9.そして平穏は訪れる
此処は神々の望んだ未来だろうか。
ゲネシスのような人間たちにとっても、我々魔物にとっても、そしてアマリリスのような魔族にとっても、今までと同じ平穏が訪れようとしているらしい。
それでも、グリフォスを使わした悪神は諦めないだろう。
再びゲネシスのような力ある罪人を探しはじめるだけだろう。
嘆きとは悪神が生み出すものなのだろうか。悪神には悪神の信念があって、ごく当り前の存在である私達を虐げ続けるのだろうか。
それでも、神々は《赤い花》を残した。
古き神々によって残された花。今、私の横で冷たくなっている花と同じ血を引く者の誰かが、罪を裁き、平穏を取り戻してくれるのだろう。
「アマリリス……」
心を壊し、生き抜く術すら忘れてまで。
私は何故、見届ける事となったのだろう。作り物のようになってしまったアマリリスの頬を撫でながら、私はぼんやりと考えていた。
「私は一人になってしまった」
アマリリス、お前はどうして安らかな顔をしているのだろうか。
嘆いたりはしないのだろうか。悔しさは感じないのだろうか。何も、お前だけが背負うことはなかったことかもしれないのに。たまたま《赤い花》を宿しただけで、どうしてお前だけが世界の代わりに壊れて行かなければならなかったのだろうか。
アマリリス、この世界では神々への信仰に縛られて生きていくしかなかったのだろうか。
巫女に選ばれたから何だというのだ。せっかく生まれてきたのだから、お前はお前の生きたいように生きたってよかったはずじゃないか。神々の争いなんて知らない。プシュケの頼みなんて蹴り飛ばして、ただ、私と命がけの鬼ごっこを続けていたって、神々は別の《赤い花》を用意してくれたかもしれないぞ。
でも、アマリリス、もう何もかもが遅いらしい。
お前はゲネシスを殺し、そして私はお前を殺してしまったのだから。
かつて、私は信じていた。お前がクロを奪い、心身を潰されそうになった時、お前さえ殺してしまえば恨みを晴らし、心が軽くなるのだと信じていた。人狼殺しの魔女の性こそがお前の本体だと信じていた頃は、それしか道はないと思いこんでいたのだ。
そして今、私はお前を殺した。
お前がただの夫の仇であった頃に今と同じ状況が訪れたとしたら、私の心は軽くなっていたのだろうか。憎しみを晴らし、悲しみを薄め、心が解放されることはあっただろうか。どうしても想像が出来ないのは、今の私にとってお前がただの仇ではなくなってしまったためだろうか。
今、私の心を占めているものは安心でもなければ、達成感でもない。虚しい。ただ、虚しい。お前の身体にもう魂が宿っていないのだと思うと、かつて、追い追われたアマリリスという魔女がいなくなってしまったのだと思うと、何故だかとっても虚しかった。
恨みを晴らして何になるというのだ。
そう感じ出したのは今に始まった事ではない。巫女に選ばれたお前を嫌々ながらも神々への信仰だけで助けていくにつれ、段々と心境は変化していった。
神々への信仰心はお前への憎しみと共に薄れていったらしい。魔女の性を失ったお前と共に歩んでいくうちに、ただお前と共に居るのが愉しいという気持ちでついていくようになった気もした。
――あなたを殺したくないの。
私を守るために、私に殺されることを選んだお前。
残酷なのは変わらないようだ。私だってお前を殺したくはなかった。こんなことしたくはなかった。思い切って私を殺し、今までのような魔女に戻って、ニフテリザの元へ帰ってしまえばよかったじゃないか。ニフテリザだってお前を待っていたはずなのに、お前はルーナの元へ行くことを選んでしまった。
「ニフテリザ、か……」
竜の町で過ごし続けているだろう彼女。
ただの人間ながら世界を救った《赤い花》の従者として、きっと竜族たちによって大事にされる事だろう。生きてあの町にいる限り、彼女には新しい幸せを見つける機会が巡って来るだろう。
平穏になった後で、待ち続けるかもしれない。
「でも、知らない方がいいこともある」
ニフテリザ。お前は忘れてしまえばいい。
新しい幸せを見つけ、アマリリスに関することも、私に関することも、その記憶を薄めていってしまえばいいだけだ。
だから、アマリリスを恨むな、そして、私を恨むな。
「死後の世界はどんな場所だろうか」
亡霊となったゲネシスはサファイアに会えただろうか。
キュベレー。その身体が朽ち果て、呪いが解ける希望が完全に失われる頃には、彼女の犠牲となった子供たちの魂も解放されるだろう。そうしたら、ミールの魂はゲネシスたちと一緒になれるだろうか。
アマリリスは今頃、ルーナの我がままに振り回されているのだろうか。それとも、甘えられてしまって困り果てているのだろうか。
「クロ、お前は向こうで何をしているんだい」
私を見守っていてくれただろうか。
結局、このようになってしまったが、お前はどう感じただろう。ゲネシスに片想いをする私の姿に少しは嫉妬してくれただろうか。それとも、同情してくれただろうか。
「ねえ、クロ」
お前はかつて言っていた。もしもどちらかが先に死んだとしても、後を追うような事はするなと。きっとお前が見ていたのなら、アマリリスに一矢報いろうとしている私を止めていたことだろう。私だって同じだった。もしも先に殺されたのが私で、死後の世界から見守るお前が必死に仇打ちをしようとしていたなら、どうにかしてお前を止めたいと思ったことだろう。
――クロ。お前は私を許してくれないかもしれない。
「けれど、許してくれたら嬉しい」
そっと起きあがると風がアマリリスの髪を微かに揺らした。
私の殺したアマリリス。魔女狩りの剣で命を奪われた彼女の身体は、今頃、熟成された毒と成り果てていることだろう。無知なものであっても口にしたがらない見た目の黒い血。気味の悪いその血は、一体どんな苦しみを生き物に与えるのだろうか。
無防備に横たわるこの身体に《赤い花》は埋まっている。
その味を知る者は少ない。だからこそ多くの者が欲しがり、高値で取引する。けれど、魔女狩りの剣で殺したならば、そのまま喰ってはいけないだろう。
剣でアマリリスの服を破り、石膏のような肌を曝す。
綺麗な肌を傷つけるのに躊躇いはなかった。どうせ、もう死んでいるのだ。痛みも感じないし、恐れも感じない。
刃を通した傍から黒い血は滴り、流れていく。
そして、無言で捌いてしばらく、私はやっとその宝石を見つけた。美しい《赤い花》。誰もが欲しがる魔女の心臓。黒い血を滴らせながら、私の掌に収まっている。
これが、アマリリスの運命を決めた元凶。孤独となった私に寄り添う《赤い花》。
約束通り、彼女の全てを手に入れた。
私はそれをしっかりと胸に留め、ゆっくりと、じっくりと、黒い呪いの滴るその心臓の味を確かめた。
アマリリス。その名が導く先は、どんな匂いの風が吹くのだろう。