3.忌まわしさ
食事も風呂も決して悪いものではない。
ティエラの元へと私も向かうからだろうか、当然のようにアマリリスとほぼ同じ扱いを受けさせられ、何処となく落ち着かなかった。
悪いものではないが、手放しで喜べたわけでもない。
風呂なんて水浴びで十分だ。だが、体中蚤だらけでティエラの元に向かうなんて許されないのだろう。そもそも、その状態で行ったことがあるのだから今更でしかないのだけれど、あの時は非公式だった。今回は違う。
少数の大人と後は子供達という組み合わせはあまりよくない。
考えも身体も衰えつつある旧世代の価値観が、そのまま世代を飛ばして素直な子供達に押し付けられているのだから、厄介なものだ。
それもこれも、ゲネシスが大人の一角を減らしてしまったせいだ。
ただ、このような規模の町に大人がそれほどしかいなかった事も驚かされた。残りは今も蜻蛉の子の生き残りをティエラの里で守っているのだろうか。
食事を済ませ、風呂を上がると、アマリリスは客間に引きこもり、しばし思考に耽りつつ窓の外を見つめていた。
外では塵が降っている。
この塵で苦しむ者はこの場所にはあまりいない。生き残りの蜻蛉の子も魔族であるのだから、人間とは違って塵で苦しむ事はない。初めて見たゲネシスはあれに苦しみながらも私を威嚇した。喰われまいと必死になって威嚇していた。
あの時喰ってしまっていれば、どれだけ楽だっただろう。
後悔しても意味のない事だが、そう思わずにはいられない。
塵を見てはしゃぐのは魔物。ルーナの愉しげな声が一瞬だけ甦ったような気がした。アマリリスが時折思い出すのは、その無邪気な子猫のような面影だろう。
「私は勇者様になんてなれない……」
唐突に、アマリリスがぽつりと零した。
たどたどしくはあるが、少し前のアマリリスらしい様子が戻っている。
「焦りに抗うので必死なの。マルと向き合ったあの瞬間から、自分でもおかしくなったと分かってはいるのよ」
ようやくほっとした気持ちになれた。
この道中、アマリリスはただ先へ進むことしか見せず、自分の行動を冷静に振り返る様子さえ無かったのだ。余りにも躊躇わない彼女を前に、おかしいのは私の方なのかとさえ思わされるくらいだった。
だが、そうではない。
「今までの《赤い花》はどんな人々だったのかしら。神獣や巫女を救い、悪魔を罰し、その後はどう過ごしたのかしら。彼らの血筋は残っているけれど、彼らの話がそこまで残っていないのは何故。私はこのままどうなるのかしら」
不吉なものを孕むその言葉が、何となく忌避すべきものに感じた。
私は無理矢理笑みを浮かべ、答えてやった。
「かつての《赤い花》たちについては知らないが、お前の未来については簡単な事だ」
アマリリスがこちらを見つめる。
尊くも残酷な心臓を抱える魔女が。
「お前は狂う前に私に喰い殺されるんだ。かつてお前は狂おしいほどに私を求めたのだろう? その私に喰われることを有難く思え」
上手く捕えて今から喰い殺す人間を相手にしているように、私は言った。
ただ、その心の片隅には、今まで抱いたこともないくらい自分に対する嘘が燻ぶっているのを自覚していた。
私はきっと心の何処かでアマリリスに殺されたがっている。
かつてのクロと同じように。そして、未来のゲネシスと同じように。
「カリス……」
アマリリスは今の私の表情をどう捉えただろう。
嘘を吐くのは得意のはずだ。そうでなければ人狼は飢えてしまう。人間向けの肉食で人間の振りをして腹を満たしたところで、我々人狼にとっては栄養の足しにもならない。人一人諦めるとなれば、丸々と太った羊を十頭も襲わなければならなくなるのだから。
だが、そんな私の嘘をアマリリスは斜めに捕えていた。
嘘か真かという二択ではないものを心に抱いた様子で、アマリリスはふと硬かったその表情に笑みを浮かべた。
