2.町長の屋敷にて
町長の住まいは家と一言で済ませるには広すぎる。
屋敷という言葉が似合っているだろう。
リンの住んでいた場所や、一角の長老の住まいも同じようなものではあったが、人鳥の町長の住まいはあれらよりも更に豪華に思えた。装飾が立派だからだろうか。それとも、大人も多く、掃除が十分に行き届いているからだろうか。よい待遇というのは間違ってはいないだろう。アマリリスは明らかに手厚く歓迎されていた。
けれど、どうだろう。
食事の時も、風呂に入る時も、アマリリスは心を失ったようにじっとしていた。怪しくなって傍に寄ってみれば、私の姿に一応反応は見せる。狼姿で近づけば、昔、ルーナにしていたように頭を撫でてきた。
私は黙って撫でられた。
昔は触れられるところを想像するのも辛かった。今だって、許せているわけではない。それなのに、クロを奪われた恨みよりもずっと、アマリリスという存在の脆さが気になって仕方なかったのだ。
この女には崩壊してもらっては困る。
そのふらついた精神を檻にでも入れるように、私はアマリリスの目を睨みつけた。
全ての役目が終わった後、やはり私はアマリリスと真っ向から勝負をしたかった。命をかけた勝負だ。アマリリスは魔女の性通り私を狙い、私はクロを奪われた恨みを存分にぶつける。恨みを晴らすべき相手は性に囚われるアマリリスであって、性から解放された今のアマリリスではないからでもある。
だが、最近、いくつか不安なことがあるのだ。
一つは果たしてこの役目から解放された後、アマリリスは無事に元の魔女に戻ることが出来るのだろうかということ。出来るのならば、私は命を奪ってやると言う約束を破ってしまおうと思っていた。薄情だと言われる筋合いはない。クロを奪われた恨みを晴らすには、もう一度、以前のアマリリスを呼び起こさなくては駄目だ。
そうしなければ、何故、今の自分が此処に居るのか分かりもしない。
私は恨みを晴らすために生きているのだ。恨みを晴らして全力でぶつかる為に、此処に居る。勝敗なんてどうだっていい。我が寿命が尽きる前に、クロの為に命を奪うか、奪われるかという儀式を追えなくては、人狼として失格なのだ。
けれど、もしも役目を終えたアマリリスの心が完全に枯れてしまったなら。
もう以前のアマリリスは帰って来ない。それどころか、多少友好的とも思えた本来のアマリリスからも外れるだろう。遺されるのは抜け殻だけ。このまま放りだされてつまらない猛獣などに喰われて死んでしまうのならば、いっそ、私が喰い殺した方がましだろう。
だが、それでは私の無念は晴らされない。
殺すだけでは駄目なのだ。命を奪っただけでは意味がない。以前の、クロを殺した時のアマリリスでなければ、同じ目に遭わせたって気持ちは晴れない。
そして、もう一つの不安要素は自分自身の気持ちについてだった。
私は本当に、アマリリスに復讐したいと思っているのかどうか。
きっと、アマリリスが元の凶悪な魔女に戻って私の命を狙ってきたならば、死にたくない気持ちや恨みも勝って戦えるだろう。けれど、もしもアマリリスが元に戻らなかった場合、私は彼女の命を奪えるのだろうか。
奪える、と信じたい。
私は人狼だ。人間と親しい関係を築いた上で、獲物として襲ったりも出来るケダモノ。
これまで何度か、私は人間を食った。何度も会話を重ね、相手を信頼させておいて襲って喰うのだ。気持ちを通わせている時は本気で相手に親しみを持っている。それでも、食欲が勝って喰い殺してしまう時はある。しかも、喰い殺したとしても私はさほど後悔しない。時には、喰い殺した相手をこれで完全に独占できたと歪んだ満足感で一杯になることだってあった。そして何年経っても後悔する兆しは見えない。喰い殺した相手は好ましい獲物だったかもしれないが、一方で今でも友人であり、想い人であり、親友であるという者ばかりだ。
所詮、私は人狼。人間たちが悪魔としたのも頷けるような欲望を抱えている存在。そんな自分であるのだから、無抵抗なアマリリスのことだって殺せるはず。
――そう思ってはいるのだが……。
「カリス。あなたは焦っていないのね」
獣姿の私の頭を撫でていたアマリリスが突然喋り出し、少しだけ驚いた。
町長に面会した時も、この部屋に通された時も、言葉数が恐ろしく少なかった。それも今に始まった事ではなく、獣の町を出て暫くした頃からずっとこの調子だ。
喋ればきちんと意識があるのだと分かる。
だが、ずっと黙っていれば、もしかして意識が何処かへ消えてしまっているのではないかと疑うほどに静かなのだ。
だから、アマリリスの声を聞くと少しだけほっとする。
その気持ちを抑えて、私は答えた。
「私には焦るような理由はない。焦っているのはお前だけだ」
「――そうみたい。すごく疲れているのに、今も歩きだしたい気持ちで一杯なの。きっと今日も殆ど眠れない。こうしている間にも、シエロは私を待っているの」
「待っていないと思うぞ。きっと空巫女のなれの果てもまた、先の巫女たちのように現実逃避に忙しいだろうからね」
「それなら尚更。……尚更、思い出させてあげないと」
――重症のようだ。
今は何を言ってもアマリリスを襲う焦りとやらが解消されることはない。この症状が治まるのはきっと、全ての巫女の魂を導き、ゲネシスを断罪してしまった後だろう。
神々も大雑把なものだ。そして、残酷なものだ。
世界を救えという重たい使命をアマリリスに押し付けた上に、安息まで奪ってしまうのだから。
――そもそも、神々なんているのだろうか。
「意気込みは立派だ。褒めてやろう」
考えをしまいこみ、私はアマリリスに言った。
「だが、勝手に気負って自爆するのはただの馬鹿だ。今のお前に求められているのは休息。体力と魔力を回復させ、万全の状態でシエロと向き合うことだ」
何故、この私がこの女に説教してやらねばならないのだろう。
不満に思いつつも、私はこの《赤い花》の劣等生を見つめた。
改めて、やつれたように思う。歩き通しなのは勿論、落ち着きのないその精神もまた、彼女の肉を削ぎ落しているのだろう。
これもまた神々の所為ならば、やめて欲しいものだ。
女というものはせっかく肉が柔らかいのに、喰う時になってガリガリだとつまらない。ただでさえ魔女なんて人間に比べればさほど美味しくはないというのに、これでは楽しみが《赤い花》の心臓だけになってしまうではないか。
心の中でそう茶化してみたものの、あまり気分は晴れなかった。
「そう……ね。体力が戻っていないのは自覚しているわ……」
段々と言葉が切れ切れになってきた。また意識があやふやになってしまうのだろうか。そうなってしまう前に、私はアマリリスに言った。
「だったら寝ろ。することがないのなら、今すぐ寝台に入って寝てしまえ」
いずれにせよ、町長は明後日にならないと大社に連れていけないと言っていたのだ。理由は、人鳥側の準備が整っていないから。ゲネシスによって貴重な人材を削がれてはいるが、だからと言って何もかもアマリリスだけに押し付けるつもりは一応ないらしい。
その準備がかかる事にアマリリスは不満そうだし、町長もまた申し訳なさそうに思っているようだが、私としては丁度いいくらいに思えた。
アマリリスは万全じゃない。
だって、大雑把な神々のせいで身を削りながら目的を果たしているのだから。