第26話 王女、闇の中に消える
王都の地下は、地上よりよほど息苦しかった。
空気が悪いわけじゃない。
むしろ換気は妙に行き届いている。古い石造りの天井にいくつも細い通気孔があり、湿気も煙も一定以上はこもらないように作られていた。
それが余計に胸くそ悪い。
人を売るための場所が、こんなにも“使いやすく”整えられている。
地方の倉庫みたいな場当たりの隠れ家じゃない。ここは最初から、長く、静かに、効率よく、人を流すための施設だ。
龍真は古い石柱の陰に身を潜めたまま、地下会場の最奥を見ていた。
壇上。
客席。
檻。
商品控えの石室。
会計机。
警備の巡回。
全部が見えているわけじゃない。だが十分だ。
王都の闇オークション本拠地。
その言葉に見合うだけの規模と洗練が、今まさに目の前にあった。
地方で攫われた者。
王都の下町で消えた者。
借金で売られた者。
孤児。
獣人。
亜人。
その全部がここへ集められ、値踏みされ、金の流れに乗せられていく。
龍真の怒りは、もう声にも顔にも出ていなかった。
出す段階を過ぎている。
今はただ、いつ斬り込めば一番多くを壊せるか、それだけを測っている。
その時だった。
奥の方から、いつまで経っても鳴らなかったはずの鐘が、一度だけ高く鳴った。
地下の空気が変わる。
ただでさえ静かだった客席が、さらに静まり返る。
会計台の役人どもが姿勢を正し、護衛の配置まで少し変わった。檻の近くにいた見張りの二人が、売り場を離れて奥の石室側へ移る。
何かある。
しかも、かなり大きい。
エレオノーラが龍真の真横で小さく囁いた。
「……警備が寄った」
「ああ」
「売り場じゃなくて奥。やはり、あの“特別枠”に動きがあります」
「だろうな」
その少し後ろでは、ミアとノアが互いの顔を見合わせていた。
「また、あそこ……」
「うん。みんな、見ないようにしてる」
姉妹が見ている先は、他の檻や商品控えとは明らかに空気の違う一角だった。
石室が三つ並んでいる。
一つは帳簿や高額商品の保管庫らしい。
もう一つは護衛の詰所。
そして最後の一つだけが、異様だった。
鍵が二重。
前に立つ見張りの質が違う。
それなのに、誰もその部屋へ正面から視線を向けない。
“見てはいけないものがある場所”の空気だった。
その異様さを、カティアもまた感じていた。
彼女は少し離れた上流客寄りの通路から戻ってきて、龍真たちの影へ滑り込むように身を寄せる。息は乱れていないが、目がいつも以上に張っている。
「客席の質が変わったわ」
「どう変わった」
「さっきまでいた連中は、金で買う側の人間だった。でも今入ってきたのは違う。“確認しに来た側”よ」
龍真が目を細める。
「確認?」
「ええ。商会主でもなければ、地方領主の使者でもない。もっと上。王都の中枢に近い連中」
「家名は分かるか」
「顔を隠している者が多い。でも、二人ほど見覚えがあった」
カティアは低く言った。
「一人は宮廷財務局に出入りする書記官。もう一人は、王妃付きの侍女筋と繋がっている老執事」
「……王家寄りか」
「そう。だから嫌なの」
彼女の声は、本気で嫌悪していた。
「ただの裏市場なら、貴族と商会の腐敗で済む。けれど王家筋の人間がここへ“確認”に来るとなると、話が別になる」
「既に別だろ」
「ええ、だからこそよ」
リリィが帳面を胸に抱えたまま、おそるおそる訊いた。
「その……もしかして、本当に王族関係者が……」
「関係してる可能性は高いわ」
カティアが答えるより早く、奥の石室側でまた動きがあった。
白い上着を着た商会役人が二人、護衛を三人引き連れて石室前へ現れる。
さらにその後ろから、別格の衣装をまとった男が出てきた。
派手ではない。だが布地も仕立ても、ここにいる誰よりいい。
顔は半分隠している。だが周囲の人間がその男へ向ける緊張だけで、立場の高さが分かった。
「……あれ、代理人筋じゃない」
エレオノーラが小さく言う。
「もっと近い。公爵家の本流側に近い人間です」
「ゼルヴァインか」
「おそらく」
男は石室前に立つと、護衛へ短く言った。
「鍵を」
「は」
「手荒な真似はするな。今はまだ“価値”を保て」
「……はっ」
その言葉に、全員の背筋へ冷たいものが走った。
価値。
人一人に向ける言葉じゃない。
だが、ここではそれが普通に使われている。
石室の鍵が開く。
重い鉄の擦れる音。
中からは光が漏れない。
だが、一瞬だけ、白い布の裾のようなものが見えた。
そして――
「おやめなさい」
