6.死の臭い
その場所に踏み込むよりも先に、狼の鼻がその臭いを嗅ぎ取った。
マルの嘆きは何処まで自我を失ってしまっているのだろう。神話の数々からは想像も出来ない程、彼女は狂ってしまっているようだ。しかし、無理もないだろう。その場所、聖堂にあるのは腐りかけたリヴァイアサンの遺体。人間にとっては強烈な腐臭がするだろうその場所で、マルの亡霊は泣いているらしい。
腐肉の臭い。魔物に区分される我々人狼には大して辛いものでもない。アマリリスはどうだろう。眉を顰めてはいるが、辛いような表情を見せたりはしない。彼女だって人間ではないのだから当然だ。
しかし、その臭いと嘆きを前にすると、踏み込む足がやや止まりかけた。
混沌は残らず薙ぎ払ってしまったものの、いつまた現れるか分からない。それに、マルの声がもたらす負の風が、私たちの歩みを阻害するかのようにこちらに流れ込んできたせいでもある。
マルは拒絶しているのだ。
現実を受け入れる事を恐れ、混乱の中に閉じこもることで自分を守ろうとしている。
それを正さなければならない。どんなに残酷な事であったとしても、そうしなければならない。アマリリスの持つ鏡がその正当性を主張するかのように輝いた。
かくして私たちは、かつて聖堂と呼ばれていたその部屋に入りこんだ。
プシュケがリヴァイアサンを失い、アマリリスがルーナを失ったその場所。大量の血で穢されたその光景を今でも思い出せる。呆然とするアマリリスとそれに迫るゲネシスの姿も。命がけで悪魔から解き放ってくれた人間共のお陰で、私もまた永遠の仇を横取りされずに済んだのだ。
彼らの魂はきちんと天に昇っただろうか。
その途中で、殺された苦しみを思い出し、あのように嘆き悲しんではいないだろうか。その場所に広がっている光景は、そんな故人へのどうにもならない心配を抱いてしまうようなものであった。
「あれが……マルの亡霊……」
亡骸に寄り添うようにもぞもぞと動いている異形。
この世の何処にあのような魔物がいるだろうか。そのくらいおぞましい姿で、それは嘆いている。一見すれば蛇のようにも見えなくもないが、その姿は現実の蛇やそれに近しい魔族や魔物とは比べ物にならないほどにぶよぶよと破綻したものだった。
まるで水死体のよう。
水ぶくれし、ふやけた肌が露出したその姿。潮騒の臭いが強いのは、リヴァイアサンの亡骸ではなく、あの化け物の体臭かもしれない。
誰がどう想像して、あの化け物こそがマルの亡霊だと気付けるのだろうか。
生前のプシュケと比べるなどおこがましいほどに、穢れた怪物にしか見えなかった。海という世界の闇を一身に背負ったかのようなその姿。だが、どんなに姿形が変わり、その神聖さがおぞましさに変貌しても、巫女の鏡は躊躇うことなくアマリリスに真実を教えてくれるらしい。
「本当にあれが……」
思わず口走る私に、アマリリスは頷く。
「あれよ。間違いない。姿形は違っても、確かにあれの内面にプシュケに感じたものと同じものを感じる。あれこそ、混乱に囚われた海巫女の姿なのよ」
「現実を忘れてしまおうとした罰なのか……?」
「もしくは、リヴァイアサンを失った苦しみのせいかもしれない。とにかくあれでは海そのものがおかしくなってしまう。早く助けなきゃ……」
「助けると言っても――」
言いかけた時、マルの亡霊が大きく叫んだ。
船を惑わし難破させる魔物のように、その身体には全く似つかわしくないほど美しい声で嘆き叫んだ。
亡き主を呼ぶ巫女。
聞くだけで魂を握りつぶされるかのような歌声。
震えと涙が込み上げそうになるのを抑えて、私は狼の姿のままマルの亡霊の周囲を睨みつけた。聖堂の床は荒れてはいるが割れたりはしていない。けれど、その床の上に何処からともなくどろりとした不透明の水が湧き起こり、数体の混沌を生みだした。
ああやって生み出されていたのだ。
納得している内に、混沌は次々と生み出されていき、やがて、マルの亡霊をすっかりと隠してしまうほどに増えていった。
沢山の蛇やトカゲに囲まれる化け物。
どんな界隈で行われる縄張り争いなのだろう。魔物に区分されるはずの私でさえも、此処が聖域であった事を忘れてしまうくらいこの穢れた状況に、息を飲むしかなかった。
「マル、私たちは貴女を助けに来たのよ」
訴えかけるアマリリスの声も届きはしない。
何にせよ、この無力な女が混沌ごときに倒されれば意味がない。牙と爪をこれ以上得体の知れない穢れに曝すのは不服だったが、そんなわがままを押し殺して私はアマリリスの前へと躍り出て、一声吠えてから言った。
「混沌共。神々の意に反する貴様らは消えろ。我々はマルを救いに来た。リヴァイアサンに再び会いたいのならば、この女の意に従え」
無駄だろうことは重々分かっている。
けれど、少しでもマルの亡霊の理性を呼び覚ませないかと試さずにはいられない。巫女を脅かす者ならばともかく、巫女そのものと戦うなんてまっとうな生き物ならば忌避すべきことだろうと思ったからだ。
しかし、この状況は我々にとっても、もはやどうしようもないものに成り果ててしまっているようだった。マルの亡霊が人語ですらない声で鳴くと、蛇やトカゲなどの姿をした混沌たちが私たちをめがけて迫ってきたのだ。
戦うしかない。
どんどんと生み出されるこの混沌達を掻い潜って何としてでもアマリリスを亡霊に近づかせなくてはならない。
胃に穴でも空きそうな想いで身構えると、ふと、我々の前に別の人物が割り込んできた。
「遅くなって申し訳ありません」
静かにそう言って、彼女は人間には扱えぬほど巨大な武器で混沌の数体を一気に引き裂く。リンだ。返り血も浴びずに澄まし顔で次の獲物を切りつける頃、他の人物もまた気付けば私たちの傍に辿り着いていた。
あの人狼たちも一緒だ。全員追いついたのだ。