た。「毎日怯えて暮らしてます」だって。誰か安心させてやれよ(物理)』
「……なんだこれは」
真壁の声が震えた。
断定はしていない。
「似ている」「誰か」「(物理)」というネットスラングで濁している。
だが、その行間には明確な殺意の誘導がある。
「こいつなら攻撃してもいい」というお墨付きを与え、島田のような愚か者の背中を押したのだ。
「調べてみましたが……」
サイバー課の刑事が、苦々しい顔で告げた。
「痴漢の事実は確認できませんでした。被害届も出ていないし、そもそも小俣氏はその日、出張で遠方にいた。完全な冤罪、いや、捏造です。ですが、被害はすでに深刻でした」
刑事は資料をめくり、沈痛な面持ちで続ける。
「小俣氏の自宅には、連日着払いの荷物が届き、玄関には『性犯罪者』とスプレーで落書きがされていました。それだけじゃない。娘さんの通う小学校には『犯罪者の子供を辞めさせろ』という匿名電話が殺到していたそうです」
「娘にまで……」
「小俣氏は精神的に追い詰められ、今日、退職届を出すために会社へ向かう途中でした。そこを襲われたんです」
島田の顔から血の気が引いていく。
「嘘だ……だって、みんなが叩いてた。コメント欄も『殺せ』って……」
「お前が刺したのは、無実の人間だ」
真壁は机を叩いた。
「ネットの噂を鵜呑みにして、家族を守ろうとしていた父親を殺そうとした。それがお前の『正義』の正体だ」
島田は泣き崩れた。
だが真壁の胸にあるのは、目の前の実行犯への怒りだけではない。
安全圏から石を投げさせ、高みの見物を決め込んでいる「扇動者」への激しい憤りだった。
*
捜査会議室の空気は重かった。
傷害事件として実行犯の島田は逮捕された。
だが事件の根本原因である「ギロチン」については、捜査の手が止まっていた。
「アカウントの特定は難航しています」
サイバー課の係長が、スクリーンを指し示す。
「接続サーバーは海外の多重プロキシを経由。運営者情報は秘匿。投稿内容は巧妙に断定を避けており、『疑惑がある』『タレコミが来た』という伝聞形式を取っています」
「殺人教唆にはならないのか」
真壁が食い下がる。
「あのアカウントは、被害者の住所を直接書いてはいない。背景写真から『特定班』と呼ばれるフォロワーが勝手に特定しただけだと言い逃れできる構造です。煽りについても、表現の自由の範囲内と主張されれば、名誉毀損や侮辱罪が関の山でしょう」
「名誉毀損だと?人が一人、殺されかけたんだぞ!」
「ですが、それが今の『仕様』です、警部」
サイバー課の言葉は正論だった。
実行犯は捕まる。
だがそのナイフを持つ手を操った「言葉」は、法の網をすり抜ける。
ギロチンは今も、新たな投稿を続けている。
『今回の刺傷事件について、遺憾の意を表します。当チャンネルは暴力を推奨していません。全てはリスナーの暴走です』
その投稿には、数万件の「いいね」が付き、広告収入がチャリンチャリンと彼(あるいは彼女)の懐に入り続けている。
「……胸糞悪い話だ」
真壁は会議室を出て、自動販売機の前に立った。
小俣氏は一命を取り留めたが、後遺症が残るかもしれない。
会社には居られなくなるだろう。
ネット上のデジタルタトゥーは、彼が死ぬまで消えない。
法は、傷ついた肉体しか見ない。
破壊された尊厳や、人生そのものの殺害については、あまりに無力だ。
「ここが限界か」
缶コーヒーのプルタブを開ける音だけが、廊下に響く。
真壁は、あの「透明な処刑人」のことを思い出していた。
もし彼なら、この理不尽をどう見るだろうか。
法が裁けない仕様の穴を突いて人を殺す卑劣な扇動者を、ただの「バグ」として処理するのだろうか。
その時、廊下の向こうからサイバー課の捜査員が慌てた様子で走ってきた。
「警部!ちょっと来てください!」
「何だ、ギロチンの身元が割れたか?」
「いえ、逆です。……いや、なんて言えばいいのか。彼の配信で『放送事故』が起きています」
真壁は捜査員と共にモニターの前へ戻った。
そこに映っていたのは、ギロチンの生配信画面だった。
いつもなら派手なテロップと加工音声で埋め尽くされている画面が、今は真っ黒な背景に変わり、無機質なウィンドウが次々とポップアップしている。
「ハッキングか?」
「いえ、外部からの侵入形跡はありません。これは……OSの『ユーザー補助機能』と、配信ソフトの『画面共有設定』が競合して、デスクトップ画面が勝手にミラーリングされているようです」
画面の中でマウスカーソルが動いていた。
だがそれは人間が操作するような有機的な動きではなかった。
最短距離を一定の速度で一切の迷いなく移動する直線的な軌道。
「……違う」
真壁はモニターに手を伸ばした。
「これは事故じゃない。そして、人間でもない」
カーソルは正確に「隠しフォルダ」を開き、そこにある「捏造素材」「裏帳簿」「扇動マニュアル」といったファイルを次々と展開していく。
まるで間違った文章を赤ペンで修正していくかのような、冷徹な事務作業。昨日のストーカー事件で見せつけられた、あの完璧すぎる処理と同じ匂いがする。
「止めろ!配信を止めさせろ!」
サイバー課の係長が叫ぶ。
「これは公開処刑だ!警察が見ている前で、私刑を許すわけにはいかない!」
「できません!」
部下がキーボードを叩きながら悲鳴を上げる。
「正規のログイン手順を経ているので、サーバー側からは『本人の操作』と認識されています。強制切断するには裁判所の令状が必要です!」
「くそっ……!」
係長が拳を机に叩きつけた。
「止めたいさ!だが止める手段が法の外にしかない!俺たちが法を守るほど、あいつが燃えるのを手助けすることになるのか!」
真壁は、ただ画面を見つめるしかなかった。
法の手続きを守れば、この暴走は止められない。
そして止めなければ、あの扇動者が積み上げてきた嘘と悪意は、彼自身が作り出したネットの炎によって焼き尽くされる。
その時、画面の隅でダイアログが一瞬だけ瞬いた。
サブリミナル映像のように、まばたきする間に消え去った文字列。
『correction_start(校正開始)』
真壁は目をしばたたいた。
今のは見たのか。
それとも自分の願望が見せた幻覚だったのか。
だが事態は確実に次のフェーズへ移行していた。
「……『事故』は終わった」
真壁は呟いた。
モニターの中で膨大な量のファイルが次々と開かれていく。
「ここからは、処刑の時間だ」
(第3話完)
第3部「追跡者の校正」をお読みいただきありがとうございます。
本作に至るまでの「修正」の記録を、以下のアーカイブよりご確認いただけます。
■ 第1部:『マニュアルキラー』
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
設備屋として潜伏する織部悟。彼は、社会の誤植(悪意)を赤ペン一本でデバッグする「伝説のエディター」だった。すべての始まりとなる第1シリーズ。
■ 第2部:『マニュアルキラー Ⅱ —校正なき改竄—』
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
論理パズルを愛する男・三谷と、システムを免罪符にする「ルール」との死闘。織部が「仕様」を悪用する巨悪をいかにして葬ったかを描く、緊迫の第2シリーズ。




