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身の入らないピアノの稽古中の紫乃に「三条忠正様がお見えです」と家政婦が声を掛けた

紫乃が応接室に顔を見せると、忠正が例の如く無表情なまま頭を下げた。倣う様に会釈をし、ガラステーブルを挟みソファに腰を下ろす。傍で家政婦がお茶の準備をしており、忠正はなかなか本題に入らない。


「…貴明さんはお元気ですか」


そんな事を問われると思っていなかった忠正は一瞬、答えに窮した。目の前に座る紫乃は相変わらず凛としている。心を乱した様子もない。この隙の無さが当初、紫乃を - 過ぎた女だと - 疑ったきっかけだった。

年の割に落ち着いていて、大して面識の無い貴明に想望している様な視線が、忠正の疑り深い性質を刺激したのだ。


だが数ヶ月が経つに連れ、貴明も忠正もその憂いを取り払った。紫乃の貴明に対するものが、純粋に彼女の優しさからくるものだと理解したからだ。

多忙の貴明を案ずる態度や言葉、何よりも貴明に対する紫乃の瞳は何時だって柔らかく慈愛に満ちていた。


もし此れが『偽り』だったとしても、其れでも構わないとまで言わしめる程、紫乃の存在は貴明と忠正の中で大きくなり始めていた。

忠正の本日の訪問も三条の秘書、ではなく、貴明の友人として馳せ参じたものだった。


忠正は家政婦が下がると、テーブルに額をぶつけんばかりに頭を勢いよく下げる。

「っ、お、お止め下さい! 三条さんっ」

「貴明が、紫乃さんに藤原家に大変不誠実な態度を取りました事、深くお詫び申し上げます。今日はわたくしだけ、こうして伺いましたが後日、紫乃さんのご都合の良い時に貴明も話がしたいと申しておりました」


紫乃は席を立ちテーブルを回って、忠正の傍に屈み込むと彼の肩に手を置き力を入れた。


「三条さん、お詫びなどっ」


だが紫乃のか弱い力に屈する事なく、忠正は首を垂れたままだ。


「困りますっ」


強く吐かれた声に忠正は面を上げ、直ぐ傍に在る紫乃に視線を合わせた。未だ二十四歳だと言う彼女は、色香とはかけ離れているのだが、捉えて離さないような双眸の篤実さは有った。晶子の様な強かさは無い、だが、弱くない。


「…失礼ながら、紫乃さんはどうしてそんなに寛容でいられるのですか…」


プライドの無い人間なんて居ないだろう。

けれど、紫乃は殊貴明に関しては、対応が甘すぎる。貴明になら何をされても平然としていられる、そんな風に受け取れるのだ。


「誰に対しても、貴女はそうなのですか?」


問う忠正に、紫乃は眉を下げつつほんのり笑んで、首を横に振った。


「貴明さん、だけです」


その答えに驚愕したのは、忠正だ。今迄一度たりとも、考えもしなかった事だった。


「紫乃さん、貴女…―――――」





   ***




謝罪がしたいので、藤原の家を訪れると言う貴明を断ったのは他でもない紫乃だ。

『私は、貴明さんと二人でお話がしたい』紫乃は忠正にそう伝言を預け、貴明からの連絡を待った。


忠正は紫乃の胸の内は自分にだけ留め、彼女からの伝言だけを貴明に渡した。貴明は罵られる事さえも厭わないとばかりに、穏やかな表情で其れを受け取った。


二人の面会が叶ったのは、貴明が晶子への決別を、忠正が紫乃へ謝罪をした翌日の事だった。


時は二十時を回った割烹料理屋の個室。本来ならば、舌だけではなく目も楽しませる料理がテーブルに広げられている所だが、話が済むまでは誰も通してはならないと、忠正から女将に言い聞かせてあった。


「紫乃さん」

「はい」

「今回の件、不本意ながら貴女を傷付けた事を謝りたい」


晶子の子供を認知する事を覆す事は出来ない。だが、だからと言って晶子が紫乃を傷付けて良いと言う免罪符にはならない。自分の失態を悔やむと共に、藤原の家に泥を塗った事に貴明は頭を下げた。


「解りました」


紫乃の抑揚のない返事に、貴明は訝しむ様子で顔を起こす。

しくしくと泣くでも、何時も笑みばかり貼り付けてる顔を歪ませるでもない紫乃が其処に居た。


「貴方からの謝罪を受け入れます。このお話は此れでお終いで宜しいでしょうか」

「え、いや…」


二人の関係に置いて常に主導権は貴明に有る様に思えていたが、今日に至ってはどうだろう。


形だけであろうとも婚約者である紫乃に対し、貴明は頭を下げるが、彼女がこのような対応をしてくれるとは想定外だった。泣くか喚くか罵るか、いずれにしても誠意は見せるつもりでいた。

