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第47話 流れ者、王都の敵になる

 王都西区画の夜は、崩れる時も上品な顔をしていた。


 表通りへ出れば、屋敷街は相変わらず整っている。

 灯りは柔らかく、石畳はよく磨かれ、行き交う馬車の車輪音すら静かだ。

 けれど、その整った夜の下で、裏邸宅の地下から人が救い出され、黒帳簿が奪われ、流通責任者が縛り上げられている。


 見た目は変わらない。

 だが中身は、確かに崩れ始めていた。


 邸宅の裏手から離脱した龍真たちは、二手に分かれて動いていた。


 エレオノーラ、リリィ、ノアが先行し、保護した少女たちとウィレム・サーグ、それに黒帳簿と裏記録の束を、安全な引き渡し地点へ運ぶ。

 王女セレスティア側の近衛と、王城からの非公式な回収役がそこで待っているはずだった。


 ミアとカティアは少し遅れて、通りの気配を見ながら後を追う。

 龍真だけが最後尾に残り、追手が来るならそこで止めるつもりだった。


 王都の敵を相手にするというのは、こういうことだ。


 地下市場の私兵や裏邸宅の護衛を倒して終わりではない。

 外へ出てからも、追跡、口封じ、証拠の奪還、その全部があり得る。

 そして、公爵家ほどの大物なら、それをやる手も早い。


 案の定、追手は来た。


 西区画から商会街へ抜ける手前、細い石橋を渡るあたりで、龍真は夜風の中に混じる足音を聞き取った。


 多くはない。

 だが軽くもない。

 表の護衛ではなく、完全に“追うため”の足だ。


「来たか」


 龍真が低く呟くと、少し先を歩いていたミアがすぐに振り返った。


「何人?」

「後ろ四、横二」

「え、けっこういる」

「王都だぞ。けっこうで済めば安い」

「それ、全然安心できない言い方なんだけど!」


 カティアが表情を変えずに言う。


「数より質が問題よ。公爵家が“今夜のうちに取り返したい”と思うなら、雑兵はよこさない」

「そうだろうな」


 龍真は橋の手前で立ち止まった。


「ミア」

「うん」

「先行組に追いつけ。今夜の本命は帳簿と保護した連中だ」

「でも――」

「行け」

「……わかった!」


 ミアは歯を食いしばったが、迷わず走った。

 以前の彼女なら、ここで龍真の横に残ったかもしれない。

 だが今は違う。自分の役目が何かを理解している。


 ノアとエレオノーラ、それにリリィへ追いつけば、そちらの守りも厚くなる。

 正しい判断だ。


 カティアは残った。


「私は?」

「好きにしろ」

「冷たいわね」

「王都の上流の顔を知ってるのはお前だ」

「つまり、ここで逃げた人間の顔を見ろってこと?」

「そうだ」


 カティアはほんの少しだけ口元を歪めた。


「やっぱりあなた、そういうところはちゃんと使うのね」

「使えるもんは使う」

「嫌いじゃないわ」


 追手はすぐに姿を見せた。


 黒装束ではない。

 かといって正規兵でもない。

 上等だが地味な外套に、短めの剣、投げ具、そして腰の位置に隠された符号。

 公爵家の私設実働部隊。

 表へは出せないが、失敗も許されない仕事に使う連中だ。


 先頭の男が、龍真を見て歩みを止める。


「水戸龍真」

「知ってる顔で助かる」

「今夜の働き、少々派手すぎたな」

「てめえらにゃちょうどいい」

「そうか」


 男は感情を乗せない。


「だが、その帳簿は返してもらう。保護した人間もだ」

「断る」

「断られる前提で来ている」


 次の瞬間、左右から同時に動いた。


 橋の手前、石壁に挟まれた細道。

 広くない。

 だがそれは龍真にとって不利ではなかった。


 村正が抜かれる。


 夜の灯りの中で、刃だけが冷たく光る。

