2.一角の長老
獣の町に残っている一角は、戦いに向かぬ者ばかりであるようだ。
頼れる精鋭たちはゲネシスによって肉片と化してしまった。彼らの最期も覚えている。死を恐れていなかったことはないだろう。だが、彼らは逃げ出さなかった。死ぬだろうと分かっていながらも、立ち向かった。
ベヒモスを殺されたのだ。
勝てないということは分かっていただろう。
それでもぶつかりに行ったのは、名誉の為だったのだろうか。
その結果、この町には戦える若者がいなくなった。いるのはまだ年若い子供と、旬を過ぎた大人、弱き者たち、そして老いた者たち。いかに神獣の血を引いていても、皆が皆、あの死んでいった者たちのように戦えるわけではないだろう。
そんな彼らが待ち望んだのは、勇者様の訪れ。
選ばれし赤い花の伝説を信じ、助けてくれるのだと願い続けた。
「始祖が倒れた以上、我ら一角にはもはや敵わぬ相手」
案内された屋敷の一室で、老いた一角の男は力なく言った。
「我々には優しき始祖の恋人を恐怖から救う事すら出来ない。そんな中、竜族の長から報せが飛んだ。あなたの訪れを予告するものだったのだよ、勇者様」
悲しげなその瞳が、アマリリスの姿を映している。
その悲しみは何に対するものだろう。死んでいった一角の若者たちへの追悼なのか、老いて満足に動けぬ己への虚しさなのか。
しかし、そのどれでもないように見える。
私には、彼の眼差しが、アマリリスに対する憐れみに見えて仕方なかった。
「恐怖に囚われ、悲鳴を上げ続けるティエラ様の亡霊は、今も畏怖という名の魔物を生みだし続けている。その奥深くへと辿り着くのは我らにも難しい。今の我らには神具を回収することも敵わなかった」
だから、彼らにはもはやアマリリスに頼ることしか出来ない。
勇者と化した《赤い花》に。
「勇者様、お願い申しあげる。どうか我らを見放さず、大社で眠る巫女の宝玉をもってティエラ様の亡霊を導いてやって欲しい」
「勿論、そうさせて貰うつもり出来ました」
淡々とアマリリスは答える。
「ティエラ様は私を待っています。ベヒモスを失い、恐怖に陥れられているのならば、すぐにでも助け出さなければ。彼女の事を思えば、今すぐにでも向かいたいくらいです」
奇妙な事に、アマリリスの声姿であるのに、アマリリスではないような気がした。
まるで魔女の性に狂っている最中のようだ。マルを救って以来、悪魔染みたものがアマリリスの中に宿っているような気がしてならない。
一角の長老にはどう映ったのだろうか。
年を重ねたその顔に浮かぶ表情は、一言では表せないように複雑な作りをしているようだ。念のため、邪魔にならぬところに控えていた私は、初めて口を開いた。
「こうは言っているが、この女はここ数日歩き通しだった。上手く利用したいのなら休息が必要だろう」
棘のある言い方かもしれないが、配慮するつもりなんて更々ない。
目的あって人を騙す時以外は、素直すぎるほど真実を述べた方が楽だ。その方が敵味方の区別が付きやすいのだから。
それに何故だか腹立たしかった。アマリリスが道具扱いされている事が腹立たしいのだ。
でも、何故だろう。この女はクロの仇。身勝手な欲望の為に最愛の夫を殺した殺人鬼。本来ならば、使い捨てられていい気味であるはずなのに。
一角の長老が不快そうに咳払いをした。
私の皮肉が少しは効いたのだろう。だが、それ以上深くは反応せずに一角の長老は静かに告げた。
「勿論、勇者様にはまず身を清めて貰います。力を失った我らの町とは言え、して当然のもてなしが出来ないほど衰えてはいない。勇者様には明後日の朝、案内人を立てた上で旅立って貰うがよろしいか」
私の事は無視して直接アマリリスに訊ねた。
それに対し、アマリリスは何処か不満げだった。動きたくて仕方ないのだろう。時間が無いとでも言うようにそわそわしている。だが、一角の長老に逆らう意図があるわけではないようで、渋々それに頷いてみせた。
かくして、アマリリスはティエラを救いに行く勇者様として持て成された。長老に失礼は働いたものの、私もまた一応アマリリスの従者として扱われるらしい。だが、変に干渉されるのは好きではない上、マルを癒して以降、私の中では神獣の子孫共に対する印象が変わってしまった。
こいつらは信仰の為に親しげにしていた他者を犠牲に出来る者たち。
我々人狼とそう変わらず、人狼でない分厄介だ。
私に出来るのはアマリリスの影に忍び、使い捨てられぬように見張ること。そこにはかつての恨みなど存在しない。私が恨むべきはアマリリスの中で燻ぶっていた魔女の性であり、アマリリス自体ではないのだから。
ともあれ、出発は明後日。
この間、ゲネシスとの距離がどれだけ広がろうとも、天罰は免れないだろう。だから、神々がどんなにアマリリスを急かしたとしても、さほど意味はない。
静かな客間に通されると、アマリリスは無表情のまま寝台の上に座った。
無言のまま抑えているのは焦燥感だろうか。狼の姿で足元に忍ぶ私に気付いていても、特に何も言わずにじっと床を見続けている。
一角の長老は彼女をどう見ていたのだろうか。
彼の言う「勇者様」という響きは、あまり好きになれそうにないものだった。