婚約破棄と言う事だけは何としても避けたい結果だったからだ。


「…お腹が空きました。此方のお店、何時か来てみたいなと思ってたんです。お勧めを教えて頂けたら嬉しいです」

紫乃は空腹を感じた事を少し恥じる様に顎を引き、貴明にそう申し出た。


「は、腹…」

「はい」


何とも解せない幕切れでは無いのか…貴明は呆けた様に紫乃を見つめる。何時だったか、紫乃が謀っているのではないかと疑心を抱いた事が有ったが、其れは何度か会う内に消え失せた。しかしながら流石の貴明も、この展開は素直に受諾出来ない。


「何故…責めないんだ」


貴明の掠れた声に、紫乃は笑みを引っ込め改めて姿勢を正し、対峙した。


「…責めて、誰か救われますか」

「っ」

「恐らくこの一件での被害者は私と言う事になるのだと思います。そしてその私が、謝罪を受け取ったのです、其れで良いのです」


彼女の言う事は尤もだ。

紫乃が貴明を責めた所で、晶子が紫乃を傷付けた事も、晶子の子供の認知も、取り消される訳では無い。だが、釈然としないのも又事実。


「他意は有りません。私にとって貴方が私との結婚を破棄なさらない事が大事なのです」


その台詞に貴明は眉を顰めてしまった。彼女からは雑じりっ気の無い好意しか感じた事が無かったのに、彼女の口から政略的な物が発せられたからだった。


「…先日、三条さんから貴方をそんなに愛してるのかと、訊かれました」


あの時の驚きに満ちた忠正の顔を思い出した紫乃は、揃えられた指先を口に当て目を細める。その笑みを携えたまま、紫乃は言う。


「愛、ではありません」


紫乃ははっきりと言った。

貴明は目に見えて狼狽した。基本、女性からは好色な眼で見られる事が多いと自負している貴明が、婚約者から”愛してない” と撥ね付けられた。


自分に『愛』等無い癖に、紫乃から其れが無いと言われた途端、少なからずショックを受けた貴明だった。


愛、ではない。だが紫乃は、六歳も年上の貴明を想った。

彼が、人を信じ己を受け入れ、幸福であります様に、と。


十一歳の紫乃が聞いた彼の悲鳴を、紫乃は忘れる事が無かった。

望んだ訳では無いのに、三条の人間になり、自分を産んだ母と理不尽に離別させられ、彼は孤独だった。今でこそ忠正と言う気の置ける人間が傍らに居るが、其処に至るまでの貴明の人生は、私利私欲に塗れた大人達に翻弄されていたに違いない。

他人を信じられず、誰も彼も疑って、気の休める所は何処か。


彼を、貴明を救いたい―――――。


貴明の過去を知り、自分がいかに幸せな人間で有るか思い知らされた紫乃は、誇張でも何でもなく、本心から彼の力になりたいと想った。


驕りだろう、同情だろう。其れでも。

彼に手を払われない限りは、尽くそうと想った。


「貴明さん、愛して下さらなくて結構です。ただ、信じて貰えないでしょうか、私を」


先ずは、信頼を置いて欲しい、そして何時しか忠正の様に貴明の懐に入りたい。其れが紫乃が持つ願望だ。


「私、貴方に幸せになって頂きたいのです」


突拍子もない提案に、貴明は一拍の間の後、笑う。その作られていない笑顔に紫乃はホッとした。生意気な事を献言している自覚は有るのだ。

それから紫乃は、心外だと言う顔付で、ちっとも怖くない視線を貴明に向けた。


「可笑しいですか?」

「可笑しいさ、俺に同情してるんだろう?」


紫乃が『愛は無い』と言ったその口で、何を言うのかと構えれば、ままごとの様な幼稚な台詞で脱力し、貴明は自分自身をも笑っていた。大学を出たばかりの小娘が、謀るだなんて、よくもまぁくだらない懸念を抱いていたものだ。

そんな貴明を前に、紫乃は瞼を大きく一回瞬いた。


「”俺” って、貴明さん、おっしゃったんですか? 今?」


此れまでの貴明は、紫乃の前で自身を『私』と言っていた。ところが今は、”俺に”と素を曝け出した。紫乃は喜びで身体を震わせる。感極まって出た言葉が―――――


「嬉しいです」


そう言った時の紫乃は、美しかった。


三日月の様に目が細められ、白い頬が少し赤みを増し、唇は上品に弧を描く。貴明が此れまで見た紫乃の中で、一番綺麗に微笑んでいた。


陳腐な台詞も、紫乃が言うと箔が付く。

紫乃の笑みには、嘘が無い。

紫乃と供する時間が、穏やかである。


今の貴明には解っていた。

幸福を齎すものは、愛情だと。


そして貴明が今、紫乃から享受するのは、無償のじょうだ。



貴明は何時しか笑いを収めて、紫乃を射抜く様に見つめると紫乃も又、其れに応えた。



「紫乃は、酒は飲めるのか」

「お付き合い程度ですが」



貴明と紫乃は笑みを交わし、特別な晩餐を始めた。







二人に愛はまだ、ない。




けれど二人の心が通うのも、そう遠い未来ではない―――――。






*** 了 ***










最後までお読み頂き、有難うございました。



壬生一葉。。。



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