 最初の一人が上から来る。

 受けない。流す。半歩ずれ、切り返しで肘。剣が落ちる。

 二人目は下段から膝を狙う。踏み込みで潰す。柄頭が鼻梁を砕く。

 三人目は投げ具。細い刃の光。村正の峰で弾く。


「本当に面倒だな」

 龍真が低く言う。


 敵の連携はいい。

 地下市場の私兵より洗練されている。

 裏邸宅の護衛より躊躇がない。

 “帳簿だけでも取り返せばよし”という雑な命令ではなく、“ここで龍真ごと潰す”つもりで来ているのが分かる。


 龍真は一歩前へ出る。


 橋を渡らせない。

 細道の中央を取る。

 それだけで、後ろの先行組との距離が稼げる。


「あなた、王都の敵になりますよ」

 先頭の男が淡々と言った。


「もうなってるだろ」

「ええ。今夜で完全に」

「だったら何だ」

「この先、王都では生きづらい」

「知るか」

「後悔します」

「してから言え」


 そのやり取りの途中で、カティアが壁際から小さく息を呑んだ。


「……来た」


 通りの向こう、少し開けた場所にもう一台馬車が止まっている。

 家名を出してはいない。

 だが従者の立ち方、御者の腰の低さ、その全部で分かる。


 公爵家本流に近い使いだ。


「本当に公爵家側が直で回してる……」

 カティアの声が低くなる。

「顔、見えた?」

 龍真が問う。

「ええ。表へ出ない執事筋。慈善晩餐会にもいた男よ」

「上出来だ」


 そう言っている間にも、敵は止まらない。


 四人目が後ろから回り込もうとした瞬間、龍真の背が熱を持った。


 閻魔。


 刺青が脈打つ。


 赤黒い威圧が夜気に滲む。

 橋の手前の石畳に、目に見えない圧が落ちる。


「……っ!」

 私設実働部隊の一人が、ほんの一瞬だけ足を止めた。


 それで十分だった。


 龍真は一気に間合いを詰める。

 村正が閃き、二人の剣を同時に外へ逸らす。

 そのまま体ごと中へ入り、一人を肩で弾き飛ばし、もう一人の首筋へ柄を叩き込む。


 倒れる。

 残る二人も、威圧の中では半歩遅れる。


「こういう連中、ほんと好きだな」

 龍真が言う。

「何がだ」

 先頭の男が息を詰めながら問う。

「脅して、追って、数で囲って、“王都のためだ”って顔するやつ」

「実際、王都のためだ」

「その王都が腐ってるって話だろうが」


 龍真の声は、もはや怒鳴りでもなかった。

 冷えた怒りだけが残っている。


 その時、遠くで鐘が鳴った。


 今度は王城のものではない。

 王都の夜警が鳴らす、区画警戒の鐘だ。

 しかも一つではない。西区画と、その外縁で連続して鳴っている。


 エレオノーラたちが、引き渡し地点に辿り着いたのだろう。

 王女側が動いた。

 表の反撃が、ついに始まった。


 追手の顔色が変わる。


「……遅かったか」

 先頭の男が低く呟く。

「何が」

「帳簿の回収だ」

「だろうな」


 龍真は村正の切っ先を下げない。


 敵はまだいる。

 だが、向こうももう理解したはずだ。

 今夜の奪還は失敗した。

 黒帳簿は王女側へ渡った。

 裏邸宅も、地下市場も、もう“なかったこと”にはしにくい。


 男はゆっくりと後退した。


「水戸龍真」

「何だ」

「今夜で、お前は王都の敵だ」

「さっきも聞いた」

「地下市場を壊した時点では、まだ余地があった」

「そうかよ」

「だが公爵家の本流にまで手をかけ、黒帳簿を王女側へ渡した以上、もう後戻りはない」

「だったら」

 龍真が低く返す。

「最初から戻る気なんざねえよ」


 男はそれを聞き、初めて感情のない目を少しだけ細めた。

 敵を見る目だ。

 値踏みではなく、排除対象を見る目。


「……そうか」

「帰って伝えろ」

