第50話 白百合の隣に立つ流れ者
王城の白は、人の噂をよく映す。
石壁。
回廊。
薄く光を返す床。
それらはどこまでも整っていて、何も汚れていないように見える。
だが実際には、そこで交わされる囁きほど厄介なものはない。
セレスティア・ルミナス・アルヴェイン第二王女は、その日の午後、外宮の奥にある小さな閲覧室で一人、書簡の束を見ていた。
王都ギルドの不正会計。
非公認流通。
慈善名目の資金洗浄。
地下市場と西区画の裏邸宅。
それらを王城の正式議題へ上げたことで、王城の中は静かに揺れている。
大声で反対する者はまだ少ない。
だが、誰もが落ち着かない。
それは侍女の足音や、役人の書類の持ち方や、回廊で立ち話する者たちの間の沈黙で分かる。
王都の上流とはそういうものだ。騒ぐ前に、まず空気が変わる。
「殿下」
エリザが静かに入ってくる。
「何ですか」
「王妃派の年長侍女が二人、外宮の玄関側で長く立ち話をしていました。内容までは拾えておりませんが、“あの男”という言葉が何度か」
「……あの男、ですか」
「はい」
「私ではなく?」
「はい。殿下ではなく、です」
セレスティアは視線を紙束から上げた。
あの男。
今の王城で、その呼び方だけで通じる相手は一人しかいない。
水戸龍真。
地下市場を壊した流れ者。
王都西区画の裏邸宅へ踏み込み、黒帳簿を奪った異物。
獣人を庇い、下町を歩き、王女の近くに立つ黒髪の男。
王城の者たちは、彼の名を表で軽々しく口にしない。
だが、だからこそ別の呼び方で噂し始めている。
「広がっているのですね」
王女が小さく言う。
「はい」
エリザは少しだけ迷ったあと、正直に続けた。
「社交筋でも、王城内でも。“殿下が黒髪の流れ者を側に置いている”という話が、ここ数日でかなり」
「……」
「公爵派が意図して流している可能性が高いと見ています」
セレスティアは怒らなかった。
驚きもしない。
むしろ、来るべきものが来たという静かな顔だった。
「当然ですね」
「殿下」
「地下市場だけなら、まだ“偶発的な騒動”として片づけられたでしょう。ですが今は違う」
セレスティアは窓の外を見る。
外宮の庭。
白百合。
穏やかな風。
そんな景色の向こうで、王城の中は確かにざわついている。
「彼が私の近くにいる限り、王都の者たちは“これは偶然ではない”と理解する」
「はい」
「そして、それを嫌がる者ほど、彼の方を危険視する」
「……はい」
エリザが答える声は、少しだけ重かった。
セレスティアはそこで立ち上がる。
「龍真殿は?」
「本日は下町と王都ギルド周辺を動いておられます。王女側の調査役としてではなく、あくまで私的に」
「分かっています」
「お呼びになりますか」
「ええ」
王城の白が、今日に限って少しだけ冷たく感じられた。
その頃、龍真は王都の下町と商会街の境目あたりを歩いていた。
隣にはエレオノーラ。
少し後ろにリリィ、ミア、ノア。
カティアは今日は別口で動いている。上流で広がる噂の流れと、その出どころを見に行っているのだ。
王都ギルドの末端が崩れ始めている。
伝票係、雑務係、保管補助。
上が切る前に逃げる者、怯えて黙る者、誰かへ紙を渡して命乞いしようとする者。
そういう人間が少しずつ見え始めている。
だから龍真たちは、今日も町側を歩く。
だが、歩いていると嫌でも分かる。
視線の種類が変わってきた。
下町の視線は、以前よりましだ。
獣人の子を庇った、地下市場を壊した、あの流れ者。
そういう見方の中に、少しずつ“こっち側かもしれない”という期待が混じり始めている。
だが王都の中心へ近づくほど違う。
値踏み。
警戒。
妙な好奇。
そして――噂を知っている目。
「見られてるね」
ミアが小さく言う。
「ああ」
龍真が答える。
