9.果実を獲りに
鳥の町を出て以降もまた、アマリリスのお守は大変だった。
放っておけば倒れるまで進もうとする彼女を、時には狼の姿で立ちはだかって阻む。それでも衰弱する身体を酷使しようとするアマリリスだったが、さすがに体力が尽きれば動けなくなる。その隙を狙って、私は狩りに出た。こうして夫の仇を喰わせてやるのがいつの間にか私の仕事になっている。初めは不快だったし、渋々の事ではあったが、それでも私が自発的にやり始めたのは確かだ。
これが、神々が私に与えた役目。
そう信じて二人で喰える獣を捕えては運んだ。
アマリリスは時折、獲物を運んだ私に対してはっきりとした意識と共に労いと感謝の言葉を伝えてくる。その度に、私は思い知らされたのだ。ああ、本当に、クロを奪ったアマリリスは何処にもいないのだと。
かつて彼女にとっての主食は私の同胞――人狼たちの命だった。
それがどうだろう。今ではその人狼の一匹に過ぎない私が喰わせてやらねば身を滅ぼしかねないほどに頼りない。
群れをはぐれた小鹿を仕留め、引きずって戻れば、疲れを隠せない様子で木陰に寄り添うアマリリスは微かな笑みを浮かべて私の帰りを歓迎する。今日も昨日と同じ、そして一昨日と同じ。この笑みもまたニフテリザという女と同じような魔性を秘めていた。
「少しは休めたか?」
鹿の骸を口より放して問いかけると、アマリリスは無言のまま頷いた。
辺りは暗いが、すでに火を焚いてあるのでその表情はよく見える。魔法を使える便利さというものの一つは、何処でも火を起こせることだろう。そして、何処でも火を消せるということも同じ。そもそも火なんてなくたって、アマリリス程度の魔女でも光を起こすことは可能だろう。火を焚いて待っていたのは他でもなく、私が持ち帰った肉を焼くためだ。
アマリリスの手で行われる料理は実に味気ない。
私が持ち帰った肉を切り刻んで焼くだけ。他の食材があったとしてもまともな料理をするとは思えないのだが、そもそもその食材を買う余裕もなくアマリリスは次の街へと向かってしまう。
いくら、神獣の子孫どもがアマリリスを有難がって大金を寄こしたとしても、それを使う時間すら彼女には惜しいのだ。
結果、金はただの荷物となり、アマリリスは人里離れた場所で疲れて動けなくなる。そこで私が探せる食材といえば、人狼の主食である肉か、喰っても害はなさそうな草花や果実、キノコなどに限られてしまう。
それでも探しているだけ感謝してもらいたいものだとつくづく思う。生憎、アマリリスはきちんと感謝をしているようなのだけれど。
鼻先で獲物を促すと、アマリリスはまたしても黙って頷き、そっと手を翳した。その直後、放たれるのは今まで散々人狼を脅かしてきたあの魔術。風を操っているのだと前にアマリリスは言っていた。旧友であるヒレンに教わり、ものにしたという魔術。柔らかな生き物の身体を切り刻む冷風によって、血抜きは行われる。
横着なものだ。前はナイフなどでしていたと思うが、そのナイフが使えなくなって以降、アマリリスはこの魔術で血抜きを行うようになった。私はそれをただ見つめていた。そもそも、私にとっては血抜きなど必要ないのだ。炎も同じ。生きているか、死んでいるかも分からぬうちに喰い殺してしまうのが人狼というものだ。
以前ならばこのような面倒な手順にもいちいち口を挟んでいたかもしれない。だが、もうしない。アマリリスがあまり相手をしてくれないせいだ。
「私はこれだけで十分よ。あとはカリスに」
そう言ってアマリリスはほんのひと欠片の肉を焼き始めた。人狼が喰うより少ないのはよくあることだが、これはあまりに少な過ぎる。狼姿から人に代わることも忘れて、私は思わず口を挟んだ。
「馬鹿か、それでは足りないだろう? それの倍は喰え。私が獲ってきた肉だ。私の命令に従ってもらうぞ」
すると、アマリリスは怒るわけでもなく虚しく溜め息を吐いた。
「従いたいのは山々だけれど、あまり食べる気がしないの。胸焼けがして……」
――胸焼け?
