終焉
傲慢な支配者が、空間の支配権を奪っていく。それはいっそ、暴虐なまでに。
ゆっくりと近づいてくる殿下は、傲慢な笑みを浮かべて姉を見ている。
「邪魔をしたか? 婚約者殿」
驚愕を隠し切れない姉に、殿下はゆるりと手を伸ばした。
「殿下……っ」
「酷い婚約者殿だ。俺よりも弟を選ぶとは」
何らかの魔法を使ったのか、それともその存在だけで圧倒したのか。姉はその場から一歩も動けず彼に拘束された。
背後から抱擁するように。しかし決して逃れられない強さで捕らえられた姉は、私と正面から向かい合うように全身を絡めとられている。
「だが残念ながら、お前は選ぶ立場にない。選ぶのは俺たちだ」
耳元で嘯く殿下に姉は体を震わせ、自分の正面、私を庇うような位置に立った閣下を愕然と見上げる。
決して手の届くことのない距離で、絶望の眼差しを向けられる閣下の表情は見えない。けれど、そこに浮かんでいるのはきっと、殿下とは少し違う、けれど己の傲慢さを隠さない美しい笑みだ。
「兄上に選ばれながら未だ侯爵家に固執するとは、存外諦めの悪い人だ。いくら妹が寛大だからといって、往生際が悪いにも程がある」
まったく温度を感じさせない声音に、呆然とする姉。そこまで冷たい目も、声も、生まれてこの方一度も向けられたことがないであろう彼女にとって、それを初めて自分に向けたのが恋した相手だったことは、何よりの衝撃だったことだろう。
「まぁそう言うな。恋は盲目と言うし、何より自分より劣っていたはずの妹が選ばれたとなれば、黙ってはいられないだろう」
「殺したいほどに?」
「殺す相手がそう思っていなければ、さほど問題になるまい?」
妹君が普通の感性を持っていなかったことに、婚約者殿は感謝すべきだな。
「でなければ、婚約者殿? お前は今、ここにはいない」
「ど、いう……」
「知れたこと」
そうでなければ、お前はとっくに弟に殺されていたからだ。
たとえそれが、俺が妃に望んだ相手であっても。
「間違えるなよ。誰よりも先に恋に落ちたのは、弟だ」
臣下に下り、成すべきことを探していた時、初めて出逢った妹君に。
「知らないだろう。お前が妃となることは、決定事項だったことを」
幼いお前に、俺が妃たるべき者の素質を見出した。
「俺たちは、お前たちを手放す気など毛頭ないのだから」
欠片も残さず姉は殿下の、妹は閣下のものであることを。
決められた。
そして、何より。
「この侯爵家の大半は既に、妹君に引き継がれていることを、お前は知らない」
「ぅそ、うそよっ、そんなはずないっ」
紛う事なき事実を突きつけられても、信じがたいその内容に、姉が納得するはずもない。
「ありえないっ!」
「事実だ」
「ではあの書状は? 書状が来ただけで、家を継げるとでも言うのですか!?」
家を継ぐためには、それ相応の手続きが要る。だが、その手続きのためには必ず本人が王宮に出向く必要があるはずだ。だが、書状が来てから今日まで、私が屋敷の外に出ることはなかった。それは、毎日悪戯を仕掛けていた姉は、よく知っている。
「あの書状は、許可証です。令嬢が侯爵を名乗ることに対しての」
「名乗りの、許可?」
閣下の説明に訝しげに問うた姉の表情が、すぐに言葉の意味を察して変化する。
「まさ、か」
「頭の回転は鈍くなっていないようで、安心しましたよ」
王妃になる方は頭脳明晰でなければ務まりませんから。
「俺が認めたんだ。これくらいで壊れてしまっては困る」
「そのときにはどうします? 捨てますか?」
閣下の無情な言葉に、殿下はまさかと嗤う。
「籠に入れて、大事に飼うに決まってるだろう」
たった一人だけ、興味を抱けた大事な女だからな。
たとえそれが、愛でなくとも。
「姉様」
捕らえられた哀れな姉に、真実を与えよう。
「我が侯爵家の主は、既に父上ではないのです」
姉とその周囲にいる人間だけが知らなかった、侯爵家の真実。
「我が侯爵家の当主は私なのです――10年前から」
そう。
閣下と出逢ったのは、その許可を頂きに王宮に初めて上がった時だった。
――君が、新しい侯爵? 幼いのにね。
――そう思われるなら、この風習を変えてくださいませんか。
――……手伝っても、いいよ。君が、私のものになるならね。
新しい侯爵と、公爵。
特殊すぎる侯爵家の当主となるために必要なちからを持っていたがために跡を継がされた少女と、兄を助けるために臣下に下った青年。
まったく違った境遇にありながら、どこか通じるものを持っていた二人は、出逢ったその日に生涯共に在ると誓った。
「あなたは我が侯爵家の後継となるに何が必要か、ご存じない。そしてそれはそのまま、あなたが我が家を継ぐことができないという証明でもある」
代々の当主と王に近しい者しか知らない、後継者の条件。ちからが発現しなければ、生涯知ることのないそれ。
「あなたがそれを知ることは、おそらく一生ないでしょう」
殿下がそれを姉に教えるわけもない。そして私もまた、知らなくていいと思う。
我が家の闇など、光ある世界にしか存在できない姉は、一生知らずにいればいい。あらゆる能力の優劣など関係なく、ただその力を持っているというだけで家に縛り付けられる、異端のちから。
そうすれば、この国の女性の頂点として、輝き続けることができるのだろうから。
「いなければ、よかったのよ」
ぽつりと、零れた言葉。
「あなたさえいなければ、双子でさえなければ、わたくしが。わたくしだけがっ」
逃れられない拘束から、それでも抗い言葉を荒げる姉に、私が言えることは。
「私たちが双子として生まれたことは、間違いなどではなかった」
だって。
「このちからを持っていたらきっと、あなたは壊れてしまっただろうから」
** *
祝福の鐘が鳴り響く。
王太子殿下と王太子妃の、華燭の典が華々しく執り行われ、民衆が祝福を投げかける中を、馬車に乗って二人は進む。
絵に描いたような美しい一対は、幸せそうな笑顔を浮かべ、手を振って応える。
その歓声を遠くに聞きながら、王宮の一室で私はソファに座った閣下の膝に乗せられ、抱き締められている。
「君は優しすぎる」
甘くやさしく、断罪するその声も、今の私には遠い。
「あんな女、壊してしまっても構わなかったのに」
知ったところで、何ができるわけでもない無能者など。
「君が壊れないなど、誰に言える?」
君が壊れてしまったら私は、この国を滅ぼさずにいられない。
たった一人の最愛を失くすくらいなら、いっそすべて滅びてしまえと。
「――閣下」
思い通りに動かない腕を動かし、壊れている彼の頬に触れる。どうにかこちらに戻ってきているが、まだ鈍い。
「あなたがいるから、私は大丈夫」
信じて。
「あなたに出逢えたから、私は壊れずにいられる。これからも、ずっと」
それが私にとっての真実だから。
だからそれが、あなたにとっても真実となるように、ずっと共に在る。
壊れてもいいと言う殿下のような異常さを、私たちは持っていないから。
どこにも行かせまいとするように強く抱き締める腕の中で、私はまた、闇に沈む。
この国の抱える闇の中へ、ひとり。
了
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