5.巫女の剣
閉められていた扉を開け放った途端、異臭が漂った。横たわるのはジズの亡骸。原型を留めていなかったのは元々だが、あれから更に朽ち果てている。あの時にゲネシスが狂ったように作り出した血だまりもまた、殆ど乾いてしまっている。
そんな光景を人鳥たちもまた動揺を隠せない様子で見つめていた。
彼らにとってこの神鳥はこの世のどんな神々よりも頼りになる存在だっただろう。己らの父祖であり、その血を継いでいるということは、長い間、彼らにとって力を裏付けるもの、勇気の源であったはずだ。
それがこんなにも無様な姿で横たわっている。
偉大なる父であるにも関わらず、弔うこともできない。リヴァイアサンも、ベヒモスも同じだった。途方もないほど長い間、この世界に生まれる数多の命を見守ってきた三神獣。人食い悪魔によって激しく穢された尊厳を回復させるには、神々に呪われた巫女の魂を救わねばならないのだ。
その鍵となるのは《赤い花》。選ばれたのはアマリリスだけ。
ヒレンとかいう旧友がもしも生きていたら、二人とも選ばれていたのかもしれない。また、ヒレンが亡くなっても、この世の何処かに隠れ住んでいる《赤い花》がアマリリスと出会っていれば、この重荷の半分を負担してくれていたかもしれない。
――そもそも、選ばれたのがアマリリスでなければ。
その時はきっと、私もアマリリスも頑固で命がけの鬼ごっこを続けていたことだろう。
クロ、あの時と今では、随分と状況が変わってしまった。
アマリリスが主を失った祠へと向かっていく。その後ろに装飾のように掛けられているものこそ、巫女の剣だろう。アマリリスの訪れを待って、巫女の剣は薄っすらと輝きだした。町長に預けてある巫女の鏡、巫女の宝玉の残り香でも感じ取っているのかもしれない。
しかし、アマリリスが剣の元へと辿り着くより先に、聖堂にて異変は起こった。
人鳥たちが真っ先に警戒し、アマリリスの元へと向かい始める。
私はと言うと、突如沸き上がる腐臭に怯んでしまった。腐肉を食らう事に躊躇いもない人狼であるはずの私ですら怯んでしまったのは、その腐臭に含まれていた強い殺気のようなものに本能が警鐘を鳴らした為だろう。
私は人鳥ほど強い力を持っていないのだから。
それほどまでの殺気を放った者。勿論、《悲愴》などではない。悲しみのあまり現実を手放してしまった存在。私のことも、人鳥のことも、《彼女》にとってはとるにたらないものだろう。
雪のような体毛、或いは、絞りたての乳のように滑らかな肌。目の前で主を失い、呆然としつつも、助けようとした私の身を最後まで按じてくれた魔物の巫女。かつてカザンという名でもあったその存在は今、見るも無残な鳥の姿で穢れを撒き散らしていた。
シエロ。グリフォスによって空巫女から切り離された魂の化身は、いつの間にか聖堂の隅で立ち尽くしていた。悲しみのあまり、全てを投げ出し、やがてその感情は理不尽な現実への怒りへと転じるのだろう。空洞でしかないその目が睨みつけていたのはアマリリスだけだった。
巫女の剣を取ろうと向かう《赤い花》。
ただ混乱しているわけではない。彼女の目的を知っているからこそ、アマリリスに対して殺意を抱いているのだ。
シエロ。貴女はそんなにも辛いのだろうか。この場を正常化すれば、ジズの死と共に自分の肉体と心は今も悪魔の一部として悪事を働いていることを認めなくてはならない。今、彼女はどんな夢を見ているのだろう。赤の他人にとっては穢れでしかないこの場を留めようとするくらい、美しいものに感じるのだろうか。
かつて美しい狐や人間の女の姿をしていたとは思えない姿で、シエロは天高く鳴いた。聖堂の中で反響し、波のように風が生まれる。
「いけない……アマリリスさん!」
人鳥たちが焦り出し、アマリリスを促す。しかし、アマリリスはその変わり果てた空巫女の姿に気を取られたままだ。
――まただ。心を乱している。
腐臭と恐怖を抑え込んで私は走り出した。
狼の姿でアマリリスの傍へと滑りこみ、そのまま服の袖を引っ張って巫女の剣の元へと向かわせる。あれを取らせないと、話は進まない。それなのに、アマリリスは私に引っ張られてもなお、意識を定かにさせていない。
「アマリリス!」
服を引っ張りながら、私はくぐもった声で怒鳴った。
「しっかりしろ、お前でなくては空巫女を救えないんだ!」
悲痛な叫びでもあった。
彼女は魔物の巫女。全ての魔物の希望である。人狼にとってもそれは同じ事。狐人自体に対する特別な感情はないにしろ、彼女だけは――シエロの生まれ代わりだけは別なのだ。私にとってその感覚は、地巫女や海巫女よりも強い。
「頼む、アマリリス!」
泣き出しそうな思いで呼びかけると、ようやくアマリリスの目が私を向いた。
その目の色に一瞬だけ怯んだ。かつてアマリリスが嬉々として狼狩りを楽しんでいた時のものによく似ていたからだ。
だが、すぐにその恐怖は薄れた。
アマリリスがしっかりとした口調で喋ったからだ。
「カリス、有難う」
まるで、手懐けた獣に言うように、アマリリスは言った。
「もう大丈夫よ」
短くそう言って、アマリリスは私の牙を振り切って駆けだした。
そんな彼女を睨みつけ、おどろおどろしい鳥の声は上がる。人鳥たちよりもずっとよく通る声に釣られて現れるのは、新しく生み出された《悲愴》たちだ。
一瞬、驚いて振り返ろうとするアマリリスに人鳥たちが叫ぶ。
「こちらは任せて、あなたは剣を――!」
その声に背を押されたアマリリスはすぐに頷き、巫女の剣の真下へと到達する。直後、私の知らぬ短い魔術を操ったと思えば、しっかりと支えられていたはずの剣がアマリリスの傍へと落ちてきた。
本能的に跳躍してそれを受け取り、アマリリスに渡した時、人鳥の手を掻い潜った《悲愴》たちの姿が見えた。
「大丈夫」
私の目に怯えがあったのだろう。アマリリスはそう言うと私から剣を奪いとり、目にもとまらぬ速さで刃を抜いた。直後、魔物の目には沁みる色の光沢が現れ、アマリリスと私を襲おうとしていた《悲愴》たちが残らず塵となる姿が見えた。
これが巫女の剣。
ジズが神々に願い《赤い花》の為に残した神器。
「シエロ……」
剣の切っ先よりも鋭いアマリリスの視線が、呪われた姿のシエロを捉える。どうやらシエロは焦っているらしい。この呪いを解いて欲しくないのだろう。
だが、それは許されない。
呪いを与えたのは神々であるのかもしれないが、それと同時に、その呪いを受け入れてしまうことも許されてはいないのだ。
「今、あなたを解放します」
そう言ってアマリリスはシエロの元へと走り出した。