第7話 王国の傷跡
翌朝。
夜の名残を残した森には、薄い朝靄が漂っていた。
アティシアは焚き火の跡に土をかぶせ、靴底で何度か踏み固める。
赤い火種が残っていないことを確かめてから立ち上がると、荷物を背負った。
吐く息が、朝の冷たい空気に白く溶けていく。
「行こうか」
「はい」
二人は再び街道へ出た。
昨夜まで歩いていた道を、そのまま南へ進んでいく。
街道といっても、王都周辺のように石畳が敷かれているわけではない。
何度も馬車が通ったことで固く踏み締められた土の道が、丘陵の間を縫うように続いている。
しばらく歩いたところで、アティシアは隣へ目を向けた。
「ねぇ、リゼ」
「はい」
すぐに返事が返ってきたが、アティシアは少し間を置いた。
「……リゼ」
「はい」
「リゼ」
「はい」
「ふふっ」
とうとうアティシアは堪えきれず、笑いがこぼれた。
リゼがこちらを向く。
表情そのものはほとんど変わっていない。
ただ、わずかに首を傾げている。
「……?」
その仕草が余計におかしくて、アティシアは口元を押さえた。
「何でしょうか」
「いや。ちゃんと返事するんだなって思って」
「名前を呼ばれた場合、返答するものだと教わりました」
「そうだけど」
アティシアは前を向く。
朝露に濡れた草が風に揺れ、その向こうを小鳥が飛び立っていった。
昨日まで、彼女を呼ぶための言葉はなかった。
——No.017。そう呼ぶことならできた。
研究者も兵士も、皆そう呼んでいた。
けれどアティシアには、どうしてもそれが彼女の名前だとは思えなかった。
人を識別するために割り振られた数字。
それは名前というより、物につけられた番号のように思えたからだ。
けれど今は違う。
「リゼ」
「はい」
呼べば、振り向いてくれる。
たったそれだけ。それだけのことなのに、胸の奥がほんの少し温かくなる。
自分が与えた名前が、少しずつ彼女自身のものになっていくような気がした。
「アティシア様」
「ん?」
今度は自分が呼ばれ、振り向くとリゼがじっとこちらを見ていた。
「なぜ笑っているのですか?」
「なんでもない」
「そうですか」
「うん」
リゼはそれ以上追及しなかった。
また前を向き、歩き始める。
その横顔を眺めながら、アティシアは小さく笑った。
二人の足音が、朝の街道に重なって響く。
そんな穏やかな時間が続いたのは――昼を過ぎる頃までだった。
✴︎
「……村?」
丘を越えたところで、アティシアは足を止めた。
眼下に、小さな集落が見える。
十数軒ほどの家々が、街道から少し外れた場所に寄り集まるように建っていた。
畑もある。小さな井戸らしきものも見えた。
煙突から細い煙が上がっている家もある。
人が暮らしている。
城を出てからまともな集落へ立ち寄っていなかったアティシアの表情が、わずかに明るくなった。
「今日はあそこで休ませてもらおうか」
「はい」
「食料も少し分けてもらえるといいんだけど」
アティシアは歩調を速め、丘を下っていく。
しかし、村へ近づくにつれ、その足取りは次第に鈍くなっていった。
「……何、これ」
最初に目に入ったのは、一軒の焼け落ちた家だった。
屋根はない。壁も半分以上崩れ、炭のように黒く焦げた柱だけが空へ伸びている。
火事でもあったのだろうか。
そう思って周囲を見る。
だが、一軒だけではなかった。
隣の家は壁の一部が崩れ落ちている。
さらに奥の建物には、小さな穴がいくつも穿たれていた。
道端には、朽ちかけた木材や瓦礫が積み上げられたままになっている。
畑もところどころ荒れ果て、雑草に覆われていた。
何年も経っているはずなのに、傷だけがそのまま残されている。
「火事……?」
「違います」
隣に立つリゼが答えるなり、アティシアが振り向く。
リゼは崩れた壁を見ていた。
「戦闘による破壊の痕跡です」
「戦闘……」
その言葉を聞いた瞬間、さっきまで穏やかだった景色がまるで別のものに見えた。
アティシアは焼け焦げた家を見上げる。
ここで、人が暮らしていた場所で戦いがあった。
「こんなところで……?」
二人はそのまま村へ入った。人影はある。
けれど、妙に静かだった。
道端で籠を編んでいた老人が、二人を見るなり手を止める。
洗濯物を取り込んでいた女性は、アティシアの腰にある剣へ目を向けた途端、傍らの幼い子供を背中へ隠した。
別の男は何も言わず、家の中へ入って扉を閉める。
歓迎されていない。