女の声がした。
澄んだ、強い声。
怯えきった悲鳴とは違う。
震えてはいる。だが、芯がある。命乞いより先に、自分の尊厳を守る方を選ぶ声だった。
カティアの目が見開かれる。
「……まさか」
石室の中に立っていたのは、若い女だった。
顔の半分は影に隠れている。
だが、衣装の質が違う。
王都貴族の令嬢とも違う。もっと静かな格がある。
白を基調にした簡素な衣。飾りは少ないのに、そこから逆に隠しきれない品が滲む。
しかも、その周囲の護衛の態度。
粗末に扱わない。
だが敬意もない。
“丁重に扱うべき獲物”を見る目だ。
カティアが、ほとんど息だけで言った。
「……嘘でしょう」
「知ってる顔か」
龍真が低く問う。
彼女はすぐに答えなかった。
いや、答えられない顔だった。
「顔ははっきり見えない。でも……立ち方が、違う」
それは、いかにも王都の上流で育った人間の見方だった。
服や装飾だけじゃない。
立ち居振る舞い、首の角度、指の動かし方、それで育ちを見分ける。
「王族の教育を受けた人の立ち方よ、あれは」
その言葉が落ちた瞬間、場の重さが変わった。
ミアが耳をぴんと立てたまま固まる。
ノアは息を呑み、リリィは帳面を抱える腕に力を入れた。
エレオノーラの顔色も、はっきり変わる。
「王族……」
「少なくとも、王家にごく近い女性」
「あるいは」
「……王女殿下本人」
カティアが言い切った。
その時、石室の前の男が、護衛に低く命じた。
「今夜はまだ表へ出すな。上と確認が済むまで、特別扱いを維持しろ」
「しかし、“白百合”は次の催しの目玉と……」
「口を慎め」
男の声が冷える。
「名を出すな。たとえ地下でもだ」
「し、失礼しました」
白百合。
帳面にあった“特別商品・白百合”の符号。
王家の女性に繋がる隠語。
そして今、その符号で呼ばれる存在が、石室の中にいる。
偶然では済まない。
「……王女が、潜ってたのか」
龍真が低く言う。
エレオノーラがわずかに顔をしかめる。
「可能性はあります。王女殿下はもともと、公の場よりも現場を見たがる性格だという話もある」
「なら、密かに調査へ入った?」
「あり得なくはない」
カティアが言う。
「王都の表で“体調不良”という曖昧な噂が流れていたのも、その不在を隠すためなら辻褄が合う」
「だが、そのまま消えた」
「もしくは、潜った先で捕まった」
ノアが静かに続ける。
どちらにせよ、最悪だった。
王女が自ら闇市場の調査へ入り、そのまま姿を消した。
あるいは王族関係者が何者かに攫われ、地下の特別商品として囲われている。
どちらの形でも、この地下市場はもう“下町の失踪事件の延長”ではない。
王都の中枢へ手が届く。
いや、すでに届いている。
リリィが震える声で言う。
「これ、もう……私たちだけで抱えていい話じゃないですよね」
「抱えるかどうかの段階は過ぎてる」
龍真の返答は静かだった。
「王都の守備隊に知らせる? 宮廷に密告する? それとも証拠を持って一度引く?」
エレオノーラが矢継ぎ早に選択肢を並べる。
冷静であろうとしているのが分かる。
だが、その声の奥には迷いがあった。
相手は王女かもしれない。
動けば、王都全体を巻き込む。
動かなければ、その王女が商品として売られるかもしれない。
そんな場面で、冷静さを保ちきれる方が異常だ。
龍真は石室の方を見たまま、しばらく黙っていた。
石の扉は再び閉められた。
白い裾も、あの声も、今はもう見えない。
だが、一度見ちまったものは消えない。
地方の娘たち。
下町で消えた獣人。
孤児。
借金で売られた女たち。
そこへ王女まで積まれるとなれば、もうこれは闇市場の問題じゃねえ。王都そのものの病巣だ。
「龍真さん……」
ミアが不安そうに呼ぶ。
龍真は、ようやく口を開いた。
「もう黙っていられる段階じゃねえな」
その声は大きくない。
だが、場にいた全員の腹へ重く落ちた。
エレオノーラが目を閉じ、それから開く。
「……ええ」
「やるぞ」
「はい」
「……分かった」
「やるしかないわね」
「こ、怖いですけど、やるしかないです……!」
ミア、ノア、カティア、リリィ。
全員の答えが返る。
決戦。
その言葉を誰も口にはしない。
だが、一家の空気はもうそこへ向いていた。
王都の地下。
闇オークション本拠地。
その最奥に、王族関係者――最悪の場合、王女本人――が囚われている。
なら、ここから先はもう、様子見でも、静かな潜入でもない。
王都の闇へ、本気で刃を入れる時が来たのだ。