「何を」

「筋の通らねえ話は、もっとでかくぶっ壊すってな」


 数秒の沈黙。

 そして、敵は引いた。


 無理に続けても意味がないと判断したのだろう。

 帳簿はもう遠い。

 王都の警戒鐘も鳴っている。

 今ここで龍真を殺しても、今夜の流れは止められない。


 カティアが橋の脇から姿を見せる。


「……本当に引いたのね」

「取り返せねえって分かったんだろ」

「それだけじゃないわ」

「何だ」

「あなたを“今夜ここで仕留めるには代償が大きい”とも判断した」


 それは褒め言葉ではない。

 だが、事実だ。


 龍真は村正を納める。


 カチリ、と鯉口が収まる音が、夜の石壁に小さく響いた。


 しばらくして、エレオノーラたちと合流した。

 彼女の鎧の肩には新しい傷が増えていたが、顔は強かった。


「引き渡しは済みました」

「黒帳簿は」

「王女殿下側の最奥へ」

「保護した人たちは?」

「安全な場所へ移しました」

「リリィ」

「あります……!」


 彼女は半泣きのまま、複製用に急いで抜き写した符号一覧まで抱えていた。


「黒帳簿の写しも最低限取れました! あと、会談記録の一部も!」

「上出来だ」

「ほんとに上出来ですか!? 私、今、手がまだ震えてるんですけど!」

「震えててもやることやっただろ」

「……それは、はい」


 ミアが小さく笑う。


「リリィ、強くなったね」

「強くなりたくてなったわけじゃないです……」

「でも強いよ」

「……ありがと」


 ノアはそのやり取りを見てから、静かに言った。


「これで、公爵家は完全に私たちを排除対象にした」

「ええ」

 カティアが頷く。

「地下市場の時はまだ、“危険な流れ者”で済んでいた。でも今夜で変わった」

「どう変わる」

 龍真が聞く。


 カティアははっきりと言った。


「王都の大貴族に真っ向から牙を剥いた敵よ」


 その言葉を、誰も否定しなかった。


 そして翌朝。


 王都の空気は、また少し変わっていた。


 表向きはまだ、大きな告発は始まっていない。

 だが、王都ギルド上層部の一部が事情聴取名目で押さえられた。

 ロートベル商会の複数の倉庫が封じられた。

 慈善晩餐会に出入りしていた名代たちの動きも、明らかに鈍っている。


 王女セレスティアは表の場で、これまでより一段だけ強い声を出し始めた。

 いきなり公爵家を名指しにはしない。

 だが、“王都の秩序のために、非公認流通と不正会計を徹底的に洗うべきです”という形で、静かに刃を入れ始めている。


 王都の派閥図が、わずかに揺れる。


 そしてその揺れの中心にいるのが、黒髪の流れ者――水戸龍真だと、もう上流の連中も気づいている。


 《三つ足カラス亭》の二階。

 朝の光の中で、セレスティアからの短い書簡を読み終えた龍真に、エレオノーラが言った。


「ここから先は、王都の争いでは済まないかもしれません」

「そうか」

「公爵家が地方領主や商会を使って外からも圧をかけてくる可能性があります」

「だろうな」

「それでも」

「行くぞ」


 龍真は短く言った。


 迷いのない声だった。


「王都だろうが地方だろうが、筋の通らねえ話を相手にするだけだ」

「……」

「なら、もっとでかく筋を通す」


 その一言で、部屋の空気がぴたりと定まる。


 王女。

 女騎士。

 侯爵令嬢。

 獣人姉妹。

 元受付嬢。

 そして流れ者。


 奇妙な一家は、もう王都の下町だけに収まる存在ではなくなっていた。


 流れ者、王都の敵になる。


 それは脅しではない。

 公爵家側から見た、正確な現実だった。

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