それだけは、はっきり分かった。
「……なんだろう」
アティシアは声を潜める。
「私たち、そんなに怪しく見えるかな」
「武装しています」
「あ……」
言われて、自分の姿を見下ろす。
腰には剣。背中には弓と矢筒。
隣にいるリゼも、旅人にしては隙のない立ち姿をしている。
「確かにそうね」
アティシアは慌てて外套を引き寄せ、腰の剣を覆い隠した。
そのときだった。
「旅の者か」
低い声が飛んできた。
振り向くと、一人の老人が立っていた。
痩せた身体を杖で支え、深く刻まれた皺の奥から二人を警戒するように見つめている。
「はい」
アティシアはできるだけ柔らかい表情を作った。
「少しだけ休ませてもらえませんか? 水も分けていただけると助かります」
老人は答えなかった。
アティシアを見て、次にリゼを見る。
その視線は、二人が何者なのかを探るようだった。
「……どこから来た」
「それは……」
アティシアの喉が詰まる。
――王都から来たことを言えるはずがない。
一瞬だけ考えてから、答えた。
「北の方から」
「北……」
老人の目が細くなる。
そして、低い声で尋ねた。
「アルヴェリアの者じゃないだろうな」
「え?」
心臓が跳ねた。
反射的に背筋が強張る。
老人に気づかれないよう、アティシアは外套の下で拳を握った。
「……どうしてですか?」
問い返した瞬間、老人の表情が険しくなった。
「この辺りで、その国の名前を簡単に口にするもんじゃない」
「どうして……」
老人は何も答えず、二人に背を向ける。
「水なら井戸を使え。それ以上は何もない」
「あ……ありがとうございます」
アティシアは慌てて頭を下げた。
老人は振り返ることなく去っていった。
遠ざかっていく背中を見送りながら、アティシアは眉を寄せる。
「……アルヴェリアを嫌ってる?」
「その可能性があります」
「でも……」
その先の言葉が続かなかった。
理解できない。
アルヴェリア王国軍は、人々を守るために存在している。
幼い頃から父にそう教えられてきた。
騎士達も同じことを言っていた。
王国が領土を広げるのは、大陸に秩序をもたらすため。
軍が剣を取るのは、力なき民を守るため。
だからアティシア自身も剣を学んだ。
弓を引いた。戦場に立った。
――王族は国を守る盾であれ。
父の言葉を信じてきた。
「何か事情があるのかな」
自分に言い聞かせるように呟く。
けれど、胸の奥に生まれた小さな引っかかりは消えてくれなかった。
✴︎
村の中央にある井戸から水を汲む。
滑車が軋み、桶が水面へ落ちる音がした。
アティシアが水筒へ水を移していると、不意に背後から声が飛んできた。
「姉ちゃんたち、旅人?」
「ん?」
振り返ると、日にに焼けた少年が、少し離れたところからこちらを見ていた。
十歳くらいだろうか。
「うん、旅人だよ」
「どこ行くの?」
「まだ決めてないの」
「ふーん、なるほどね」
「ええ」
アティシアが笑うと、少年も少しだけ笑った。
ようやく普通に話してくれる人と会えた。
そう思った、そのとき。
少年の視線がアティシアの肩越しへ動いた。
「それ、弓?」
「うん」
「兵士なの?」
「違うよ」
アティシアはすぐに首を横に振って答えると、少年の顔から笑みが消えた。
「……よかった」
「え?」
その声には、心から安堵したような響きがあった。
「アルヴェリアの兵士だったら嫌だから」
アティシアの指が止まった。
まただ。
「……どうして、アルヴェリアの兵士が嫌なの?」
少年は黙り込む。
さっきまでこちらを見ていた目が、地面へ落ちた。
「何かされたの?」
「……父ちゃんが死んだ」
少年の言葉を受けて、アティシアの表情から笑みが消えた。
「戦争で?」
アティシアの問いに少年は小さく頷いた。
「アルヴェリアの兵士に殺されたって、母ちゃんが言ってた」
「…………」
水の滴る音だけが聞こえた。
ぽたり、ぽたり。
桶から落ちた雫が、井戸の縁を濡らしていく。
何か言わなければ。
そう思うのに、言葉が出てこない。
「余計なことを話すんじゃない」
先ほどの老人の声だった。
少年の背後からこちらを険しい顔つきで見ている。
「じいちゃん……」
「家に戻れ」
少年は俯いたまま駆け出した。
小さな少年の背中が家々の間へ消えていく。
アティシアとリゼが少年の姿を見送ってから暫くの沈黙が流れた後、老人は静かに口を開く。
「三年前、この辺りは戦場になった」
老人は淡々と言った。
