3.聖なる山の道にて
出発の日はあっという間に訪れた。
それでも、アマリリスにとっては長い時間だったことだろう。
待機している間、アマリリスは恐ろしいほどに口数が少なかった。まるで、魔女の性によって狩りをしている時のよう。暫くの間、性など忘れたアマリリスしか見ていなかったこともあり、とても不気味だった。
しかし、魔女の性が戻ってしまったわけではない。私がどれだけ傍に居ても、興味すら向けてこない時もまた多かったのだから。
その目が見つめているのは窓の外。聖なる山の上にあるはずの大社の方角だった。彼女の耳には既にシエロの悲しみに暮れる声が届いているのだろうか。そうだとしても驚きはしないほど、アマリリスはあからさまに出発したがっていた。
起きてから寝るまでずっとこの調子だ。
憎き女とは言え、さすがに可哀そうに思えた。
そんなアマリリスにとって、待ちに待った時だっただろう。数名の人鳥に連れられて進む彼女は、何処かそわそわとした様子で先へと進んでいた。
その影に潜みながら、私はアマリリスという魔女の心を覗こうと試みた。
似ているのだ。似ていて不安なのだ。大罪を重ねてどんどんその心を歪ませていったゲネシスに何処か似ていて不安が治まらないのだ。
気のせいであって欲しい。
神々に急かされて冷静さを失っているだけなのだと思いたい。
だが、そんな私を安心させてくれるような心は全く見えない。アマリリスの心はきっと濁ったままだろう。決して単純明快ではない心と共に、《赤い花》を動かし続けている様子が私にも感じられた。
――この《赤い花》が憎い。
魔女の性というものは、親より魔女の心臓を受け継いだ瞬間に決まるのだという。
アマリリスに人狼狩りの欲望を与えたのは、今もずっとアマリリスの左胸で音を鳴らし続けている《赤い花》に間違いない。そして、この《赤い花》が彼女を神話のいざこざに巻き込んだ。
いつか影の中で聞いたことがある。
アマリリスに《赤い花》を引き継がせたのは母親だと。
憎い。その母親がこの《赤い花》なんかではなければ、アマリリスはこうはならなかっただろう。クロも死ななかったかもしれない。そして何より私が今、こんなにも苦しい思いをしなくて済んだかもしれない。
そう、私は苦しかった。アマリリスが壊れていこうとしているのだと間近で感じるのが苦しくて仕方なかった。どう考えても、アマリリスが向かうのは破滅の未来だけだと分かっているせいでもある。
おかしくなり始めたのは、プシュケがアマリリスを誘いこみ、その手で触れた時。それまでは悲しいだけだった。悲しくて怒りに満ちていただけだった。不幸だったのは確かだろう。クロを失った時、私は世界が終わったのだと錯覚したのだから。
――それでも、今考えればましだ。
クロを失った私は復讐に賭けた。夫を殺した者と戦うことで、救われようとしたのだ。見事、恨みを晴らす事が出来れば文句はない。だがもしも、呆気なくアマリリスに殺されたとしても、それはそれで報われるはずだった。
恨みを晴らすために立ち向かったことこそが私にとっては重要だったのだ。
しかし、三神獣たちがそれを狂わせてしまった。
今も尊い存在なのは分かっている。逆らうことも出来ないし、崇拝している神々だった。不服に思ったし、許せないくらいだったけれど、諦めて時が過ぎるのを待とうと思えたはずだった。
けれど、あの時から色々あり過ぎた。
色々あり過ぎて、疲れてしまったのかもしれない。
あの頃には当然のように抱いていた価値観が、今や歪んで同じ型にはまらなくなってしまっていた。当り前の人狼の女として正しくいようとしていたはずなのに、その正しさが良く分からなくなってしまったのだ。
アマリリスは何者なのだろう。
一体、どうして、この世界の為に滅ぼされなければならないのだろう。
影の中でその理由を探そうとする度に、心が苦しくなっていく。
「カリス……」
ふと、アマリリスの呟く声が聞こえた。
先を行く人鳥達には聞こえていないだろう。その声は明らかに意識を保ち、そして、私の潜む影へと向けられていた。
「考え過ぎては駄目よ。心を潰されてしまうから……」
その言葉に、ますます困惑した。
「アマリリス」
囁きかけるように、私も訊ねた。
「お前の心は今どうなっている。私を殺そうと追いかけていた頃と比べて、どのくらい潰されずに残っているんだ?」
「私は……大丈夫」
とても大丈夫には思えない。それに、答えになっていない。でも、アマリリスは明確に答えてくれたりしないだろう。まるで、生贄となる未来を避けられない獣が、全てを諦めるために自分を殺そうとしているかのよう。
「全てが終わったら、あなたはどうするの?」
ふと、アマリリスが私に訊ねてきた。
「ゲネシスを見送って、私を殺してクロの仇もとって、その後のあなたはどうするつもり?」
「――分からない。まだ決めていない」
そっと答えると、アマリリスが微かに笑った気がした。
「それなら、お願いがあるの」
随分と意識が保たれている。会話が続く度に、少しだけ生ずるこの安堵感は一体なんだろう。それでも、私は静かにアマリリスを促した。
「一応、聞いてやる。言ってみろ」
「ニフを……ニフテリザを守ってあげて。竜の町でちゃんと暮らしていけるか、私の代わりに見守ってあげてほしいの」
それを聞いて、私はしばし黙してしまった。
即答できなかったのは、何もニフを守ってやりたくないというわけではない。あの女は魔性があるが、嫌いではない。人間特有の美味しそうな匂いがしたとしても、魂が邪魔して喰う事なんて出来ないだろう。
問題はそこではないのだ。
ニフが心配なのは私も同じ。だが、私に頼むほど彼女が心配なのなら――。
「……アマリリス」
私は堪え切れずに言った。
「やっぱり約束は白紙にしよう。無抵抗のお前を殺したところで、クロの仇を取った事にはならない。全てが終わった後、真っ向から勝負を挑みたい」
前にも同じような事を言った気がする。
お互いの未来をかけて正面から戦おうと。
しかし、あの時は軽くあしらわれてしまったのだ。私が冗談を言っていると思われたのではないだろう。ただ、アマリリスは本当に生きていくのが嫌になってしまっていたのかもしれない。
どうして。思い当たるのは魔女の性だ。あれが消えてしまってからアマリリスはおかしくなった。あれのせいで人狼が震える羽目になるのだと憎んだというのに、あれがなくなった途端、アマリリス自体が生き物としておかしくなったのだ。
今も同じだろう。生きていくのが嫌で仕方ないのかもしれない。
「無理よ……」
アマリリスは素っ気なく答えた。
「全てが終わった時、きっと私はもう、あなたとは戦えなくなるから」
その言葉の意味を更に問おうとしたちょうどその時、ついに大社に到達してしまった。