9.最後の聖地へ
あっさりとしたものだと思うのは、竜の町での足止めが思っていたよりも長かったせいだろう。しかし、ティエラが天に召された今、この町に何時までも留まっている所以はどこにもなかった。
町に戻り、一角や蜻蛉の子の全てが無事であるのを確認すると、長老を始めとした町の者たちは少なからずほっとしたようだった。
きっと、失うことも覚悟していたのだろう。
それくらい、化け物と成り果てた巫女の呼びだす異物は凶暴で危険なものであるということなのだろう。
しかし、アマリリスはまたしても大丈夫だった。あんなにも弱い魔女であるはずなのに、私程度の守護でもきちんと役目を果たしてしまう。
好ましいことのはずなのに、不気味で恐ろしく感じてしまうのは何故だろう。
「勇者様には何とお礼を申し上げたらいいのか――」
預けていた巫女の鏡を受け取る際、一角の長老はそう言いかけたが、それを聞くなりアマリリスは首を横に振ってそれを制した。
「いえ、まだ御役目は果たせておりません。地巫女の魂は帰りましたが、無事に生まれてくるには大罪人と悪魔を倒し、巫女と神獣の力を解き放たなければなりませんから……」
「そうであろうとも、あなた様ならば歴代の勇者様のようにこの世界の危機を御救いくださることでしょうとも」
一角の長老の厳かな目がアマリリスだけを見つめている。
期待の重さがアマリリスを抉っていることに気付いているのだろうか。それを悟られまいと必死なアマリリスが痛々しい。彼女は弱い。この世の不条理に嘆き、魔女の性にあっさりと身を任せてしまうほどに頼りない。それなのに、どうして神々はアマリリスを選んでしまったのだろう。
そもそも神々なんて、本当にいるのだろうか。
長老の元を去れば、社に同行した少年少女たちが私たちを見送りに来た。さほど関わりはしなかったが、少しは頼りになったと言ってやってもいいだろう。彼らとそして蜻蛉の子の力がなければ、ティエラの元に向かうのでさえも難しかったのだから。
「勇者様……」
名も知らぬ一角の少年が、アマリリスを見上げる。
「どうか、御無事で」
別れと旅の無事を願うその健気な表情に、アマリリスはそっと微笑み応える。
頼れる大人のいない町。だが、見習いの彼らの力はそれなりにあった。巫女の魂を救えた以上、もはやこの町にとっての頭痛の種なんて何処にもないのだろう。この町に隠れ住む者たちに出来る事なんて、後は願うことくらいのもの。
《赤い花》が大罪人の首を刎ねるその瞬間を望むくらいのもの。
その為に、あと一人。
最初にゲネシスが血で染めてしまったあの空の聖域にて嘆く、空巫女シエロを残すだけ。あの時、あの直前、私がもっとゲネシスの目に浮かぶ淀んだ感情に気付けたらよかったのだろう。そんな虚しい後悔を胸に、私は影の中よりアマリリスを促した。
「ありがとう」
アマリリスは一角と蜻蛉の子供たちに向かって短く言うと、そのまま名残も惜しむことなく背を向けた。
やはり、急いている。
誰もが気付かなくとも、私は気付いている。
ルーナを失ってからしばらく、あんなに塞ぎこんで動こうともしなかった頃が嘘であったかのように、アマリリスは急ぎ足で次の聖地へと向かおうとしていた。
彼女は今、何を考えているのだろう。
巫女の鏡に巫女の宝玉。二つの神具を手に入れた彼女は、そのまま三つ目の神具を手に入れて、大罪人を早く裁きたいのであろう。たとえそれが自分自身の破滅の道であったとしても、立ち止まろうという考えは一切浮かばないのかもしれない。
一体何のために。
プシュケに頼まれた責任感だろうか。それとも、可愛い僕を殺された恨みだろうか。ヒレンとかいう友を失った時から存在するらしき自暴自棄の成果だろうか。いや、どれも違うような気がした。
神々はいるのかいないのか。
いるとすれば、今のアマリリスを引っ張っているのは神と呼ぶべき者なのだろう。そして弱きアマリリスはそれに抗えずに進み続ける他ないのだろう。
私はまっとうな人狼である。
人間よりもずっと自然を愛し、自然を見守る神々を崇拝してきた。
全ての命が溢れて行き交うこの世の中で、不滅のものなんて存在しない。永遠に存在する宝石だって時を経るごとに変化していくし、太古より生き続けている化け物だってその心は朽ちていくのだ。
それは当然の事であるし、逃れられることではない。
世の中とはそういうものであり、不条理があるからといって神々を愚弄するような無礼はしてはならないと信じてきた。
けれど、何だろうこの違和感は。そしてこの不安は。
人間たちが何故自分たちだけの神を崇め始めたのか、少しだけ分かる気がした。弱き者には強い存在が必要なのだ。この恐ろしい世界にどうにか立ち向かうには、強い支えとなるものが不可欠なのだろう。
それが人間たちにとっては唯一の神であり、我々のような人狼たちにとっては三神獣であったというだけなのかもしれない。
両者に差なんてないのだろう。どちらも所詮、我ら現世には生きぬ存在だ。
かつて人間たちの神に不信感を抱いたように、私は自らが信じた――愛するクロが信じてきた神々への不信感を募らせていた。こんな事は初めてだ。生まれてからずっと当然のものだったはずの三神獣への信頼が崩れてきているのだ。
アマリリスが選ばれた時、そして、ゲネシスを討伐すると決めた時、こんなにも迷いは生まれなかった。
じゃあ、どうして迷い始めたのか。
簡単だ。
進めば進むほど、アマリリスがアマリリスで無くなっていくのが分かってきたから。それだけのことだった。
「おい、そろそろ休め」
獣の町を出て数時間。相変わらずアマリリスは歩き通しだった。
影に潜みながら、或いは、すぐ隣を歩きながら、見守っている私のことなど眼中にもない。彼女の目に見えているのはただ次の町。鳥の町だけだ。
竜の町から獣の町までもそうだった。アマリリスはぶっ倒れるまで歩き、少し休んでからまた歩くといった様子だった。それでも、不思議とアマリリスを狙って現れるような獣はいなかった。私が目を光らせていた所為と言う訳でもない。この気休めのような不思議さだけが、神々がアマリリスを選んだと言う証なのかもしれない。
だが、こんな思し召しだけではアマリリスは潰れてしまう。神々は忘れているのだろうか。アマリリスが自分たちと違って、人間や私たち人狼と同様、非常に脆い身体をしていることを忘れているのだろうか。
「身体を壊すぞ。そうしたら、今進んでいることが無駄になる」
静かに窘めてみれば、アマリリスはようやく私をその目で見た。
「分かっているわ。でも……でも、じっとしていられないの……」
神々とは何なのだろう。天とは何処にあるのだろう。
地上より離れた安全な場所で私たちを見つめ、このアマリリスを遣い潰すことで地上の生き物たちを救おうというのだろうか。アマリリスのこの異様さが、アマリリス本人の意志とは離れているというのなら、私の言葉を向けるべきはいと高き天の彼方なのであろう。
結局、私の忠告は無駄となった。
もう何も言う事はない。私はただ空に向かってひと吠えしてから、選ばれし哀れな《赤い花》の影に潜んだ。