その視線が、村の外れにある焼け落ちた家へ向けられる。
「アルヴェリア軍が進軍してきた。敵軍が村に潜伏していると言ってな」
「でも……民間人には避難命令が出されたはずです」
考えるより先に、言葉が出ていた。
老人の目がアティシアへ向く。
「……ずいぶん詳しいな」
「それは……」
しまったと思い、アティシアは一瞬だけ視線を逸らした。
「旅の途中で、聞いたことがあって」
「避難命令か」
老人は乾いた笑いを漏らした。
笑っているはずなのに、その目には何の感情も浮かんでいない。
「逃げる時間なんぞ、どこにあった」
「……え?」
「兵士が来たときには、もう村を囲まれていた」
老人が杖を握る手に力を込める。
「あの家も、向こうの畑も、全部、あの日に焼かれたんだ」
老人は焼けた家や、荒れ果てた土地を見た。
アティシアは何も言えない。
「抵抗した者は殺された」
「そんな……」
「俺の息子夫婦も死んだ」
アティシアの脳裏に先ほどの少年の顔が浮かび、胸の奥が重くなる。
「王国軍は……」
それでも、口から言葉がこぼれた。
「民を守るために戦っているはずです」
老人の目が鋭くなる。
「誰の民を守るんだ?」
「……え?」
予想していなかった問いだった。
「俺たちは、あの国の民じゃなかった」
老人はアティシアを真っ直ぐ見つめた。
「それだけの話だ」
胸の奥を、何かで強く突かれたような気がした。
「王国が守るのは、王国の人間だけだ」
反論しようとした。
けれど、できなかった。
目の前には焼けた家がある。
父親を失った少年がいる。
そして、自分の息子夫婦を失った老人がいる。
王都の講義で聞いた言葉ではなく。
自分自身の目で見てしまった。
老人は背を向ける。
「待ってください」
アティシアは咄嗟に呼び止めた。
「そのとき……王国軍は、どんな部隊を?」
「知らん」
老人の足が止まる。
しばらく沈黙したあと、老人は振り返らないまま続けた。
「ただ――妙な連中がいた」
「妙な?」
「子供みたいな兵士だ」
その瞬間、隣にいたリゼの指先がぴくりと動いた。
「感情もなく、人間とは思えない動きで戦っていた」
老人の声が低くなる。
「撃たれても怯まない。仲間が死んでも顔色ひとつ変えない」
「…………」
「王国の連中は、そいつらを兵器と呼んでいた」
そこで初めて、アティシアは隣を見た。
リゼは動かなかった。
焼け落ちた家を、じっと見つめている。
「リゼ……?」
名前を呼んでも返事がない。
「どうしたの?」
数秒の沈黙の後、リゼの唇が動いた。
「……この場所を知っています」
「え?」
「正確には、この周辺地域の戦闘記録が記憶されています」
いつもの平坦な声だった。
けれど、アティシアには、なぜかいつもと違って聞こえた。
「三年前。南西部制圧作戦」
リゼは淡々と続ける。
「作戦開始時刻、午前五時四十分。兵器部隊は先行部隊として投入され―― 私は、この地域に投入されました」
アティシアの呼吸が止まった。
「……リゼが?」
「はい」
老人がゆっくりと振り返る。
その目がリゼを捉えた。
「お前……」
リゼは老人を見る。
逃げることも、誤魔化すこともしなかった。
「敵戦力及び抵抗勢力の排除を命じられました」
「リゼ……」
「作戦中に排除した人数は――」
「もういい」
アティシアがそう言っても、リゼは続けようとする。
「確認されているだけで――」
「もういいって!」
アティシアの声が村に響いた。
リゼの口が閉じる。
アティシア自身、自分がなぜこれほど強く止めたのか分からなかった。
聞きたくなかったのか。
リゼに言わせたくなかったのか。
それとも、数字として語られる死者の中に、目の前の老人の家族が含まれているかもしれないと考えるのが怖かったのか。
老人は何も言わない。
ただ、リゼを見る目が明らかに変わっていた。
警戒、恐怖。そして――怒り。
「……この村から出ていってくれ」
「待ってください。この子は――」
「出ていけ」
短い言葉だった。
だが、それ以上何かを言うことは許されないような響きがあった。
アティシアは唇を噛む。
「…………」
弁解したかった。
リゼは命令されただけだと。
兵器として作られ、戦場へ送り込まれただけなのだと。
けれど、それを、家族を奪われた人間に言って何になるのだろう。
「……分かりました」
アティシアは頭を下げた。
それ以上、何も言えずにリゼと共にその場を後にした。