「そう……だったわね」
まるで仲間に慰められたかのような表情。この反応には舐められていると憤慨する人狼もいるのだろう。だが、私はそうではなかった。
「約束よ、カリス」
アマリリスは念を押すように言った。
「全てが終わったら、絶対に私を殺して。私が私でいる間に」
切実な思いは何処から来るのだろうか。
魔女の性に身を任せていた時のこの女は、自殺願望の片鱗すら見せてはこなかった。死する日までこの世の人狼を駆り尽そうと動くのだろうとしか思えない状態で、私はどうにかクロの仇を討とうと言う無謀な責任感に囚われていたのだ。
だが、プシュケとかいうあの海巫女はアマリリスを変えてしまった。
いや、変えたのではなく、これがアマリリスの本心だったのだろう。魔女の性に身を任せていたのだって、自暴自棄の現れだったのかもしれない。死ぬまで欲望を満たすことで、その時その時をただ生きていたのかもしれない。
いつからアマリリスはそんな哀れな生き物に成り果てたのだろうか。
きっと、私が出会った頃はすでにそうだったのだろうけれど。
「お前がお前でいる間とは、どういう状態の事だろうな」
「答えるまでもないわ。性に囚われない私よ」
即答だった。
それがやはり本心なのだろう。
「そうは言っても、お前は愉しそうだったぞ。私を追いかけている時も、バルバロを殺した時も、そして、クロを殺した時も――」
名も知らぬ同胞を殺していた時も、愉しそうだった。
物影から見ていた彼女はいつだって性に身を任せている時は愉しそうに見えた。私を庇い、死を覚悟しながら囮となっていったクロを殺している時も、信じられないくらい愉しそうに見えた。
だからこそ、憎さは増した。ただでさえ許せないというのに、どうしてこの女は愉しそうに私の大切な人を殺せるのだろうと。
「……そうね」
アマリリスは俯きつつ言った。
「……そうじゃ無かったとは言わない」
その姿を目にした途端、一瞬だけ血が滾るような思いが生まれた。だが必死に自分を落ち着かせ、私はアマリリスから目を逸らした。
「魔女の性を正当化し、身を委ねるのは醜いことよ。醜いと分かって抑えるか、解放するかは人それぞれ。私は身を委ねた。委ね過ぎてはならないと言いつけられていたけれど、ヒレンが死んでからはそれしか生きる意味はなくなったの」
そして身を委ねたアマリリスに私とクロは見つかった。
私たちは運が悪かっただけだ。それだけのことなのだろう。
「あなたを追いかけていた時、愉しかった。欲しくて堪らなかった。クロを殺した時もそう。でもね、まともならば魔女の性に囚われる者は、その性の対象となる行為をする時、計り知れない快楽を得て、それと同じくらいの自己嫌悪を与えられるの」
「自己嫌悪……」
「自分がいかに汚らしいのか。欲を解消した途端に我に返るのよ。ヒレンが生きていた頃は確かにそうだったはず。でも、ヒレンが死んでからその自己嫌悪すらも薄れていたのかもしれない」
ぽつりと言うアマリリスは、本当に初めて見た時とは比べ物にならないほど牙を失ってしまっていた。
あの時はともかく、今はそうであっては困る。
彼女にはこれからも強くいて貰わねばならないのに。
「馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように私は斬り捨てた。
「どれが本当のお前かだなんてどうだっていい。そのヒレンとかいう友の死後のお前だって、確かにお前なんだ。逃れることも出来ないお前の姿の一つだ」
「勿論、逃れるつもりなんてないわ……」
アマリリスは言う。
「だからこそ、あなたには――」
その真っ直ぐな目を直接受け止める強さが私にはなかった。
「あなたには、あなたの手で、私を断罪して欲しいの」
ただ、泣き出しそうなその声がいつまでも木霊する。