「なんか前より露骨じゃない?」
「前は“地下市場を壊したやつ”だったからでしょう」
エレオノーラが言う。
「今は、“王女殿下の近くにいるやつ”です」
「うわぁ……」
リリィが顔をしかめる。
「そっちの方が面倒そう」
「実際そうです」
エレオノーラの声は落ち着いている。
だが、その落ち着きの中に少しだけ苛立ちが混じる。
「王都では、“何をしたか”より“誰の隣にいるか”で危険度を測られることがあります」
「胸くそ悪い理屈だな」
龍真が言う。
「ええ」
「でもたぶん、それだけじゃないよ」
ノアが静かに言った。
全員の視線が向く。
「何がだ」
龍真が聞く。
「王女様の隣にいる、ってだけじゃなくて」
ノアは少し言葉を選ぶ。
「“王女様がこの人を側に置いた”って見え始めてるんだと思う」
「……」
「つまり、龍真さん自身がもう“ただの用心棒”とか“偶然助けた人”じゃなく見えてる」
「それ、嬉しくはないな」
リリィが呟く。
「ええ。でも強いわ」
エレオノーラが答えた。
その通りだった。
龍真が王女を助けた。
それだけなら恩人だ。
だが、助けたあとも王城へ出入りし、王女側の動きと連動して町で動いている。
そうなればもう、王都の人間には“王女の白百合の隣に立つ流れ者”として見える。
そしてそれは、公爵派や王妃派、中立派にとっても意味を持つ。
使えるか。
危険か。
消せるか。
誰が彼を抱き込むか。
そういう見方が始まるのだ。
宿へ戻ると、入れ違いでカティアが来ていた。
「ちょうどよかったわ」
「何かあったか」
龍真が聞く。
カティアは外套を脱ぎもせず、椅子へ腰を下ろす。
「社交界がうるさい」
「いつもじゃねえのか」
「今日のは質が違うの」
その声には、本気の疲れがあった。
「今日だけで三つの茶会と一つの寄付会で、“王女殿下のそばにいる黒髪の男”の話を聞いたわ」
「多いな」
「ええ。しかも、ただの噂じゃない。“あの男はどこの家の庇護なのか”“侯爵家は関わっているのか”“王女殿下は何を考えているのか”って、話が完全に広がってる」
「俺本人の話ってより、王女様との繋がりの話か」
「そう。あなた個人だけなら、ただの危険人物で済む。でも今は違う。王女の近くにいることで、“政治の意味”がついてしまってる」
「面倒だな」
「本当にね」
リリィが恐る恐る聞いた。
「で、でも……悪いことばっかりですか?」
「どういう意味?」
カティアが見る。
「その、たしかに嫌な噂ですけど……でも、王女様の隣にいるって思われてるなら、逆に“王女様が本気で動いてる”って証明にもなってるんじゃ」
「……」
カティアは一瞬黙って、それから苦笑した。
「本当に最近、時々いいこと言うわね」
「時々は余計です!」
「でもそうよ。そこは正しい」
彼女は肘をつき、少しだけ真顔になる。
「王都の上流が本当に怖いのは、“王女殿下が地下市場の件をなかったことにせず、そのうえ黒髪の流れ者まで使って動いている”と見えてきたこと」
「使ってる、ねえ」
龍真が鼻を鳴らす。
「言い方はどうでもいいのよ。上流はそう見てる」
ノアが静かに頷く。
「つまり、王女様が本気だってことが、龍真さんの存在で伝わってる」
「ええ」
カティアは言う。
「そして同時に、龍真が“ただの流れ者”では済まなくなっている」
その時、宿の表で馬車が止まる音がした。
女将が二階へ顔を出す。
「王城からだよ!」
またか。
そう思う前に、全員が立っていた。
今日の王城からの使いは、一人だった。
だが顔を見て、カティアが少しだけ息を呑む。
「……あれは王女殿下付きの近習長ね」
「偉いのか」
龍真が聞く。
「ええ。かなり」
男は一礼し、短く言った。
「水戸龍真殿。殿下がお会いになりたいと」
「今すぐか」
「できれば」
