6.変わりゆく心情
焦っているのが此方にもよく伝わってきた。
リンたちの元に居た時とは違って、こちらの味方は少年少女ばかりという手薄であるにも関わらず、アマリリスは足早に先へと進もうとする。
ティエラの居場所もはっきりと分からないというのに、考えなしに歩み出そうとするものだから、私は絶えずアマリリスの前を遮っていた。
アマリリスの無謀さは「勇者様」とやらになった所為なのだろうか。その名は三神獣を崇拝する者どもが与えた称号に留まらず、魔女の性でもないもので脆い精神をすっかり操ってしまっているらしい。
――勇者様。
かつてどれだけの数の《赤い花》がそう呼ばれ、巫女や神獣たちに都合のいいように利用されてきたのだろう。世界を救うために自己犠牲すら厭わない勇者。神々に選ばれし心臓を持つ彼らはきっと、幾度となく神聖視されたことだろう。
しかし、私はどうも納得がいかなかった。
危険な悪魔がこの世に野放しになっている中、何故、神々はアマリリスしか用意出来なかったのだろう。
ゲネシスを騙して圧倒的な力を与えてしまった人食い悪魔グリフォスと、使命の重さに今にも萎れてしまいそうな弱き魔女アマリリス。どう考えても、悪魔の方に分があるように思えてしまう。
こんな弱腰の魔女に、本当に世界を救う力はあるのか。
だが、グリフォスもまたそれを信じているのは確かだった。自分の信念を達成する為に、あの悪魔は《赤い花》を見つけては摘んでいたらしい。アマリリスがもしもプシュケの頼みを断り、輿入れにも参加しなかったとしても、グリフォスがそのまま見逃していたかなんて分からない。
彼女はかつてアマリリスの旧友を殺したらしい。
食欲に呑まれるままに捕え、アマリリスの目の前で喰い殺した。その光景はきっと、私が何度か見る事になったおぞましい光景と同じだっただろう。首輪をつけられて引き回された時、それを助けてくれた人間の女をあの悪魔が喰い殺した瞬間を忘れやしない。
普段は美味そうにさえ思える人間の血と肉の匂いが、吐き気をもよおすほどの脅威へと変わった瞬間だったのだから。
いつか自分を阻むかもしれない《赤い花》を抱えたアマリリス。
どちらにせよ、この女は避けられなかったのだ。あの里に足を踏み入れ、プシュケだけではなくグリフォスにも目をつけられた時から、この運命は決まっていたのかもしれない。
それは私も同じ事。
どんなに違和感があっても、どんなに納得がいかなくても、私は三神獣を取り戻す手助けをしなくてはならない。それがクロの愛したこの大地を守ることになると分かっているからこそ、そうしなければならないのだ。
「ティエラ様はこっちにいらっしゃるそうです――」
そう教えてくれたのは、蜻蛉の双子だ。
壁に生える蔦の声を聞き、まだ枯れていない植物たちの持つ情報を噂として耳にしているそうだ。弱き者特有の能力かもしれない。本当ならばその力を使って、敵から身を守るのだろうから。だが、彼らの能力は恐ろしく役に立った。
迷うこともなく、無駄に戦う必要もない。アマリリスをこれ以上焦らせることなく先へ進めると思えば、この上なく有難いことだ。
蔦の声を頼りに蜻蛉の子達が先導する。それを守るように一角が取り囲み、私とアマリリスはその後ろだ。うずうずとしているのは隣に居ても分かる。探りながら歩く蜻蛉の子に続いているのだから、進む速度はアマリリスにとって苛々するほど遅いのだろう。
「そう急くな」
私はアマリリスに小声で告げた。
「彼らに付いて行くのが今一番の近道なのだぞ」
「分かっているわ……分かっているけれど、落ち着かないの」
「引っ張られているのか、アマリリス」
そう問うと、アマリリスの目がちらりと私を見降ろした。
まるでただの人間のような表情をしている。今のアマリリスは獲物として、時に友としてかかわってきた人間の女とそう変わらない。
「勇者様という幻想に取り憑かれてはいないか。幾ら急いてもお前はただの魔女。魔女の中でも並み程度の力しか持っていないような女なのだぞ」
「それも分かっている」
やや不満げにアマリリスは息を吐いた。
「畏怖相手でもあなたのように素早く動けないし、一角の少年少女ほどの腕力も体力もないと思うわ。でもね、カリス、これだけは言っておくわ。幻想なんかじゃないの」
妙に確信を持った声色で、アマリリスは言う。
「ティエラが待っているのは私であって私ではない。三神獣も巫女も、そして神々もグリフォスも、私ではなくて私の身体に宿る《赤い花》だけを見ているのよ」
私にだけ聞こえるかという声。
虚しさを纏いつつ、口元にささやかな笑みを浮かべている。
「彼らが待っているのは勇者様。大昔にマルを救ったという私たちの祖先。《赤い花》を継承する者だけが彼になれるの。勇者様そのものに……」
「――なれるわけがない」
私は思わず否定してしまった。
「お前はお前として海巫女を救ったんだ。大昔の魔術師なんて甦ったりしない。飽く迄もお前はただの子孫であって、そいつではないんだ。神々がもしもそのようにお前に吹き込んでいるのだとしても、私は主張を変えない。いいか、お前はアマリリスなんだ」
どうしてだろう。
自分でもこんなにも頑なになるのが不思議だった。
「伝説に残るその男の代わりではなく、お前はアマリリスという名の勇者として巫女や神獣を救って、ゲネシスを断罪するんだ。そうだろう?」
縋るようにこの女に問いかけるのは何故だろう。
さほど遠くない場所よりティエラの嘆きがもう一度聞こえてきていることにすら気付けない程、気付けば私はアマリリスとの会話にのめり込んでいた。
同意が欲しい。
信じたくない。
アマリリスがアマリリスでない何かになってしまうことがどうしても許せなくて、どうしても恐ろしかった。
何故だろう。この女がクロの仇だからだろうか。分からない。アマリリスは夫の仇なのに、何故だか私はアマリリスが変わっていってしまうのが恐ろしかった。
私の信じた赤い花。私の憎んだ赤い花。その色と形を歪めてしまった巫女が、神獣が、そして神々が憎いとさえ思えるほどだった。
「カリス」
しかし、アマリリスの答えは何処までも距離のあるものだった。
「あなたは分かっていないのね」
そうとだけ告げて、アマリリスは静かに力を溜めた。
行く手で一角の少年少女たちが身構えている。どうやら、またしても新たに生まれた畏怖どもが行く手を阻んでしまっているらしい。