7.滅びゆく山羊
一角の山羊。
それが、人間たちを愛するあまり世界を人間にとって住みやすいものへと変えてしまった古代の神に諫言したとされる怪物の姿である。それを怪物と呼ぶのはその神を崇拝する人間だけで、我々人狼たちにはただ一角獣と呼ばれている。世界の成り立ちを学び、他者に伝えた学者であり、賢者とも呼ばれた。
しかし、盲目的に自分たちを愛する神に従う人間たちにとっては生意気な怪物でしかない。一角の山羊は結局その神に嫌われてしまい、以降、呪われた存在として人間や獣たちにまで避けられるようになってしまった。
光の世界を追われた彼は森に引きこもり、暗く日光も当たらないような場所で説法をするようになったらしい。彼の話を聞くのは魔族か魔物だけ。それでも、そこから多くの弟子が生まれ、人間たちには伝わらぬ魔術や知識が蔓延した。
彼の姿を伝える絵画はたくさんある。描かれるイメージは大きくわけて二種類。一つは悪魔寄りの姿。もう一つはただの一角が生えただけの山羊。勿論、前者は人間が描くものであり、後者は人間以外の血を引く者もしくは人間の血を一滴も引かぬ者が描くものだ。
一角獣、とは言ったが、ベヒモスの血を引いているわけではない。
ただ角の生えた魔族であるというだけであり、混血も進み過ぎて的確な名称も持たない種族であるだけだ。
だが、ベヒモスやその子孫一角たち、更には地巫女と、一角獣のイメージが結びつく瞬間はどうしても存在するものだ。
かくいう私も、今だけは彼の逸話を思い出してしまった。
場所は忘れもしない絶望の扉の前。
地巫女を始めとした蜻蛉の子達の全てを引き連れて逃れようとした時に、ゲネシスたちに追いつかれてしまったあの場所だ。
扉は今も固く閉ざされたままだ。
グリフォスの摩訶不思議な力等、もうとっくに無くなっているだろうけれど、今更開ける者なんて何処にもいなかったらしい。
あの扉の向こうは規模のでかい斎場があったらしい。普段、一般人が礼拝する大広間ではなく、もっと特別な祭りがある時に解放される場所であったらしい。その場所の更に奥には裏口があり、外に続いていたらしい。祭りの時はそこから人が入るようになっていたのだと教えてくれたのは、今は亡き地巫女。
彼女はもう何処にも居ない。
閉め切られた扉の前で嘆いているのは、もはやダフネではない。彼女は滅んでしまったのだ。復活するのはティエラの生まれ変わりであって、ダフネではない。
そう、我々はティエラを追い詰めていた。
あの場所にいるのだと教えてくれたのは社に生えた蔦たちと、一角に守られながらその言葉を教えてくれた蜻蛉の双子だ。一角も、蜻蛉の子も、此処に来て怯えを顕わにしていた。無理もないだろう。私やアマリリスは海巫女の惨状をこの目で見たのだが、彼らは初めて見るのだ。それも、自分たちが守ってきた地巫女の惨状を。
「あれが……ティエラ様なの……?」
驚愕を隠すことなく呟いたのは一角の少女だった。
地巫女ティエラ。
死んでしまったダフネの姿を思い出してみても、今のティエラらしき物体とはどの部位も合致しない。彼らが同じ魂を宿していたなんて誰が信じるだろうか。そのくらい、ティエラの姿は醜かった。
角の生えた山羊のような姿。
それは、人間の神に諫言した孤独な賢者を、人間が悪魔として描いたようなそんな姿をしていた。角や蹄には黴が生え、目は朽ちて虚ろに、全身を覆う体毛は腐ったように衰え、所々骨が露出している。
そんな姿でティエラは嘆きの唄を奏でている。
仲間を失い、たった一匹となってしまった狼が自らの行く末と虚しく向かい合いながら空に吠えている。そんな姿にも見えた。
「畏怖を呼んでいる……!」
一角の少年が震えながら叫んだ。
ティエラを取り囲むのは角の生えた化け物たち。海巫女の時と同じだ。場所が狭いだけで、アマリリスを拒もうとしている態度も、それを助長する化け物たちの存在も変わらない。ならば、あの時のようにアマリリスに叩かせるだけ。
「アマリリス!」
名を呼ぶと、アマリリスの身体がぴくりと動いた。
今度は何をぼやぼやしているのだろうか。彼女の心を捕えるのは難しい。今までだって不安定だったのに、マルを救ってからは更に面倒臭いものとなってしまった。
今のアマリリスの意識はどうなっているのだろう。
「カリス、援護をお願い!」
宝玉を握りしめて身構えるアマリリスの声は、思っていたよりもずっとしっかりとしたものだった。どうやら私の心配など余計な御世話であったらしい。
「分かった。しっかりついて来い」
吐き捨てて、その返答が得られよりも先に、私は産みだされたばかりの畏怖どもへと飛び掛かった。爪と牙を駆使してただティエラまでの一本道を切り開いて行く。
端から頼りにしていなかった一角共などここで御役御免だ。ただアマリリスが問題なくティエラに近づければそれでいい。
――来ないで。
一瞬だけ、そんな意味を持つ獣の叫びが聞こえた気がした。
何の獣だったかなんて考えている暇はない。その叫びが響き渡った途端、畏怖がさっきよりも倍ほど増えた。ティエラが叫んだのだろう。蜻蛉の子の言葉だったのか、それ以外の何かケダモノの言葉だったのかは分からない。
ただ、厄介だった。
「面倒な奴らだ!」
瞬時に人間へと姿を変え、腰より魔女狩りの剣を抜いて一気に横に払う。
狼の姿の時には出来ない、広範囲の斬り払いだ。それだけで呆気なく畏怖どもは消え去り、ティエラへの道が一気に開けた。
しかし、ティエラは冷静に叫ぶ。次から次に畏怖を呼びだして、アマリリスを一歩も近づけまいとしているらしい。
「カリス、また来るわ……!」
「引っ込んでいろ。間違ってこれが当たったらどうする」
冗談でも何でもなく、アマリリスの傍で魔女狩りの剣を扱うのは危険だ。
そもそもこれはアマリリスの息の根を止める為に持っているもの。使い時は今ではなく、もっとずっと先の事である。
「カリス」
だが、アマリリスはちっとも恐れずに私に言った。
「私に任せて」
その直後、私はまたしてもアマリリスの《弱き魔力》を目の当たりにすることとなった。