龍真は少しだけ考えたが、断る理由はない。
「行く」
「助かります」
王城外宮の小庭で、セレスティアは一人で待っていた。
白い衣ではない。
今日は薄青の上衣に、王族らしい控えめな銀糸。
それでも、彼女の周囲だけ空気が静かに張っている。
「来てくれてありがとう」
「用件は」
「単刀直入ですね」
「王都の人間みてえに回りくどくする気はねえ」
「そういうところ、少し羨ましいわ」
王女はほんの少しだけ微笑んだ。
だが、その目は真剣だった。
「あなたがいると、王城の者たちが怯えます」
「そうか」
「もう少し反応があってもよくないかしら」
「怯えるなら勝手に怯えりゃいい」
「……そう言うと思っていました」
セレスティアは庭の白百合へ目をやる。
「でも、それは私にとって悪いことばかりではありません」
「どういう意味だ」
「王城の中の者は、“外から本気で崩される”可能性を現実として感じた時に初めて動きます」
「……」
「あなたは、それを彼らに思い出させる」
龍真は少しだけ黙った。
白百合。
王女。
王城。
王都の秩序。
そこへ、自分という黒い異物が立つことで、ようやくこの国の上の連中は“何もしないでは済まない”と感じ始める。
「便利に使う気か」
龍真が聞く。
セレスティアは首を振った。
「使う、というより」
「より?」
「……頼っている、に近いかもしれません」
その言葉は、王女としてはかなり踏み込んでいた。
龍真はそれを受けても、顔色を変えない。
だが、返す声は少しだけ低かった。
「王女様」
「何でしょう」
「一人で抱え込むな」
「……」
「王城の中で何考えてるか知らねえが、脅しも来てる、内通もいる、上流も騒いでる。なのにあんたが一人で全部背負う話なら、俺は嫌いだ」
「……嫌い、ですか」
「ああ」
セレスティアは少しだけ目を見開いた。
王族としてではなく、一人の人間として心配されることに、まだ慣れていない顔だった。
「私は、王女です」
「知ってる」
「なら、背負わなければ」
「背負うなとは言ってねえ」
「では」
「一人で全部やるなって言ってる」
その言葉は、不思議なほど庭の静けさによく響いた。
セレスティアはしばらく何も言わなかった。
風が白百合を揺らす。
遠くで、水音が小さく鳴っている。
やがて王女は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……それは、命令ですか」
「違う」
「忠告?」
「それでもねえ」
「では?」
「ただの文句だ」
セレスティアはそこで、小さく笑った。
「変わった方」
「今さらだろ」
「ええ。今さらですね」
王女は龍真を真っ直ぐ見た。
「でも、覚えておきます」
「そうしろ」
「あなたがそこまで言うなら」
「王都の連中より、よっぽど素直で助かる」
「それ、褒めているのかしら」
「半分くらいは」
「半分しかないのですね」
「王都だからな」
その返しに、セレスティアはまた少しだけ笑った。
王女が笑うのは珍しいことなのかもしれない。
だがその笑みは一瞬で消え、代わりに静かな決意が戻る。
「龍真殿」
「何だ」
「これから先、私の隣に立つことで、あなたはもっと敵を増やします」
「だろうな」
「それでも」
「今さら引かねえよ」
「……そうですか」
「白百合の隣だろうが何だろうが、筋の通らねえ話を相手にするだけだ」
「本当に、そういう方ですね」
王女は小さく頷いた。
白百合の隣に立つ流れ者。
その噂は、王都の上流でこれからもっと大きくなるだろう。
それは龍真にとって嬉しいことではない。
だが、同時に王女セレスティアの本気を、王城にも貴族街にも知らしめるものにもなる。
そしてそれは、もう後戻りのできない関係が、静かにでき始めているということでもあった。




