5.飼い犬
混乱に囚われたマルの嘆きによって生み出されるという混沌達。
リンたちに任せた時とは違い、一本道の行く手からこちらに向かってくるようだ。
こんな事ならば、人狼の一人でも借りておくべきだったかもしれない。だが、今さら後悔しても遅い。そして、背後から援護が来る事を期待するのも現実的ではない。
さて、どう動くべきか。
「カリス。援護をお願い」
冷静な声が響く。
アマリリスの目付きは既に目の前に現れようとしている混沌たちを殲滅しようという気で一杯だった。彼女ならば考えなしに最後の一体となるまで潰しきるだろう。
だが、そんなことは魔力の無駄遣いに過ぎない。
「援護はする。だが、お前は戦うな」
「――どうして?」
「私が道を作るから、お前はその後からただ前へ進む事を考えろ。此処で魔力を無駄に使うのは賢いとは言えない」
相手が一体ならまだしも、マルが呼びだす限り無数に湧いて来るとなれば温存しておかない理由もない。
私の意図が正しく伝わったらしく、アマリリスもやけに素直に同意した。
「じゃあ、そうして。カリス」
名を呼ばれ狼へと姿を変えて走り出す中、私はふと詰まらない事を考えた。
まるで、自分が魔女に飼いならされてしまった犬のように思えたのだ。力ある魔術師の中には我々のような魔物を使役する者だっている。そういった類の者に捕まるのは、誇り高い人狼にとって屈辱でしかないが、その尊厳に目を瞑るとなれば、多くの場合、使役される方にもされるだけの利点もあるものだ。
力ある魔術師ならば、使役した魔物に与えてやれる物も多い。それが魅力的であるからこそ、魔物は魔術師の言う事を聞く。
ならば、アマリリスはどうだろう。
赤い花の心臓は魅力的なのかもしれないが、我々人狼にはマニアに売れるだけの変わった代物でしかない。その他の力も並みの魔女程度であって、人狼がわざわざ言う事を聞くほどのものではない。男であったならば身体を要求出来たかもしれないが、生憎私は女に欲情する生き物ではない。
それなのに私は、アマリリスの飼い犬のように力を貸してやっている。
忌々しい気もしたが、別に気にならないような気もした。憎しみは消えないけれど、不快ではない。私が彼女に力を貸しているのは、神獣たちへの信仰のためだ。そう正当化する逃げ道がある限り、私は私の矛盾に苦しむ事はない。
ただ湧き起こる苛立ちは、行く手を阻もうと現れた混沌にぶつけさせてもらった。
混沌は蛇のように手足が無い者もいれば、トカゲのように四足で這うものもいる。だが、どんな姿をしていたにせよ、魔物ですらなく巫女の亡霊の混乱のみが根源であるその不安定な生命体に、純血の人狼である私が引けを取るなどということは一切なかった。
アマリリスの通り道を作る事なんて簡単だった。
苦痛もなければ、快感もない。
爪と牙で引き裂く度に、血すら流さずに滅ぶ混沌達が相手では、恐ろしいくらい呆気ないものだった。それでも、戦う爪と牙のない人間ならば苦戦するのだろう。それとも、彼らが弱く感じるのは、私がアマリリスと共に行動しているからなのだろうか。
《赤い花》の訪れは神々の約束であると言われている。
混乱に囚われて己の正体すら忘れているマルの亡霊も、赤い花の気配にだけは敏感であるらしい。その気配を時には怖がり、拒絶しようとするも、その根本ではやはり求めてしまうのだと言われていた。
マルと《赤い花》の青年の間で築かれた関係は、時を経てもあらゆる者たちが唄にして伝えてきたらしいが、その真偽は定かではない。
それでも、マルは本当に待っているのかもしれない。
自分を助けた青年を想い起こせるような人物の訪れを、その救いを、待っているのかもしれない。
その証が呆気なく滅ぶ混沌たちであるとしたら。
「カリス、気を抜いては駄目」
背後から忠告が聞こえ、我に返った。
苦もなく先へ進んでしまう我々に脅威を感じたのだろうか、混沌の数が増えてきた。マルの声は先程よりも大きくて、不安定なほどに揺れ動いている。
アマリリスの訪れを恐れているのだろう。
混乱から立ち直るのが怖いために。どうして怖いのかは分かる。マルの亡霊は現実を忘れたがっているから嘆いているのだ。新しい身体に生まれ変わり、リヴァイアサンと共に平穏に過ごすはずだった時間を打ち砕かれた事。目の前で心から慕う女神をバラバラにされてしまった現実を、忘れたいのだ。
正気に戻れば受け止めなくてはならなくなる。
生まれ変わる前に、その現実に正面から向かい合わなくてはならなくなる。
それが怖いのだろう。嫌なのだろう。
まるで、かつての私のよう。神話の存在であっても、愛する人を失った悲しみはごく普通の死に行く生き物と平等なのかもしれない。
拒絶と懇願。
その狭間で引き裂かれそうになっている巫女の亡霊。
混沌を葬れば葬るほど、彼女を安らかな道へと導きたいと思うようになっていった。教養ある生き物として当然の事なのだろう。悪魔の手に落ちた巫女を憐れみ、救おうとすることこそ、この世界の生き物として正しい姿なのだと私は信じることにした。
そして、飼い犬を徹し続けて暫くもしないうちに、目標の場所は見えてきた。