まただ。この女が人狼でないことを覚えているつもりであっても、細かい部分で忘れてしまうことがある。アマリリスは魔女であり人間ではないけれど、人間の血もいくらか引いているはずだ。その身体の基本は魔力を使えるということ以外では本物の人間によく似ている。つまり、この女は肉食ではなく雑食なのだ。肉以外のものも喰わせた方がいい。
「そうか、なら分かった。じゃあ、他に別の喰い物を獲って来るから、食べられる分だけ食べて待っていろ」
そう言い捨て、アマリリスが何かを言う前に走り去った。
腹が減っていないわけではないが、優先すべきは自分の事ではない。それに、アマリリスが口に出来そうなものには心当たりがあった。鹿を狙っていた時に目にした果実。正確な名前もよく知らないものだが、猿や猪などのケダモノ、人間や魔女があれを喰っているのを見たことがある。あれならば少しは食べられるかもしれない。
そう遠くないのであっという間にその場所についた。
真っ赤な果実が成っている低木を前に、自慢の鼻を利かせて辺りを窺ってみれば、まさに今持って帰ろうと思っている果実たちを欲しがっているのか、弱々しい小動物どもの匂いがぷんぷんした。
「悪いが、これは私の連れに貰っていくよ」
ぼそりと姿を見せない動物たち、そして、果実を鳴らす低木へと告げると、私はその果実の匂いを嗅いだ。ずいぶんと甘い香りだ。虫や猿が好みそうなもの。確かにいい香りかもしれないが、私の食指は動かない。
――まあいい。私は人間の身体など持っていないのだから。
思わず狼姿のまま噛みつきそうになり、ふと人型の姿に戻って手を伸ばした。ちょうどそんな時だった。
風向きが急に変わり、これまで気付かなかった奇妙な臭いが流れてきた。
鉄の臭い。血の臭い。人間の臭い。そして深い恨みと呪いの臭い。
――アマリリス?
私はふと臭いのする方角を確認した。
間違いない。アマリリスを残してきた場所がある方角だ。嫌な予感がした。今のアマリリスは特別な存在。魔女狩りの剣士が見たとしても、手を出そうなんて思えないはず。野蛮な武器で人を襲う者が近くに居るとすれば、私の方が危ない目に遭うだろう。それなのに、物騒なものが入り乱れるその気配を感じた途端、アマリリスの身に危険が迫っているような気がして仕方なかったのだ。
次の瞬間、私は走り出していた。
果実を諦め、狼姿となって走り、物騒な臭いに紛れる微かなアマリリスの臭いを辿って走った。いつもと同じくらいの速度で走れているはずだ。それなのに、どんなに急いでいるつもりでも、なかなか前へと進んでいないように錯覚した。
それでも、アマリリスを残してきた場所には辿りつけた。
炎の灯りが見えた時、一瞬だけほっとしたものの、すぐにその安心感は消えてしまった。アマリリスの姿が無いのだ。炎は虚しく燃え、私が仕留めた小鹿の骸も虚しくそこに倒れているだけ。
――どこへいった?
慌てて彼女の座っていた辺りへと近寄れば、辺りの地面が踏み荒らされているのがはっきりと分かった。
――何かに襲われた。
獣ではない。魔族や魔物かもしれない。ただ、そうだとしても、人型の姿を持つ何者かだろう。疲労した様子で一人火に当たる女として近づいたのだろうか。いや、そうだとしても、神獣に加護されているアマリリスを襲える者がいるだろうか。マルの亡霊を癒して以来、どんな猛獣もアマリリスを無視してきたというのに。
――では、誰が……。
その時、狼の耳が何かをとらえた。
音。悲鳴。怒声。悲鳴は微かなものだ。荒い吐息と必死な面持ち。それに追い打ちをかけるように、向かい風が私の鼻を刺激する。
アマリリスがこの先にいる。
一人ではない。穏やかではない何かと一緒に居る。そしてそこからは怒声と悲鳴。それだけで十分だった。何故、どうして、アマリリスが襲われたかなんて、今考える事ではない。とにかく、私は走った。アマリリスを助けるために。