✴︎
二人は村を離れた。
夕暮れの街道を、並んで歩く。
西へ傾いた太陽が二人の影を長く伸ばしていた。
風が草原を渡る。
普段なら、アティシアが何か話しかけている。
どうでもいいことを聞いたり、リゼの返事がおかしいと笑ったり。
けれど今日は言葉が出てこなかった。
頭の中で、いくつもの光景が繰り返されている。
焼け落ちた家、荒れ果てた畑。
自分を見て子供を隠した母親。
父親を失った少年。
そして——
『誰の民を守るんだ?』
老人の声が、何度も蘇る。
父から教えられた王国。自分が信じていた軍隊。
今日見た村。その三つが、どうしても同じものとして結びつかなかった。
「アティシア様」
背後から名前を呼ばれ、アティシアは足を止める。
「……何?」
振り返ると、リゼが数歩後ろに立っていた。
「私は、多くの人間を殺しました」
夕日を背にしたリゼの表情は読み取れない。
「さっきの村の人間を殺した可能性もあります」
「……うん」
アティシアは否定できなかった。
「私は人を殺すために作られました」
淡々としたいつもと同じ声。
そう思ったときだった。
アティシアの視線が、リゼの手へ落ちる。
握り締められた指先が、わずかに震えていた。
ほんの僅かな震え。
本人さえ気づいていないのかもしれない。
「私を助けたことを、後悔していますか?」
「してない」
アティシアは即答した。
今度はリゼが目を見開く。
「でも私は――」
「それは、リゼが選んだことじゃない」
「……」
「殺したかったの? 自分でここへ来たいって言った? 自分で戦いたいって言った?」
「……いいえ」
「だったら、全部あなたのせいにはできないよ」
リゼの視線が下がる。
少しの沈黙の後、リゼは口を開いた。
「ですが、殺したのは私です」
「……そうだね」
アティシアは否定しなかった。
命令だった。選択肢がなかった。
だからといって、起きたことまで消えるわけではない。
誰かが死んだ事実も。
残された人が苦しんでいる事実も。
なかったことにはできない。
「だから簡単にリゼは何も悪くないなんて、私には言えない。でも」
アティシアは一歩、リゼへ近づいた。
「これから何をするかは、リゼが選べる」
「私が……」
その言葉を確かめるように、リゼが呟く。
「もう命令されてないでしょう?」
アティシアはその瞳を真っ直ぐ見つめた。
「誰かを傷つけたくないなら、傷つけなくていい」
「……そんなことが可能なのですか?」
「分からない」
「分からない?」
「うん」
アティシアは困ったように笑った。
「私だって、分からないことだらけだから」
そう言って歩き出そうとしたが、ふと、自分の右手が目に入った。
剣を握ってきた手。弓を引いてきた手。
王国のために戦ってきた手。
「それに私も、人を殺したことがある」
アティシアは自身の手を見つめたまま呟いた。
そんなアティシアの言葉にリゼが顔を上げる。
「国を守るためなら正しいんだって、ずっと思ってた」
戦場で敵兵を射った。剣を振るった。
敵を倒せば褒められた。
王国を守ったのだと教えられた。
自分も、それを疑わなかった。
けれど、焼け落ちた家を見た。
父親を失った少年と話した。
息子を奪われた老人から、自分の国の名を憎むように吐き捨てられた。
初めてだった。戦争を、勝った側ではなく。
踏みにじられた側から見たのは。
「……私も知らなきゃいけないのかもしれない」
「何をですか?」
アティシアは顔を上げて、遥か先へ続く街道を見る。
「私が生きてきた国が、外の世界で何をしてきたのか」
王城から見えていたアルヴェリア王国は、美しい国だった。
白い城壁。整然とした街並み。
市場を行き交う人々。誇り高い騎士達。
けれど、城壁の外から見たアルヴェリア王国は違うのかもしれない。
自分は、そのことを何も知らない。
「行こう、リゼ」
「どこへ?」
「まだ分からない」
アティシアは再び歩き始める。
数歩進んでから、リゼを振り返った。
「だから、見に行くの」
「……はい」
少し遅れて、リゼが歩き出す。
やがて二人の歩幅が重なった。
二人の背後では、夕日に染まった村が少しずつ遠ざかっていく。
焼け落ちた家々は、三年経った今もそこに残されていた。
誰にも消すことのできない、戦争の痕跡として。
それは、王女として城の中で育ったアティシアが初めて目にした—— 自分の国が、誰かの故郷に残した傷跡だった。




