4.マルという女
マルという人物はどのような者だったのだろう。
あらゆる伝承や資料があったとしても、それらはすべて実物を見たことがなければ想像に過ぎない。人間達の描いた壁画があったとしても、そこから全てを受け止めることは不可能だろう。マルがどんな人物であったのか、それを推測するにはいつだってその時代の海巫女の姿が基準となるらしい。海巫女はマルの生まれ変わり。先代の死と同時に生まれ変わることで、常にリヴァイアサンと共にこの世界の均衡を手助けする。
だが、そうは言われても、今の海巫女は勿論、先代の海巫女までその目で見たことがある者なんて限られているし、その先代が若い頃となると、やはり絵画などを頼りに比べるしか手段はない。それに、いくら外見が似ていたとしても、中身まで同じだったかどうかなんて分かりやしない。プシュケの姿がどうであったにせよ、そのままマルという人物に重なるわけではないのだろう。
それでも、人々はマルの生まれ変わりを信じた。
他ならぬリヴァイアサンの声が聞ける者達がそう主張するからだ。
新しい巫女が生まれた日、神獣はその誕生を唄にして子孫たちや里の者たちに伝えるのだという。生まれたばかりの巫女は、その瞬間から不思議な魅力を放ち、周囲の人々を虜にする。そして、成長と共に神獣の声を聞くようになり、神獣の子孫たちに守られながら成長を待つのだと。
新しく生まれた恋人。遥か昔に赤い花に守られながら輿入れしたマル。そのマルを受け容れ、寿命が尽きるまで見守ったリヴァイアサン。その両者が歩んだ記憶など、プシュケは覚えていなかったのだろう。
しかし、リヴァイアサンはそんな恋人の訪れを待ち続けた。
待ち続けたくなるほど、巫女という存在は神獣にとって特別なものであったのだろう。そのように神々が創ったからなのか、否か。
どちらにせよ、マルはこの世に現れた時から狙われてきた。
リヴァイアサンを癒し、操る事の出来るその力は、神々への反逆を目論む悪魔に目をつけられた。だから、リヴァイアサンの元へと至るまでの間、神々は守護の力をマルの傍で戦う魔術師の青年に与えたらしい。
その青年こそが《赤い花》の心臓を持つ者。
守護の力は彼と同じ心臓を持つ者に受け継がれ、マルとリヴァイアサンだけではなく、他の巫女と神獣にも及んだと言う。
マルを救い、神々から選ばれた青年。
彼はどれだけ強かったのだろう。
かつては繁栄していたというその心臓も、いまではすっかり息を潜めてしまっている。だから、アマリリスという大して強くもない魔女が選ばれてしまう羽目になるのだ。
だが、伝説上の青年と今ここにいるアマリリスを比べるのも酷な話かもしれない。そもそも、最初の青年はその強さを神々から認められ、直接的に力を授かったのだ。どういう経緯かは伝わっていないが、最初からマルを守りたい理由があったのかもしれない。
けれど、アマリリスはそういうわけではない。
放浪していた時にたまたま立ち寄ったというだけだ。その偶然を神のもたらした奇跡だと主張する者もいるだろうけれど、本当に奇跡だったのならば、もっと力のある魔術師を使わすべきだっただろう。
アマリリスは伝説の青年とは全く違う。
巫女を守れず、僕を失って放心しかけるほどに弱いものだ。
今だって、私がついていなければ頼りなくて仕方がない。プシュケの置き土産とでもいうのだろうか。巫女に触れられて性を失ったせいか、獰猛さだけではなく利発さも失ってしまったように思う。
少なくとも、私の仇はこんなにも間抜けではなかった。
牙を失った彼女に慣れてしまったせいだろうか。私も私で、アマリリスが性に縛られていた頃のかつての緊迫を忘れつつあった。
――まるで、昔からの仲間のようだ。
「プシュケが呼んでいるわ」
啜り泣くような歌声が聞こえる中、アマリリスは行く手を見据えながら呟いた。
「違う、あれはマルだ。お前の知っている海巫女は死んだんだよ」
念入りに、私はアマリリスに言った。さっきも同じような会話をした気がする。アマリリスはそれを受けて、再び俯く。
「ええ、そうね。でも、あれはまさしくプシュケと同じ声だわ」
「生まれ変わりだから同じなのだろう。だが、お前を覚えてはいないかもしれないぞ」
「……それは分かっているつもりよ。なにしろ、混乱に苦しむ死霊だもの」
俯くアマリリスの胸元で鏡が仄かに輝きを強めた。
この鏡でどうやって慰めればいいのかなんて分からない。だが、間違いなくマルの声に反応しているとなれば、リンたちの言っていたように役に立つのだろう。
既に社の半分近くに踏み込んでいる。
鏡の反応と歌声の方向から察するに、プシュケが命を奪われた場所ではなく、彼ら二人が再会した聖堂へと向かわされているらしい。
聖堂。
その場所が今どうなっているのか、私は知らない。
あの事件があって以降、竜族達がこの聖堂に訪れたのかどうか聞いていない。訪れていたとしても、混沌が邪魔をして幽霊に近寄らせなかったかもしれない。となれば、聖堂はあの日のままだろう。
ゲネシスが犯した大罪。
バラバラにされたリヴァイアサンの骸が脳裏に今も焼き付いている。
今はまだ、鼻の曲がりそうな臭いはしてこない。しかし、死臭と呪いは聖堂一杯に沁み込んでしまったことだろう。
その場所でマルは混乱に囚われている。
かつて自分を愛して守ってくれた女神の骸の前で、現実を受け止めきれずに混沌を生みだし続けている。
ふと、そんな光景を想像していると、奇妙な臭いが行く手より流れ込んできた。
神獣の死臭ではない。
だが、死んでいる臭いに近いといってもいいくらい、嫌な臭いだった。
「アマリリス」
緊張を声に乗せて、私は唸った。
「来るぞ」
その一言で、どうやら察してくれたらしい。