8.海の鎮魂
「プシュケ……いいえ、マル。これが今のあなたの姿よ」
アマリリスの声が妙に響いて聞こえる。
鏡を向ける先で、マルの亡霊はその空洞の目でじっとこちらを見ていた。いや、正確には、鏡に映る自分の姿を見ているのだろう。表情も分からないその姿で、無言のままに鏡とそれを掲げるアマリリスとを見つめていた。
「あなたは混乱している。混乱の中に囚われている。辛かったことを全て忘れたいのでしょうけれど、それではあなたの愛した御方は戻って来ない」
まるで何かに取り憑かれているかのように、アマリリスはマルの亡霊に告げる。
「本来の姿に戻りなさい。そして、思い出して。あなたは海巫女の魂。リヴァイアサンと共に海を治めてこの世界の全ての獣たちを守る者」
アマリリスの言葉に反応して、鏡が更に光り輝いた。
強烈なその光に目が眩む。
再び目を開けてみれば、そこにはもう、腐臭のような潮の匂いは漂っておらず、あの化け物のような姿のマルの亡霊もいなかった。
祭壇の前。リヴァイアサンの亡骸の横。
鏡から放たれた光に包まれながら蹲っていたのは、かつてこの目で見たプシュケという名の海巫女に非常によく似た人物だった。
半透明の身体。
実体のない中にも、はっきりとした意思の宿った眼差し。
目を覚ましたような表情で彼女は辺りを見渡し、そして、アマリリスの姿を見つけて茫然とした。
「勇者様……」
記憶にある通りのプシュケの声に聞こえたが、その声色は若干違う。
彼女こそ、本来のマルなのだろう。プシュケに生まれ変わるより前、遥か昔に初めてリヴァイアサンの元へと捧げられた頃のマルなのだろう。
「勇者様……私は……」
勇者。それはアマリリスの事。いや、アマリリスの中に宿る《赤い花》の事だろう。
マルの目に見えているアマリリスは、もしかしたら、かつて自分を救った青年の姿にでも見えているのかもしれない。
座り込んだままのマルに、アマリリスは静かに視線を合わせた。
「御目覚めになりましたか、海巫女様」
「私は――」
「御心配なく。あなたは悪い夢を見ていただけです。とても悲しい夢だったかもしれませんが、もうその夢は終わりました。二度と見る事はないでしょう」
「本当に? 本当に夢は終わったの?」
「ええ、だから、後は私たちにお任せください」
穏やかな表情で言うアマリリスを、正しい姿に戻ったマルの亡霊はじっと見つめていた。その姿からはとても、先程までのおぞましい姿を想像出来ない。かつてプシュケから感じた神々しさと同じものを宿したその眼差しで、マルはアマリリスをしばし眺めると、やがて、涙と微笑みを浮かべた。
悲しげでいて、安心しきっているようなその笑み。
「お願いします、勇者様」
幼げな声で、マルは言う。
「リヴァイアサンと私をどうか御救いください」
その声が響いた直後、亡霊の身体の全てが光に包まれ、光の粒となって拡散した。段々と羽虫のように天井へと昇っていくその光を、私もアマリリスも黙って見送った。
先程までの潮臭さもなければ、騒々しい咆哮も聞こえない。
静寂と神聖さを取り戻した聖堂のなかで、マルの亡霊であった光の粒が天井に当たって消えると同時に、床に転がっていた腐りかけたリヴァイアサンの遺骸が塵となって消えていくのが見えた。
これで、海を立て直す準備は整ったのだ。
脱力感と共に一つの達成感を味わっていると、鏡を抱きかかえたアマリリスが床に座り込むのを感じた。
「どうした、大丈夫か?」
「――ええ……」
申し訳程度の返答。その目の奥には疲労が窺えた。
巫女を癒すのに何か代償を奪われたのだろうか。真っ先に考えついたのはそんな可能性だった。魔術と言うものはそういうもの。ただで強い力を操れるわけではない。
だが、アマリリスの様子を深く窺うより先に、リンたちがこちらに駆けつけた。
「……御怪我はありませんか?」
控え気味に窺うリンの後ろでは、複数の狼たちがこちらを見つめている。
人狼たち。全員狼の姿だ。ということは、あの中年男も力を取り戻したのだろう。
そのタイミングは、巫女の鏡の光が部屋全体を包みこんだ時かもしれない。そのくらいの力がこの場所全てを覆ったのだ。マルに反応しての事だけだろうか。いや、それだけではない。鏡を持っていたのはアマリリスだ。《赤い花》を持つアマリリスの力を吸い取って、鏡はその力を放ったのだろう。
だとすれば、相当な無理をしたことになる。魔女にとって魔力は命の源。無理遣いをしすぎれば、身体には相当な負荷がかかったことだろう。
「力を使い果たしたらしい。こいつには休息が必よ――」
「いいえ。大丈夫。すぐに此処を発たせて貰うわ」
「アマリリス……」
驚いて咎めようとしたが、アマリリスは既に立ち上がり、一人だけ歩み出した。
おかしい。無謀過ぎる。幾ら馬鹿だと思っていても、これは異常に感じた。世界を放浪していた頃にはこんなことなかった。プシュケから役目を担った時だって、頭に血が昇ることはあっても、その状態にずっと呑まれている事はなかったように思う。
しかし、今のアマリリスは焦っていた。
早く次の社。ベヒモスの所に行かなくてはならないという想いに駆られ、自分の身体が当り前の生き物であるのだということを忘れてしまっているように思えた。
「待て、アマリリス」
その行く手を阻み躍り出ると、アマリリスは一瞬だけ殺気だった表情を見せた。
「どうした。何を焦っている。巫女の鏡に理性まで奪われたのか? しばらく休息してからでも遅くはないはずだ。とにかく座れ」
「いいえ、カリス。今すぐに行くわ。休んでいる暇はないの。ついて来たくなければ、リンたちと一緒にニフの待つ町に戻りなさい」
「どうしたというんだ……。おい、リン、お前からも何か言ってくれ」
もはや私の言葉程度では聞いてくれないだろう。
そんな時に頼れるのは、神獣の子孫の言葉だ。私とは立場の違うリンの言葉ならば、少しは聞いてくれるかもしれない。そんな僅かな期待を抱きつつ、私はリンたち竜族どもへと視線をやった。
けれど、そこには私の期待した態度は一切存在しなかった。
「勇者様の御心のままに」
リンの放ったたったその一言で、私は思い知らされた。
彼らが期待しているのは、彼らが縋っているのは、《赤い花》がもたらすという奇跡のみ。その関心は全て、この世界がどうなるかということだけであり、神話の戦いに身を投じたアマリリスという個人に対しての心配など一切ないのだ。
驚愕と軽蔑が込み上げる中、アマリリスは再び私を置いて先へと進んでいく。
「待て。置いて行くな」
慌てて追いかける私を、同胞たちが野次馬のように見送った。